第1話 クローゼットの奥で、時間が止まっていた
「……寒っ」
指先がかじかむ。
窓の外は白い息。カレンダーは三月。卒業式まで、あと五日。
私は、部屋の隅のクローゼットに向き合っていた。
引っ越しの段ボールが積み上がる。ガムテープの端をめくる音だけが、やけに大きい。
「これ、全部持ってくの? さすがに、多すぎるよね……」
呟いても、返事はない。
クローゼットの扉は、私の独り言を飲み込んで、黙っている。
奥に、古い箱が見えた。
白い、靴の箱みたいなやつ。フタの角が少し潰れて、埃をかぶっている。
見なかったことにしよう。
そう思った。ほんとうに。
でも――手は、伸びてしまう。
フタを開ける。
ふわっと、紙の匂い。乾いた冬の空気に混じって、昔の教室みたいな、チョークの粉の気配がする。
中には、紙片、リボン、写真。
そして、封筒。
白い封筒に、黒いボールペンで、はっきりと名前が書かれていた。
「朝霧 湊へ」
喉が、きゅっと鳴る。
世界が、少しだけ揺れた気がした。
……湊。
私が、ずっと、名前を読まないようにしてきた人。
封は、閉じている。
差出人の名前は、どこにもない。
でも、私は知っている。
これは――私の筆跡じゃない。
心臓がバクバクする。
箱を閉じたくなる。現実から目をそらしたくなる。
けれど、目は封筒から離れない。
息を吸って、吐く。もう一度、吸って、吐く。
震える指で、封を切った。
便箋は、一枚。
さらさらとした字。
湊へ
あのとき、クローゼットの中で泣いていた私を、見なかったふりをしてくれて、ありがとう。
見つけてほしかったのか、見つからないでほしかったのか、今でも分からない。
でも、あなたが扉を閉めてくれた音を、私はたぶん、ずっと忘れない。
卒業したら話すつもりだったことが、間に合わなかったら、この手紙は捨ててください。
私は、あなたが好きでした。
――
結びの名前は、ない。
最後の「――」だけが、行を引いて、そこで言葉を失っていた。
息をするのを忘れていたらしい。胸が痛くて、慌てて空気を吸う。
封筒の表をもう一度見て、裏返す。やっぱり、手がかりなんて、どこにもない。
頭のどこかが言う。
これ、私じゃないよ。
私じゃないけど、彼の名前が、ここにある。
胸の真ん中で、かたくなに閉めたはずの箱が、内側からカサ、と音を立てた。
やめよ。やめよう。やめたほうがいい。
でも、止まらない。
湊には、彼女がいる。
学校で一番きれいって言われる、あの先輩。
手の届く人に、手の届く笑顔で、ちゃんと隣にいる人。
私は、違う。
私は、ずっと、隣じゃなかった。
――なのに、どうして。
どうして、息が苦しいの?
便箋を折りたたんで、封筒に戻す。
箱の底をもう一度見ると、小さな写真が一枚、反り返っていた。
文化祭のときの、教室の写真。
黒板に「喫茶あさぎり」とチョークで書いてある。
カップを持って笑っている、みんな。
その端っこに、飾り付けのカーテンの影。
カーテンの向こう、クローゼットの扉。その隙間。
ほんの小さな影。
そこに、目が吸い寄せられる。
「……私?」
ぼやけた影の輪郭は、たしかに私に見えた。
でも、確信はない。
ただ、写真の中のクローゼットは、今と同じ場所で、同じように、少し扉が歪んでいる。
携帯が鳴った。
びくっとして、画面を見る。メッセージが一件。
湊:
《明日のホームルーム、委員長、議案まとめ頼める? 先生に出すやつ》
《あとで職員室前で受け渡し可?》
呼吸が止まる。
画面に映る、たった数行。
それだけなのに、胸がざわつく。
私は、返事を打つ。
《了解。放課後、職員室前で》
送信。
指先が冷たい。
なのに、頬は熱い。
便箋を、もう一度取り出して、見ないふりをして、結局見てしまう。
「クローゼットの中で泣いていた私」
……そんな記憶、あったかな。
あの日。
文化祭の片付けのあと。
教室の飾りを外す音、階段を上がってくる足音、夕方の光。
私はどこにいた?
