昼下がりのご依頼・薬品調合(銀貨一枚)・3/4
「あ、起きた」
ぼんやりとした視界に映る天井に、アルトアは自分が寝ていたことに気がついた。隣ではミシェルが椅子に座りながら新聞を読んでいる。
「おはようございます……何時間ぐらい眠っていたでしょうか」
「そうだね、日が明けたのは確実だから……十時間くらいかな」
「……そんなにですか」
思わず身を起こすと、ミシェルはクスリと笑って新聞を畳んで置いた。
「大丈夫だよ、起こさなかったのは俺の判断だし。それに残りの作業はもう少しで終わるから」
「……すみません、ありがとうございます」
「いいって。それよりお客さんが来るのは明日だったよね。じゃあ、少し時間があるから……俺はちょっと出かけてくるよ」
「どちらへ?」
「んー、人に会いに」
あぁ、まただ。アルトアは何度目になるかもわからない落胆を覚えた。これは、彼が何かを隠している時の表情だ。きっと今回だって、自分には言わずに隠しておくことにしているんだろうな。そう思いながら、アルトアは言った。
「……行ってらっしゃいませ」
「うん。行ってきます」
ミシェルはそう言って微笑むと、ひらりとその身を翻して外へと出ていった。アルトアは一人残された部屋の中、ぼんやりとミシェルの後ろ姿を見送った。一通りの掃除でもしてしまうかと立ち上がると、足元の床板が軋んで音を立てた。
「相変わらずの人……」
思わず呟くと、独り言も虚しく部屋に響き渡った。ミシェルがいないと途端にこの家は寂しいものだ。そんなことを考えながら、アルトアは窓を開けた。さらりとした風が、頬を撫でていく。
「今日は晴れ……」
窓から見える空には雲一つない快晴が広がっていた。アルトアは満足げに笑うと、掃除にかかろうと踵を返した。店舗扱いの部分は綺麗に整っているが、一たび工房スペースへ足を踏み入れると、そこはまるで戦場のような惨状を呈していた。基本的な物品やら家具やらの姿は見えているし、それらが散らばったりしているわけではない。しかし、そこには作業道具やら材料の類、おまけに案を走り書きした紙類が乱雑に置かれていた。アルトアはこの光景を見るたびにいつも思うのだが、ミシェルはなぜこんなにも汚せるのか。
そもそもミシェルは片付けや整理といったことはそれなりにできると、これまで共に過ごしてきて分かっている。しかし、こと作業となると全くの別問題らしい。確かに、よく見れば作業台の上の方には何も置いていないし、物の位置は把握できているのだろう。それでも、どうしてこうも酷い有様なのか。
アルトアはため息をついて、まずは作業台周りをまとめ始めた。そして、そのついでに調合釜の方にも手をつけることにした。中には沸々と煮え立つ湯があって、その周囲には調合の手順や素材名が記されたメモが散乱していた。その時どことなく、アルトアにミシェルの散らかり方の原因の一端が見えた気がした。
「……店長は完璧主義者だけど、その反面こういうところが抜けてるんですよね」
アルトアは苦笑しながら、それらの物をてきぱきとまとめていった。アルトアにとってはこんなものは朝飯前の仕事だったが、これだけでかなり時間がかかってしまった。アルトアは額に流れる汗を拭って、ふうと溜まった疲れを吐き出すように大きく息をついた。
さて、次はどうしよう。煮え立っている湯は、およそ毒薬とは思えないような綺麗な色をしていた。その様子に思わず驚嘆の声を上げてしまいながらも、アルトアは一つの疑念を抱いた。
「(これ、本当に毒薬……?)」
アルトアはその湯をじっと見つめた。ミシェルの作るものならば間違いはないと信じてはいるが、こうして見るとやはり疑わざるを得ない。何か別のものではないのかと思わせられるほどに綺麗なのだ。
「いや、まさか……」
アルトアは少々勇気をもって、調合釜の液の中へと手を突っ込んだ。ひんやりと冷たい感触と共に、指先からじわりと痺れが広がる感覚があった。高位の魔族であるアルトアならばこの程度で済んでいるが、これがそうでなければ……例えばそこいらの動物や、人間だったとすれば……そこまで考えて、アルトアは慌てて手を抜いた。心臓が早鐘のように鳴って、額から冷や汗が流れ出す。
自分には大したことはないというのに、それすら忘れるほどに恐怖を感じたのだ。
……もしミシェルの言う通り、依頼人が嘘をついていたとなれば?
