第17章:兄に優しい妹《後編》
【SIDE:七森春日】
桜華が自分の非を認めてついに僕に対して普通に接してくれるようになった。
それは僕にとっては何よりも嬉しいことである。
これで僕はもう彼女に怯える日々からおさらばできるんだ。
しかし、何が桜華の考え方を変えたのだろう?
この間の告白……それだけではないような気がするんだ。
まぁいい、今の僕の気持ちは晴れ渡る空のように爽快だ。
放課後の園芸部も気分よく皆と活動する。
「そういえば、春日先輩は夏向けの花ってどういう花にしたんですか?」
後輩の女の子たちにそう尋ねられた僕は今度蒔くための種を取り出す。
「ジニアって知ってるかな?」
「和名で百日草のことですよね。文字通りに百日間くらい咲き続けるお花でしょう?夏の定番中の定番のお花です。あの花は可愛いんですよ」
ガーデニングをしている人ならよく知る花、百日草。
僕もジニアは過去に何度も育てている。
長い間、花の咲くところから百日草と呼ばれている花だ。
「そう。ジニアはとても育ちやすくて、初心者にもぴったりの花なんだ。僕はそのジニアの別系統にあたる花、ジニア・リネアリスを育てようかなって」
「リネアリス……?ただのジニアじゃないんですか?」
「これが花の写真。葉の部分が普通のジニアと違って細長いだろう。リネアリスっていうのは“細い線”って意味なんだ」
種の説明写真には黄色く咲くジニア・リネアリスの写真がのっている。
ちょうど、5月初旬から6月にかけて花の種を蒔くと夏ごろには綺麗な花を咲かせる。
晩秋まで長期に渡って楽しめる花なんだ。
僕はその種を希望者の分だけ調達することにした。
「私も育ててみたいですっ」
「それなら、僕がついでに注文しておく。他にはどう?」
今年は部員が増えた分、園芸部の予算を数割増しつけてもらえたので、備品も数年ぶりに新品へかえたり花の種を多めに買うこともできる。
「先輩、この花を育ててみたいんですけど、大丈夫ですか?」
花に興味のある新入生の子は花の図鑑を指さしながら言う。
夏向けの花は色鮮やかで元気なイメージの花が多い。
「あぁ。その花なら今の時期に種を蒔けば夏休みまでには咲くと思うよ」
「それじゃ、この花の種を注文して欲しいんですけど」
「分かったよ。手配をしておく。皆、注文書にそれぞれの名前と花の種を書いておいて」
「「はーいっ」」
園芸部の活動にも後輩たちは慣れ始めて、ずいぶんと皆と親しくなる事が出来た。
花を育て、愛でることの楽しさ。
それを知ってもらえただけでも、僕としては非常に満足している。
やっぱり、花はいいよねぇ。
心が和むし、落ち着くし、我が侭言って困らせたりしないのがいいんだ。
「――春日お兄ちゃん、まだかかりそう?」
ふいをつく桜華の登場にも普段の僕ならビビりまくるが、今はちょっと違う。
「桜華?あぁ、もう少しだけ部活はあるけど、どうしたんだ?」
「一緒に帰ろうよ。私もちょっとした事情で居残りだったの」
変な意味のドキドキ感は消えて、彼女の存在を受け入れている自分がいる。
……これだよ、これが僕の望んでいた理想的な兄妹の関係なんだ。
桜華は僕が手にしていた花の種に目を向ける。
「それが今度、お兄ちゃんの植える予定の花なの?」
「そうだ。ジニア・リネアリス、僕の好きな花でもある。そういや、桜華はアネモネが好きだったようだけど、何か理由でもあるのかな?」
以前にあげたアネモネの花が好評だった事を、ふと思い出した。
こういう時ぐらいしか聞けない話題でもある。
すると、彼女は僕の予想もしていなかったことをいうのだ。
「……アネモネは大好きだよ。だって、お兄ちゃんが初めてくれた花じゃない」
「え?それって……?」
「アネモネ。お兄ちゃんが両親に頼んで買ってもらった球根から育てた花だよ。私に初めてくれた花がアネモネだったの。私はあんなにも綺麗な花を見たのはすごく衝撃的だったんだ。今でも覚えているわ」
それは知らなかった、桜華にとってもアネモネが特別な花になっていたなんて。
確かに僕は初めて花を育て、それを妹にプレゼントした記憶はある。
しかし、それがアネモネでどうだったとかまでは実際に覚えていない。
それでも、桜華にとってはいい思い出らしい。
「そうだったのか。また来年、アネモネの花束をプレゼントするよ」
「それは楽しみにしている。ほら、帰りましょう」
僕らはくすっと笑いあう。
いいなぁ、桜華と理解しあえるっていうのは本当にいい。
知らなかったことを知れるチャンス。
僕は自分の心が躍るように楽しく感じていたんだ。
妹の変化に喜んでいた僕なのだが、周りの目はちょっとばかりおかしいらしい。
数日後、信吾お兄ちゃんが僕を授業のあとに呼び出してきた。
職員室に呼ばれたので、何事かと思ったけど、用件は桜華の話だ。
「最近、お前の妹が激変したって話を聞いたが、どうなんだ?俺にはいつも通り過ぎて分からなかった」
「僕に対してだけ、なんだ?」
