第16章:兄に優しい妹《前編》
【SIDE:七森春日】
ゴールデンウィークが明けてからどうにも妹の桜華の様子がおかしい。
……嵐の前の静けさ、その言葉がよく似合う。
あの桜華がこの3日間、僕に対して何もしてこなかったのだ。
普段なら涙なしで語れない主従関係を強いられているのに。
「……ここまで静かだと逆に何か怖いな」
朝、目が覚めた僕はリビングを覗き込むと何やらキッチンで悲鳴が聞こえた。
「きゃっ!?うわぁ、どうしよう。ママ、次はどうするの?」
桜華の声だが、何をしているんだ?
こっそりと物陰に隠れて、様子をうかがう。
「慌てないで。ゆっくりとすれば何も問題はないの。ほら、手は止めない」
「うぅ、料理なんて……おっ、何かいい感じじゃない。私ってセンスあるかも」
「桜華は手先は器用だからすぐに覚えると思うわ。それより、今まで手伝いすらしてこなかったのに突然、料理を覚えたいなんてどうしたの?」
母さんと桜華がなぜか料理を作っている。
……これはまだ夢の中だというのか?
あの面倒くさい事は他人任せ、楽に生きて何が悪いと言い切る女王様の桜華が自ら料理をするなんて珍しい。
「いいじゃない。私にだってそう言う事ぐらいするもの」
「そう?まぁ、そう言うことにしておきましょうか。ふふっ、桜華は分かりやすいわね」
「……ふんっ。別にアイツのためなんかじゃ……ハッ、殺気!?」
いや、殺気じゃないから!
むしろ、殺気を放つのは桜華の方でしょうが。
僕は菜箸をこちらに投げつけようとする桜華の攻撃を防ぐために慌てて飛び出す。
「お、おはよう。こんなに朝早くからどうしたんだ?」
桜華はこちらに気づくと、菜箸を投げるのをやめてくれた。
2人に声をかけると桜華は僕に予想外の姿を見せる。
「おはようございます、春日お兄ちゃんっ♪」
満面の笑みでそう答えて僕に頭をさげる桜華。
お兄ちゃん、久しぶりに桜華の口からその言葉を聞いたぞ。
ていうか、桜華が僕にお兄ちゃんって呼ぶなんて……?
思わぬ行動に思考がついて行かず、フリーズしてしまう。
それは母さんも同じようだった、娘の発言に驚いている。
「……あ、えっと?お、桜華?」
「どうしたの、お兄ちゃん?ほら、早く顔を洗ってきて。今日は私が手伝っているの。もう少しだけ準備は待ってね」
「あ、あぁ……そう言う事ならすぐに顔を洗ってくるよ」
どういうことなのか、母さんの顔を見るが首を横に振る。
彼女も桜華の変化には心あたりがないらしい。
とりあえず、リビングを出て顔を洗ってから戻ってくる。
そのわずか数分の間にテーブルの上には見た目がひどく崩れた卵焼き、訂正、美味しそうな匂いがするスクランブルエッグが置かれていた。
ご飯とお味噌汁、そして卵焼きというメニューならこの崩れ方は人為的なものであると思われる。
和食料理でスクランブルエッグを料理として出すにはミスマッチだからと、推測するが決して口に出しては言えない。
思わぬ一言で命の危機に瀕するのは勘弁願いたい。
「ほら、今日の挑戦はこのお味噌汁と卵焼きなの。食べてみて……」
「え?えっと、母さんの料理は?」
「私は今日は手を出していないわ。テーブルに並んでいるのは全部桜華の料理なの。この子、全然料理とかしないけど、手際よくて逆に驚いたもの」
母さんも桜華になんと恐ろしい真似を……。
桜華に包丁を握らせてはいけないのだ。
別に深い意味はなく、ビジュアル的に危ないイメージが容易に想像できるだけだが。
さて、せっかく作ってくれたというのであれば食するべきである。
「いただきます」
一口食べて、甘い味が広がっていく。
見た目はひど、訂正、綺麗に仕上がっているスクランブル(以下略)だが、味の方はそれなりに美味しい……。
分量とか母さんの傍にいれば間違えることもないからな、うん。
焼いたお魚も塩加減もいいし、おみそ汁もいい具合だ。
「桜華、美味しいよ。いいじゃないか、料理ができるなんて……」
とりあえず褒めてみると、桜華は頬を赤く染める。
「やだぁ、お兄ちゃんに褒められちゃった。嬉しいっ」
ナンダコレ?
