存在して
杖は空を飛ぶために使っているので使えないので、代用として魔法書を使う。誰がこの事態に気付いているのかわからない。
彼は魔女で、他人の魔法書から別の魔法を比較的スムーズに得ることができる。その気になれば何100といった魔法を得ることができるだろう。
が、彼が安定して使えるのはこの魔法と3種魔法だけだった。
一見メリットだらけの特徴だが、風神の権能から分配されたモノなので限度があり、難易度が高い。
「———『おいで、記憶。楽しき昨日』!」
虚空から塵が飛び出した。飛び出て、舞って、分裂していく。チラチラと風に靡かれ蠢いていくその様は、まるで脈のようだった。
この魔法はなんの魔法だろうか。
「『夜半に語らえ 水で酔え』!」
脈打つモノは形作る。無数の塵が、もしくは血が、ひとつに凝縮されてゆく。だがしかし、その姿は影も落とせないほどに透明だ。
ともすれば、幻覚。
白昼、酩酊、陽炎、深夜の狂気。その産物。
これは彼の経験を基にしているようだった。
「『空を映した玻璃で飲め』!」
有るか無いかも覚束ない彼の妄想———だが、彼が識るのなら有るのだろう。
この魔法は、完全な物質の顕現だ。
一寸も違わないオリジナルの再現。独自性はないが、汎用性は高い。なぜならベルランの識るモノ全てが再現可能範囲だからだ。
「【青のまほろば】っ!」
手のひらには札が握られていた。正方形の、墨で紋様が描かれた紙製の札だ。馴染みのある仙人の仙術が込められている、時間遅滞の効果がある札。
「ふっ!」
ベルランは仙術に関しては門外漢だが、見様見真似で仙術を起動させた。
墨は淡い光を放ち、神都から落ちる物を対象にして時間を遅滞させる。発動さえできれば効力は完璧なものだ。なんといっても、彼の先生であるスレンドの札の再現。
想定通り、落ちる物は淡い光を纏って停止した。実際には遅滞しているだけだが、止まっていると思えるほど遅い。
「…あっぶなぁ!!」
ベルランは大きく息を吐いた。
その結果に安心し、箒がかなり揺れてしまったがファレオは起きる気配がなかった。それにもまた安堵する。
(起きてて欲しかったけど、起こすほどじゃないし)
そうしてまたペクト国の方向へ向かった。この仙術の効果は20分ほど。遅滞なだけで地上に今も落ちているが、20分も時間を稼げたら充分だろう。
崩落の危険を完全に排除せずにペクトに向かう理由は、風神たるファレオがこのことについて何も言わなかったということと、これ以上ベルランにできることは何もないとわかっているからだ。
見様見真似が成功するぐらいには彼は天才だが、それより優秀な人は周りに3人ほどいる。加えてここは神都だ。他に解決できる人はいるだろう。
無責任かもしれないが、できないことを無理してやる方が馬鹿だ。
(神都、いつまで保つんだ?)
不安定な神都を見て、そんな不安が頭をよぎる。
今までも事態は進んでいたというのに、絶妙に危機感がなかったのは神様と一緒にいたからだろうか。無意識にどんなことでもなんとかしてくれると思っていたのだろうか。
だとしたらなんて情けない。
「私の仙力が迸ったと思ったら〜ベルランだったか〜」
背後から声がした。少しの違和感はあれど、馴染みのある声だった。
「…スレンド」
「遅れたね、ごめん〜。でも、このドラゴンに送ってもらったから、結構早くー合流できたんだけど〜」
「おい」
ベルランは険しい顔をしてスレンドに声をかけた。今は彼女の乗っているドラゴンに触れるよりも優先すべきことがある。
「スレンド、何があった?」
「先生でしょ〜」
明らかに以前と違っていた。
前も前で不思議な喋り方で、ゆっくり語尾を伸ばして話す人だと思っていたが、それでは説明しきれないほどの変貌っぷりだった。
スレンドは狼狽えて必死に思考しながらも目線を泳がすベルランを覗き込む。
「安心してよ〜」
彼女のまあるい目は、メガネ越しにベルランを捉えている。はずだ。
(目…合ってるのか?)