思い出そうとすると、頭の奥がじん、と痛む。
冬の光で薄くなった埃が、部屋に雪みたいに舞っている。
「私、どうしたいの」
声に出してみる。
クローゼットは、やっぱり黙っている。
――ほんとうは、分かってる。
私が、何を見つけてしまったのか。
何を、もう一度拾い上げようとしているのか。
私は箱を抱えて、ベッドに腰を下ろした。
スマホのメモを開く。指が勝手に動く。
ToDo
・委員会の議案まとめ
・職員室前で湊に渡す(17:10)
・手紙のことは言わない
・クローゼットの箱は引っ越しの段ボール「思い出」に入れる
・卒業まで泣かない
最後の一行だけ、太字にする。
たいした効き目はないけど、呪文みたいに書いておく。
夜。
布団に入っても、目が冴える。
天井に街灯の明かりが四角く切れて、その中に、封筒の文字が浮かんでは消える。
朝霧 湊へ
名前って、どうしてこんなに強いんだろう。
呼んだだけで、胸の中に風が吹く。
会っていなくても、昨日のことみたいに、全部が戻ってくる。
返事のない「――」のあとに、何を書こうとしたの。
あの子は。
あの子は、誰。
まぶたを閉じる寸前、私は決めた。
明日、湊に会っても、何も言わない。
そして、写真の影のことを、図書室で調べる。
文化祭の写真、アルバム、記録。
委員長特権で、アーカイブにアクセスすれば、きっと何か分かる。
眠りは浅くて、夢の中にまで、クローゼットがついてきた。
扉が少し開いて、向こう側は春の匂い。
私は手を伸ばして――目が覚めた。
朝。
制服のスカートにアイロンをかける音が、妙に真面目に響く。
鏡の中の私の目は、少し赤い。
学校。
終礼が終わって、廊下はざわざわしている。
「卒業式どうする?」とか、写真撮ろう、とか、進路の話とか。
私はノートを抱えて、職員室前のベンチに座った。
ほどなくして、湊が来た。
黒い髪が少し伸びて、前髪が目にかかる。
相変わらず、笑うと、目尻に皺が寄る。
「委員長、助かる。ありがとう」
すっと受け取る手。
指先が触れそうで、触れない距離。
「期限、明日だっけ。先生に渡しとく?」
「ううん、こっちで出すよ。念のため」
「了解」
それだけ。
それだけの会話で、心は勝手に走り出す。
危ない。落ち着け。
帰ろうとした、そのとき。
職員室のドアが開いて、先輩が出てきた。
湊の彼女。
ふわっと、柔らかい匂い。
目が合う。
先輩は笑った。
「委員長ちゃん、いつもありがとう。湊、お弁当、今日の、どうだった?」
「あ、うまかった。卵焼き、あれずるい」
「でしょ?」
笑い合う二人。
私は、笑えない。
喉の奥に、小さな石が詰まったみたいになる。
「じゃ、私、これで」
言って、逃げるみたいにベンチを立った。
階段を下りて、図書室へ。
走らない。走ってない。
でも、心だけは、全力で走っていた。
図書室の奥、学校アルバムの棚。
文化祭のフォルダを引き出す。
写真が入った透明ファイルが、ずらっと並ぶ。
指先で、時系列に並ぶ教室の景色をめくっていく。
飾り付けの朝。準備。
喫茶「あさぎり」の看板。
湊が、ポットを持って笑っている。
あの子が、隣で紙ナプキンを折っている。
ページの端が、少しだけ引っかかって、破れそうになった。
慎重にめくると、そこに――
クローゼット。
半開きの扉。
斜めに差す午後の光。
その隙間に、見える横顔。
私。
やっぱり、私だ。
でも、私が覚えている私は、そこにいない。
あの日の私は、受付でスタンプを押して、途中で手がしびれて、後輩に交代して――それから?
写真のキャプションに、手書きの文字があった。
「クローゼットの妖精、発見」
「……誰が、書いたの」
声が出た。小さく。
カウンターの向こうにいた司書の先生が、顔をあげて笑った。
「懐かしいね、それ。文化祭のあと、写真係の子が遊びで書いたのよ。確か――」
先生が言いかけて、入り口のほうに目をやる。
私も振り向く。
そこに、湊がいた。
肩で息をして、ドア枠に片手をついて、私を見る。
「委員長」
名前を呼ばれる。
空気が、一秒だけ止まる。
「さっき、渡された議案、確認してたら――これ、委員長の字じゃないんだけど」
彼の手に、白い封筒。
朝霧 湊へ。
私のクローゼットにあったのと、同じ書き方。
同じ太さのペン。
同じ、黒。
鼓動が、耳を叩く。
足が床に貼りついたみたいに、動かない。
「職員室前のベンチ。座ってたとこに、挟まってた。……委員長のじゃないなら、誰の?」
湊が、一歩、近づく。
図書室の窓が冬の光を反射して、彼の横顔の輪郭が、やけにくっきりする。
「ねえ、委員長。クローゼットって、さ――」
彼が言葉を探す間。
私の視界の端で、アルバムの写真が風にめくられた。
次のページ。
クローゼットの扉を閉める、誰かの手。
それは、湊の手に、見えた。
喉の奥の石が、音を立てて落ちる。
声が出た。自分でも、知らない声。
「――湊、あのね」
言った瞬間、チャイムが鳴った。
図書室の中で、みんなが一斉に顔を上げる。
私と湊だけが、動けない。
先生の「閉館でーす」の声。
ページの上の、光の粒。
湊の指先の、封筒の角。
私は、覚悟を決める。
逃げ続けた扉を、開ける覚悟。
「……五分でいい。ここじゃない場所で、話させて。クローゼットのこと」
湊は息を飲んで、そして、うなずいた。
「分かった。――屋上、鍵、持ってる」
どうして、と聞く前に、彼は微笑んだ。
その笑顔が、遠い昔の、私だけが知っている笑顔に重なる。
クローゼットの奥で止まっていた時間が、勢いよく動き出す音がした。
――つづく――