◇
「ただいま」
帰宅を告げる声とともに扉が開かれる音がして、アルトアはハッと我に返った。扉の前には買い物袋を抱えたミシェルが立っていた。
「おかえりなさいませ」
「あれ、もう終わったんだ。早いね」
「いえ、まだ少しだけ残っていて……。それよりミシェルさん、お客さんは……」
「いらっしゃる夢でも見た?明日だよ、あ・し・た。そんなに焦らなくても大丈夫」
ミシェルはクスクス笑いながら、荷物を置くために部屋に入っていった。アルトアは再び安堵のため息をつくと、自分も後を追って部屋の中に入った。
「お客さんが来た時にちゃんと納品できるようにしておきたくて」
「真面目だねぇ。まぁでも、アルトアならしっかりやってくれると思って任せたんだし、やっぱり頼りにして正解だったかな?」
「ありがとうございます。それで、残りの作業は……」
「うん、あとはちょっとした準備だけだよ。実は先方から今日になって材料にリクエストがあってね。だからちょっとしか残ってないんだけど……」
「分かりました。すぐに終わらせます」
アルトアはそう言って作業に取りかかった。ミシェルも同じく作業を進め始める。しばらく無言の時間が続き、外から聞こえる鳥の鳴き声だけが響いていた。そんな中で、ふとミシェルが口を開いた。
「ところで、さっきは何を見ていたの?」
「えっ……」
突然の言葉にアルトアは戸惑いながら、チラリと視線を調合釜に向けた。
「毒薬の調合釜。なんか真剣に見てるなって思って」
「あぁ、それは……」
アルトアはさっきまでの姿をすべて見ていたようなミシェルの口ぶりに一瞬躊躇したが、観念したように話し始めた。
「あの毒薬、見た目の綺麗さに反してあまりにも強力すぎると思いまして。あんなものを飲ませたら、相手はひとたまりもないですよ。それに、そんな強力な毒薬を渡してしまって……もしも依頼主がそれを人間に使ってしまったらどうするんですか。私はそんな危険なことをしたくないですし、そんな依頼を引き受けてもいません。だから、確認しようと……」
「そういうことか」
ミシェルは納得したような顔を浮かべると、再び作業に戻ろうとエプロンを巻き始める。
「でも、アルトアが心配しているようなことにはならないよ。安心していい」
「どうしてですか」
「だって、アルトアは俺の作った毒薬の威力を知っているでしょ?使うのを失敗したり、調整を間違えたりなんてあり得ない。絶対に」
「それは分かっていますけど……」
「じゃあ、問題なし。明日の期限までに仕上げちゃおう。アルトアも頑張って」
ミシェルはそれだけ言うと作業に没頭し始めた。これ以上話す気は無いということだろう。アルトアも仕方なく作業を再開することにした。それからしばらくの間、工房にはひたすらに物を動かす音や、液体をかき混ぜる音が響くばかりだった。まるで、時間が止まっているかのように静かで、会話というものを忘れてしまったような空間だった。しかし、そこに流れる空気は決して重苦しいものでもなく、むしろ心地よいものだった。
ミシェルが仕事に集中している時は、必ずと言って良いほどこのような状態となる。その集中力たるや凄まじく、周囲の一切を遮断してしまうほどである。アルトアは何度もこの状態のミシェルを見たことがあったが、慣れることは一度もなかった。
やがて、日が沈みかけて空が赤く染まる頃合いになった時だった。ミシェルが何かを思い出したかのように手を止めた。そして、何やら考え事をするように顎に手を当てて、目を細めている。
「………どうかしましたか」
「うーん……」
「何か問題が……?」
「いや、別に大したことじゃないんだ。気にしないで」
「はぁ……」
ミシェルの言葉から察するに、本当に大したことではないか、そうでなければまた言えない、いや言わないのだろうとアルトアは判断して、それ以上深く追求することはしなかった。
「(私から見れば十分大したことなのですが)」
アルトアは何とも言えない表情のまま、心の中で呟いた。
◇
翌日になって、アルトアはやはり疑念に似た感情があったのか、いつもより早めに目が覚めた。普段ならばまだ寝ぼけ眼の状態でぼそぼそしている時間なのだが、今朝は妙に頭が冴えていて、眠気がすっかり吹き飛んでしまっていた。
「……少し早いですが、起きてしまいましょう」
アルトアはベッドから出て、身支度を整えていく。今日は一日店番をする予定だったため、動きやすい服に着替えてから髪を軽く結んで、いつでも動けるようにしておく。
「(昨日のアレがなければ、もう少しゆっくりできたのですが……)」
アルトアは小さく溜息をつくと、少し憂鬱な気分になりながらも、ゆっくりと扉を開いて外へ出た。外はまだ薄暗く、霧が立ち込めていた。肌寒さを感じながら階段を下っていくと、そこには既にミシェルの姿があった。
「おはようございます」
「あぁ、アルトア。おはよう」
ミシェルは振り返って笑顔を見せた。アルトアはホッとした様子で挨拶を返す。
「早いですね」
「アルトアこそ。まぁ僕としてはいつも通りだけどね。それにしても寒くはない?早く火をつけて、温まらないと」
「では、すぐに始めますね」
「うん、お願い」
アルトアは掌に魔法陣を展開して、魔道具の着火装置に魔力を流し込んでいく。すると瞬く間に炎が上がり、そして燃え広がらない程度に火力が調節された。
「ありがとう」
ミシェルは礼を言うと、早速暖炉の前に座り込んで両脚を温め始めた。その様子を見届けた後、アルトアは店の中へと戻っていった。
「……さて」
キッチンに向かってすぐ鍋に水を入れて湯を沸かし、その間にパンを切る。その後、手際よく料理を進めていくと、あっという間に朝食が完成した。アルトアはその皿をトレーに乗せて運ぶと、リビングのテーブルに置いた。
「お待たせしました」
「わぁ、美味しそうだ」
メニューはシルボアの葉のスープに、トースト、それから野菜のサラダ。飲み物に、件の薬草採集の際に採ってきたメティコの葉を煮出したお茶である。
「いただきます」
二人は揃って食事を始めた。どちらもあまり喋らず、黙々と食べ続ける。だが、決してその沈黙が苦痛だと感じることはない。むしろ、二人でいる時の自然な状態であると言えるだろう。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様です」
ミシェルが食事を終わらせた頃、アルトアもちょうど食後の一杯を飲み終わったところだった。