レンズの向こうの目はどこを見ているのかわからない。何も考えられないという感じの、高熱に罹っている時のような、人間としてあるはずの思考のなさがそこにあった。
「…喋り方変だぞ」
相手を極力慮った上で切り出す。別れてから何かがあったのは間違いない。
「だいじょぶ〜大樹はすぐに、すぐに再生される。心配は要らないよ〜」
返答になっていない。
「…ドラゴン」
仕方ないので同行者であるドラゴンに聞くことにした。
「知りません」
(今…)
ドラゴンはベルランから目を逸らした。
「なわけないだろ!!!」
「!」
白銀の巨体が震えた。
「ベルラン?!」
普段温厚な生徒の怒声にビクッと跳ねる。
「ふざけんな!今俺から目ぇ逸らしたろ?後ろめたいことでもあんのか?ハッキリ言えよ、なんでスレンドがこうなったか知ってんだろ!?」
乱暴にドラゴンに近づき、ワニのような口を掴んで問いただす。
「ま、まって、彼は悪くなくて、」
珍しいベルランの怒声に慌てて、必死に弁明をしようとするが言葉が文章になっていない。単語の羅列を必死に積み重ねているだけだ。
「あ、あぁ〜」
もうどんな顔をしてスレンドを見ればいいのかわからなくなった。賢い彼女が、自分が教えを乞おうと決めるほど優秀な彼女が、今や弁明ひとつできやしない。
実のところ、スレンドが自ら予測していた魔法が使える回数はかなり外れていた。これで最後だ。言語を失う最終ラインがここだ。
「あああ、ええと」
本人もその事態に混乱しているようだ。更に言葉が出なくなる。飛行中も度々発作が続いていたため、何度か立ち止まって休憩を挟んでいたが、状態は悪くなるばかりだった。特に会話ができなくなっている。
「…」
ドラゴンは黙ったままだが、その目はスレンドを心配しているようだった。表にこそ出さないが自責の念にも駆られている。
何せ彼女を唆し、大樹に魔法をかけさせるように誘導したのは彼だからだ。
どちらもペクト王国が好きだった。
もちろんだが、ベルランはそんなこと知るはずもない。スレンドの故郷も親戚筋のことも彼は知らない。
(は、どの立場で)
なぜこうなったかの理由のひとつも言えやしないのに、一丁前に心配だけすることがひどく不快だった。
苛々する。
スレンドも異常だったが、ベルランもまた冷静さを欠いていた。原因はいくつかあるがそれに気を留めることはない。
無責任なことを言ってしまえば———
ベルランの肌からぽたりと汗が流れ落ちる。ごくんと唾を飲んだ。冷やすように雨が頬に当たる。
どんどん繰り返して、温度が徐々に混ざっていくような感じがした。蒸し蒸しとした頭は時折常識から外れたことを言い出す。
世界を俯瞰して見ているような気がして、それは馴染みのある白昼のようだったが、今はとにかくぬるくて気持ちが悪い。
「まって、ベルラン、怒らないでね〜」
スレンドは窘める。
まともに喋れない先生も、無責任なドラゴンも、眠る風神も、自己中なエルフも、傾く神都も、暑い空気も、そこに有った。
———もう家に帰りたかった。
森の奥にある、魔法書が大量に置かれている家。少し埃っぽい家。今は先生と共に住んでいる家。
「…もうかえれないや」
ベルランは雨音に潰されるような小声で言った。
ふと、ビフェリオという風神に
『神都に長居してはいけないよ。早く地上に戻った方がいい』
『キミの一番近くにいる人、死んじゃうかもね』
と、言われたことを思い出した。
「ベルラン…?」
「———“仙楼”に行こう。…固有魔法の詐称の件、あちらの方々に裁いてもらう必要がある。本当なんだろ?その様子じゃ」
魔法のことなんて聞く必要がなかった。仙人はああ言っていたが、他人の治癒ができるにせよできないにせよ疑惑が上がった時点で法廷に立つ必要がある。
「な、なんで?神都はまだ…落ちない、落ちないけど、何にも解決してないよ〜」
「…会話、成り立ってないじゃんか」
喉の奥から絞り出した声は震えて、自分らしくないと自分で思う。
ドラゴンはずっとだんまりだ。
「神都、まだ。終わってないんだからさ〜。ベルラン、信じてよ。最後が訪れない、ところを、私は見る必要がある〜」
この状況が夢幻の類であれば即刻目覚めにかかるが、そうはいかないのが現実だった。
「———貴方に瑕疵が有るのがいけなかったよ」
両手で顔を覆って、なるべく目の前を見ないようにした。存在してほしくないからだ。