……桜華が僕の言葉で赤くなるなんてありえない。
今日は何とも不思議な光景を見ているようだ。
「……はい、お弁当も作ったの。今日は一緒に食べようねっ」
笑顔、笑顔、笑顔……裏表のない彼女の微笑み。
これは何かの罠なんだろうか、僕はすでに彼女の術中にハマってるのか。
ワケの分からないまま、僕の一日が始まろうとしている。
昼休憩になれば僕は桜華に連れられて、屋上で一緒に食事をすることに
彼女と食事なんて、高校に入学してきてからは初めてだろう。
「今日のお弁当は結構自信作なの」
僕がお弁当箱を開けるとおにぎりと卵焼きにウインナーとサラダという何とも可愛らしい小学生向けお弁当だった。
子供の頃によくこういうの作ってもらったっけ。
……でも、相変わらず卵焼きはスクラ(以下略)の状態なのね。
「どうして、いきなり料理なんてしようと思ったんだ?」
「ママと同じことを聞くのね?私が料理をすることがそんなにおかしなことかしら?」
そりゃ普段の彼女を知る人間ならば誰だって気になることだ。
桜華はお弁当を食べる箸を止めると、僕に穏やかな口調で言う。
「お兄ちゃんのお役に立ちたいの。こういう事ぐらいしか私はできないから」
本日何度目かの疑問の言葉を口にすることを許してほしい。
今日の桜華は……かなり変だ、マジでおかしい。
昨日までの横暴という言葉を形にした女の子はどこに消えた?
偽物なんじゃないのか、だって、お兄ちゃんって冗談でしか言わない子だぞ。
「そんなに変かな……。私が料理したりすること」
「う、ううん。そういう意味ではなくて」
「今まで、お兄ちゃんに対して私はすごく辛い想いをさせていたの。それに反省して、私はお兄ちゃんにとっていい妹になりたいんだ。大好きだよ、お兄ちゃん」
まるでドッキリを仕掛けられたているような心境で慎重になる。
騙されてはいけない、桜華の罠かもしれないのだ。
「ほら、今日の一番の自信作はこの卵焼きなんだ」
「え?これが自信作なのか!?」
つい本気で驚いてしまう、だって桜華があまりにも自信たっぷりに言うから。
彼女は僕の言葉に傷ついたらしく、瞳を潤ませてしょげてしまう。
こんな消極的で落ち込んだ桜華は初めて見る。
「やっぱり形がちょっと悪いよね、ごめんなさい。それでも、明日はまともな形になるように頑張るから……お兄ちゃんの好きな卵焼きを作れるようになりたいの」
まぁ、確かに僕は卵焼きが好物ではあるけど……。
ふんわりとした母さんの卵焼きに敵うものはない。
それに何より、あの桜華が僕のために料理を作ってくれたと言う事実に何よりも喜ぶべきだろう。
この見た目はスク(以下略)の卵焼きも味はかなり母さんのものに近い。
「味はとてもいいよ。焼き加減も悪くない。うん、美味しい」
「ホントに?ありがとう、春日お兄ちゃんに気に入られて超嬉しいっ」
僕の何気ない言動に一喜一憂する桜華。
妹の豹変に戸惑ってはいたが、こういう桜華も悪くない。
むしろ……本当の妹でみたいで可愛らしいじゃないか。
そうだよ、今までがおかしすぎたんだ。
兄と妹、その関係は決して一方的な兄<妹ではないのだ。
何やら分からないが、桜華は心を入れ替えてくれたらしい。
「ごちそうさま。美味しかったよ、桜華」
「また明日も作ってきていい?」
「桜華が作ってくれるならもちろん……」
「えへへっ。お兄ちゃん、そう言ってくれる優しさが好き」
元々、かなりの美少女である桜華が微笑めば可愛いのだ。
それまで、恐怖の代名詞、象徴とも言える存在だっただけに直視できずにいたが、改めて見ると桜華はとても可愛らしい女の子に思えてくる。
すっかりと彼女に心を許してしまう僕はベンチに座りながらお茶を飲む。
のどかに流れていく雲の流れを見上げると、
「気持ちのいい五月晴れだな」
「ホント。いいお天気だよ。気持ちのいい天候の下で食べるお弁当って最高だもの」
桜華と天気の話題で会話をするとは、思わず遠くを見つめてしまいたくなる。
今までの僕たちの関係とは明らかに違う、変わり始めた関係。
「なぜ、僕の事を……お兄ちゃんと呼ぶようになったんだ?」
僕は踏み込んで尋ねてみると、彼女は言うんだ。
「私、気づいたの。自分がとても自分勝手で我が侭な女の子だったということに。そういう嫌な自分を乗り越えたいんだ。お兄ちゃん、私は妹として誇れる人間になりたいよ。お兄ちゃんに甘えられる可愛い妹として……」
「桜華……そうか、ついに兄の心を理解してくれたのか」
「うん。これからも頑張るからね、お兄ちゃんっ」
感涙しそうになるくらい、素晴らしいことが僕に起きている。
顔を見れば女顔だと、暴言を吐く生意気な妹。
その彼女が心を入れ替えて、僕に接してくれる日が来るなんて。
実はこれは夢なんじゃないか、まだホントの僕はベッドの中にいるのではと、先ほどから何度も足をひねって痛みを与えてそれが夢ではないことを確認している最中だ。
「人は変わろうと思った時から変われるんだよ。それを受けとめてくれる人いるのなら、いつだって変われるの。私のこと、受け入れてくれる?」
人生をやりなおしたいと嘆いていた日々よ、さよなら。
まるで僕の新しい人生が始まるような素晴らしい展開だ。
「……僕は新しい桜華を受け入れるよ」
義妹の新たな魅力に僕は心をときめかせていた。
……それが桜華の巧みな何重にも仕掛けられた罠だと気付かずに。