5.ドウイタシマシテ
「アオイ、アオイ」
誰かに呼ばれて肩を揺すられている。葵が目を開けると、目の前に黒髪の青年ノアがいた。体を起こすと馬車の中で、どうやら乗車中に眠ってしまったらしい。昨日からずっと布団で寝れていないせいか身体中が凝り固まっているようで痛い。
「あ、すみません…」
声を出した後で通じないのかと思い直した。
馬車は止まっていた。ノアは扉を開けて外に出るとおいでと葵に手招きした。もう朝のようで日差しが眩しく葵は目をしかめた。葵が扉をくぐろうとするとノアが手を差し出した。葵は戸惑いながらながらその手に自分の手を添えながら、馬車を降りた。
馬車を降りると、目の前にお城みたいな豪邸がそびえ立っていた。びっくりして目を見開いている葵の手をノアが引いて建物の中に入っていく。入り口には、生真面目そうな壮年の男性とメイド服を着た女性が数人並んでいた。ノアと男性はしばらく何か話した後、メイドが一人案内するようにノアと葵の前を歩き出した。そのまま訳も分からずお屋敷の中をノアに手を引かれながら一室に通された。ノアは葵の手を引いて、部屋の中の扉を一つ開いた。そこはトイレと浴室だった。次にもう一つの扉を開くとそこはクローゼットでワンピースがいくつかと部屋着のようなコットンのワンピースが置かれていた。ノアはワンピースを指差して次に葵を指さした。これは君の服だよ、と言っているようだった。
そしてまた部屋に戻ると、ソファの横にあるサイドテーブルにベルがあり、それを小さく振ってならしてメイドを指さした。葵は、ノアの気遣いが嬉しくなって、小さく微笑んで、
「ありがとう」
と言うと、ノアも嬉しそうに微笑んで、
「ドウイタシマシテ」
と答えると、お腹を触ってからテーブルの上の焼き菓子を指さした。次にベッドを指差して、にっこり笑った。どうやら、お腹が空いたらお菓子を食べていいし、疲れていたら寝てもいいよと言いっているようだった。葵が微笑むとノアは、片手をあげてメイドと一緒に部屋を出て行った。
一人になった葵はため息をついて、ひとまずベッドに身を投げ出した。馬車で眠ったとはいえ久しぶりのベッドの柔らかさにあっという間に眠りについた。
***
ノア・エバンズは、自室に戻りソファに腰掛けるとほっと息をついた。まさか、あの双子が本当に異世界の乙女を召喚するとは思わなかった。伝書鳩で手紙をもらった時は手紙を持つ手が震えた。神殿では召喚の儀が違法に行われたことが知られてしまったが犯人と異世界の乙女の言葉はどうやら暴かれてはいないようだった。そこで、神殿の敷地内で葵を匿うことは危険であると判断し、カイルが一時的にノアに葵を託したいとの依頼があった。ノアは一も二もなく承諾して自ら迎えの馬車で神殿まで出向いた。葵は双子と離れることに不安が強いかったようだ、なかなかすんなり場所には乗れず、双子から「また、必ず会えるから」、「少しの間だから待ってて」と言われても言葉がわからない様子で双子に押し込まれるように馬車に乗せられていた。瞳いっぱいに涙を溜めて双子の姿が見えなくなっても窓にかじりついていた。しかし、ノアは母親であるカオリと同じ黒髪で漆黒の瞳をもった少女を初めて見た時は興奮して身体の体温が上がったかのような気がした。
ノアの母親カオリは、ノアが8歳の頃に病死している。健在の頃は、カオリは異世界の話をノアによく聞かせてくれた。また、異世界の歌も教えてくれた。眠る前には、異世界の童話などを話しりしながら、ノアが眠れるまでそばにいてくれた母を久しぶりに思い返した。
カオリはマルガリッドの言葉を話していたが、時々無意識にお礼を言う時など「アリガトウ」と言う時があり、我に返ってペロっと舌をだし照れたように笑うことがよくあった。カオリの国の言葉で感謝を伝える言葉だと言う。ノアは、それを真似して、二人だけの時にカオリに何かしてもらうと「アリガトウ」と言うようになった。カオリは嬉しそうに微笑んで、「ドウイタシマシテ」と返した。意味を聞くと大したことはしていませんよ、と言う意味だという。カオリが亡くなってからは口に出すこともなかったのだが、今日、異国の乙女から「アリガトウ」と言う言葉が出た時は驚いた。思わず、「ドウイタシマシテ」と返してみると葵は目を丸くして初めて正面からノアの顔を見つめた。カオリより大分幼い顔立ちだが、黒髪と切長の漆黒の瞳や象牙色の肌はカオリを彷彿させて、ノアの心はときめいた。
葵は何か話しかけてきたが、ノアには分からず、少しガッカリした様子も見られたが、もう一度ハンカチを顔の横に上げてから「アリガトウ」と呟いた。