「そのようだな。あの子はちょいと問題はあるが、根はそれほど悪い奴じゃない。素直になる事にこしたことはないだろ」
妹相手にそう言うのもどうかと思う。
だが、それを言わせているのは彼女の日ごろの行いだろう。
「桜華って笑うとか可愛らしいんだ。何か改めてその魅力に気づいたって言うか」
「おいおい、それは心を許し過ぎていないか?相手はあの桜華だぞ」
「その考えが間違っていたんだ。本当の桜華は可愛い女の子なんだ。その表現の仕方が間違えていただけで、純粋な子だった。僕はホントの彼女の心を知ったんだ」
この数日間で僕は桜華の可愛らしさを知り、彼女に惹かれつつあった。
僕らは十何年もすれ違い続けていたんだ。
「一週間前までその妹におびえ続けていた春日はどこにいった?」
「理解を深めるって言うのは大切なことじゃないか。僕と桜華はもう大丈夫だよ。それに何と言っても『お兄ちゃん』って桜華が呼んでくれることが嬉しい」
「それが桜華の罠だと思うがな。何をあっさり引っかかっているんだ。人がいいからすぐに騙される。それは春日の悪いところだぞ。将来、保証人にだけは絶対になるなよ」
僕に忠告する彼の言葉を僕は否定する。
「大丈夫だって。桜華が僕を騙してどうするつもりなのさ?」
「甘く接してくれたからと言って、心を許し過ぎてはいけない。桜華の怖さはお前が誰よりも身を持って知っているはずだ」
「うぐっ。それはそうかもしれないけど」
「春日が桜華に好印象なのはいいが、痛い目を見るのもまた自分だという事を忘れるな。桜華はどんな罠を底に仕掛けているか分からない」
信吾お兄ちゃんの警告、僕は頷くけども内心は安心もしていた。
心を入れ替えてくれた桜華が今さら罠などはる必要などない。
それは彼の心配し過ぎてあり、事実とは異なるものだ。
「……ちょっと優しくされたくらいでここまで呆気ないとは俺の予想外だな」
「だから、お兄ちゃんも桜華に対して警戒しなくていいよ」
「ふぅ、俺の考えすぎならいいが。春日の哀れな姿が想像できてしまうんだ」
その予想、きっと外れるって僕は確信があった。
今の桜華は昔とは違うのだから。
職員室から出た僕は偶然、同じく職員室から出ようとする和音ちゃんと出会う。
GWのデート以来、久しぶりに会ったな。
「お久しぶりです、七森先輩」
「うん、そうだね。和音ちゃんも職員室に何か用事だったの?」
「はい、課題の提出をしてきたんです。先輩は?」
「僕は先生に個人的な用事があったんだ。信吾おにい、じゃなかった。英語教師に七森信吾って先生がいるじゃないか。あの人、僕の従兄弟なんだよ」
廊下を歩きながらクラスに戻るまで雑談する。
彼女はとても自分でも話がしやすい女の子のひとりだ。
「そうなんですか。人気の先生ですよ。面白いし、カッコイイし……ただ、授業の方が少しだけ脱線しすぎな気もしますが」
「だけど、いい先生だよ。僕は従兄弟としてとても頼りにしているけど、皆からも先生として評価は高いから」
気さくな性格から皆にとってはいい兄貴分と言った感じかな。
「そういえば、桜華なんですけど……」
また桜華についての話題だ、今日は会う人によく言われるな。
それほど、彼女の変化に皆が気付いているということか。
しかし、和音ちゃんは僕の予想していなかった言葉を発する。
「以前に言ってましたよね、桜華の好きな人の話。実は私、誰なのか分かったんです」
その発言に「……え?」とドキッとしてしまう。
だって、それってつまり……僕と桜華の関係が知られたということだから。
「ち、違うんだ。あの告白は……」
「告白?いえ、桜華はまだしてませんよ?桜華の好きな人はこの学校の3年生の先輩みたいなんですよ。どうにも怪しい雰囲気でした」
……何ですとっ!?
「まだ、どの人っていう特定の名前までは分からないんですが、中学の時くらいから付き合いのある人がいるらしくて……。その人の事をずっと思っている、そんな素振りを見せていたんです。3年生の人だったんですねー」
「あ、あぁ。そうか……桜華には好きな人がいたんだ」
僕は自分を落ち着かせるようにして言うけれど、動揺していた。
「また何か分かったら連絡します。それでは、私はここで」
僕は和音ちゃんの後ろ姿を見つめているだけしかできなくて。
いつのまにか、桜華は僕以外の好きな人を見つけていたらしい。
もしかして、この頃、優しくなったのはその影響だと言うのか?
桜華は僕にこう言ったじゃないか。
『世界中で私には春ちゃん以外の男なんていらないの。これは本当の事よ』
あの想いを否定した僕への想いはどこに?
いや、もうないのかもしれない。
今までの主従関係、いや、兄に意地悪するのは妹が照れ隠しにすることだとして考えるといろんな疑問が解決していく。
妹の優しさも、お兄ちゃん発言も……。
だとしたら、今の桜華の行動は僕への想いを捨てたから?
桜華がいつか僕から離れて行ってしまう、僕はそれを望んでいたはずなのに。
実際に彼女が兄離れしようとすると寂しさを感じてしまうんだ――。