夢見草
迷宮管理部からの応援が到着した後、迷宮内に隠れて攻撃を逃れた魔物の残党狩りが行われ、無事にダンジョンブレイクは収束した。
応援の到着のすぐ後に桜人に降格となった皇が現れ、多少の混乱を起こすというハプニングがあったものの、結果として死傷者は異常発生の報告をした探索者パーティの一人のみだった。
事件は偶然居合わせた桜聖が活躍した、として処理された。
◇
「大活躍だったな」
10階にある休憩室で、律は歌代と話していた。
「まあ、いい経験になりました。」
律はぎこちない笑みを浮かべ、コップの水を口に運ぶ。
「なんだ?なんかあったのか?」
「いえ、まあ、域内の人たちはやたらに相手の立場を気にしますよね」
律は泉や皇、紗雪を思い出すようにつぶやく。
「そうか?俺は前の世界を知らないから比較はできないな」
歌代は外の景色を眺めつぶやく。
「それは律くんが高校生であったのも大きいと思うよ」
五十嵐が部屋に入ってくる。
「そうですか?」
「ああ。大人になるとどんな人間関係にも利益が付きまとうものだよ。ほとんど損得勘定なしで付き合えるというのも学校の良いところだと私は思う。」
「そんなものですか………」
窓の外に広がる街を目に写し、律は考え込む。
「基本、会った人とは名刺交換だな。俺はあんまり行かなかったから分からないが、合コンとかでも先に名刺交換することがあるらしい。」
五十嵐は顎に手を当て思い出すようにつぶやく。
「私が異質なのでしょうか。」
「そんなことはないさ。律くんは良くも悪くも変わっていない。律くんを囲む世界が変わったんだ。」
「そうだぞ。俺は帯剣してたら捕まるとか、正直信じられねえな。いつ何時自分の命が脅かされるか分からないのに。この世の中舐められたら終わりだぜ。逆に大きな力に逆らっても終わり。難しいよなぁ」
歌代は肩をすくめる。
「ここは現代的な方だ。いや、現代的という表現は正しくないな。前の世の倫理観が通用する方だといった方がいいか。」
「内地の方じゃ暴力、差別、迫害やら、治安の悪さは比べるまでもねえな。」
「力が全てだということだな。力がないやつは意見を通せない、自由も勝ち取れない。道徳より生きるのが優先なんだな」
五十嵐は街を眺める律の肩に手を置き、つぶやく。
「道徳じゃ飯は食えないからな。」
歌代は顔をしかめ、つぶやく。
「他人を慈しむのも、余裕があればこそ出来ることだ。我々は道徳的な行動をすべきだが、それを今日を生きるのに必死な奴にも押し付けることは傲慢なのかもしれない。彼らの全てに余裕を与えることができるならば話は別だが。」
五十嵐は律の隣で町を眺める。
「そう、ですね。私は全てを助けることはできません………。でも、綺麗事かもしれないですが、余裕がない時こそ慈しみが必要だと思います。それを失えば魔物と変わらなくなってしまうと思います。」
「余裕がない時こそ、か。それができるのは本当の善人か、自暴自棄の馬鹿だけだ。なかなかそんなこと出来っこないぜ。」
歌代は首を振りながらこたえる。
「そうだな………。危機に陥った時こそ人間の本性が試される。そう考えると我々は世界に試されているのかもしれないな。欲に耐え切れずに魔物になるか、人間のままでいられるか。」
「私は心は人間でいたいです。人に優しくありたいと思います。でも、この心が余裕から生まれる者なのか、余裕がある私には分からないです。」
律は広場に咲き誇る桜をまぶしい光をのぞき込むように見ていた。
◇
「律。ご苦労じゃったの。まさか早々にこんなことが起こるとは思わなかったが。」
龍玄は椅子に腰掛けながら律に声をかける。
「うん。正直驚いたよ。けど色々気づきもあった。」
「そうか。良いことじゃな。武術の極には、心技体どれを欠かしても辿り着くことはできないときく。気づきを得たのであればそれは大きな成果じゃ。」
「ああ。それで、少し話があるんだけど」
律は立ち上がり龍玄の前に移動する。
「なんじゃ?」
「もっとこの世界をよく見たい。内地に行ってもいいかな?」
律の言葉に驚いていた龍玄は、目元を柔らかくしながら返事をする。
「域内は律が思っているよりも広いぞ?目をふさぎたくなるような出来事もある。それでも行きたいか?」
「ああ。目をそらさず、受け止めたい。」
律は濁りの無い射貫くような目で祖父を見る。
「………。そうか。武者修行といったところか。いいじゃろう。存分に見てこい。」
龍玄は律の変化を感じ取って笑みを浮かべる。
「ありがとう。」
「とはいえ、門派の者達にも説明は必要じゃから、出立まで数日はもらうぞ。」
「分かってる。」
そう応える律の目は既に遠くの未来をとらえるように輝いていた。
「まったく………」
龍玄は律をまぶしそうに見つめながらつぶやいた。
二章終わりです。
ここまで応援してくださった読者の皆様、本当にありがとうございました。