05 旅立ち
未だ、日も昇らぬ頃。ドルイドの里では、悲鳴と怒号が飛び交っていた。
「家など放っておけ! あれの魔法を喰らったら生きて戻れんぞ!」
里中に聞こえるような大声でアリアが叫ぶ。幼い女児から屈強な男性ドルイドまで全員が杖を持ち、眼前に迫る敵を睨めつけている。
その姿は透き通るような金銀の入り混じった髪にくすんだ色の碧眼を持った少女だった。
「氷雪纏う鷲、氷を操る者よ。春に去る貴方の羽は大地に残り、冬の足跡は死神の足跡となる。閉ざせ氷霊」
空に粉雪が舞い、それらはたちまち形を成して少女の身体を閉じ込める氷塊へと変わった。
『お粗末な魔法ね、これはお返し』
「う、うそ!? 何で氷の中から、いや、やめ…………」
金銀髪の少女を閉じ込めたドルイドの女性は同じ魔法で凍らされ砕けていった。
炎で焼き焦がせば倍の火力で灰も残らず消し飛ばされ、風で身体を切断したかと思えば切断されたのは術者の方だったり。
そうして命を散らしていったドルイドは里にいた人数の半数を超えた。
もはや、彼らの実力で敵う敵ではない。残された道は逃げる事しか無かった。
『ルークはどこ。ここにいるんでしょう?』
「ルークだと……?」
族長は美しい顔に苦渋の表情を浮かべ、他のドルイドに逃走を命じた。そして、一人金銀髪の少女に向き直ると腰に下げていた瓶と小さな木の実を取り出した。
「神代に座す太古の巨人、森の長よ。汝が求める清水と新たな命の息吹を用いて一時の夢と成す。来たれ、森の巨人!!」
地面から樫の木に手と足が生えたような姿の巨人が現れる。
森の巨人は金銀髪の少女を視界に捉えると敵に向かって丸太のよう太い腕を振りかぶった。
しかし、少女は巨人の一撃を受けてもその場から微動だにしない。もちろん、森の巨人もそれに怯まず殴打、殴打、殴打。
殴打だけでは足りないと判断したのか、地面を抉るほどの強い蹴りも入れた。
――――――――無傷。少女は何事も無かったかのように全てを片手の手のひらでいなしていた。
「――――――ッ!?」
森の巨人は意味の分からない音を発していたが、それでも驚いている事がありありと伝わってくる。
「……古の巨人ですら傷一つつけられないか」
『神代の生き物程度じゃ話にならないわよ? ドルイドなら神霊と契りを交わしなさい』
そして、アリアの絶望に追い打ちをかけるよう少女は初めて杖を取り出す。
杖は木で出来ているのは辛うじて分かるが、かなり黒ずんでいるせいでどの木を使っているかの判別がつかない。
何より先端の部分がぼろぼろで、魔法を使う触媒には到底なりえない。
「――――――――………」
遠くにいたためそれがなんの魔法分からなかったが、結果が全てを教えてくれた。
森の巨人の動きが急に止まり、何事かと見れば腹から外に向けて黒く結晶化し始めている。
「くそっ!! こんな訳のわからん奴にこれ以上好き勝手されてたまるか!!」
「樹木に連なる者、霊樹に宿る者よ。樹木を愛した乙女よ、汝の怒りは樹木の怒り。縛れ、樹霊!」
詠唱が終わるのと同時。金銀髪の少女の真下から人の腕より太い木の根が現れ、少女に絡みつく。
瞬く間に少女の身体を覆い尽くした木の根は、ぐんっ、と地面へ少女を引きずり込んでいった。
「ははっ、私がこのざまでは先代に顔向けも出来んな。アイリス、頼むからこの怪物にだけは出会わないでくれよ……」
アリアは此処にはいないアイリスを心配思いつつ、魔力の使い過ぎよる頭痛と疲労を抱え、その場をあとした。
そんな彼女の背中を何かするわけでもなく、早々地中から脱出した少女は只々そこ佇み微笑んでいた。否、それは見た目の話である。
『もう、この体では駄目なのね……ふふ。心配しないでまた会えるから……」
金銀髪の少女は独り言を呟くと、魔法を唱えて空間からその姿を消し去った。
♢
ルーク達は魔狼の群れとの戦いの後、傷を癒し、夜が明けるまで泥のよう眠った。
日が昇って、すぐそばに湖があるのは非常に助かった。
ルークとアイリスの二人は起きてから今日のことを話し合い、確認という体で当初の目的である洞窟に向かうことにした。
実は昨夜戦った場所からは二時間もあればすぐ着けるような場所あったのだが、二人とも戦いの中で方角など気していなかった。
あっちが北だ。こっちが東だ。と意味もなく言い争いながら森を進んでいったのだ。
アイリスが道案内を買って出たのでアイリスを先頭に森の中を歩いた。
しかし、目的の場所着くまでの間ずっと似たような場所をグルグルと回り続けていたのだ。
つまりは迷子になってしまったのである。
それから半日近く歩いてようやく辿り着くことが出来たのだった。
「その、えと……ごめんなさい」
アイリスはあからさま肩を落としてシュンとしている。
「気しなくて良いよ、方向音痴でも、しっかり目的の洞窟たどり着いたんだから」
「慰めるか貶すか片方してくれない?」
戦闘後はしばらく口を開くことすらなかった二人だが、森の中を歩いているうち、心が落ち着いてきたのか軽口を叩く程度は元気が戻っていた。
「それにしても、もう日が落ちて来てるとはいえ野宿するのも面倒だな。提燈を使って中に入ろう」
「うん、分かった」
ここでまた夜を明かしても面倒。もとい無駄なので提燈の中ある蝋燭に火をつけ、二人は洞窟へと足を踏み入れた。
いざ中入ってみると神秘的な森にある洞窟もやはり一味違った。アイリスにとってはそう珍しいものではないようだが、ルークに取って洞窟の天井に無数に存在する鍾乳石は大変珍しいものだった。
自然の神秘に浸りながら洞窟を進んでゆく。
ブーツの底が地面に当たってコツ、コツと音を響かせる。
全体的に湿度が高く、ひんやりとしているせいか多少の不快感は感じる。しかし、まあ。じめじめしていて且つ暑いよりは遥かにマシだろう。
洞窟は思ったより深くは無く、歩き始めて十分程度で奥に辿り着いた。
「祠……? 何かを祀ってたのか?」
洞窟の奥は丸部屋になっていて、壁にはかなりの歳月が経ったと思われる祠がある。アイリスがひょいっとルークの肩越しに祠を観察する。
「その苗木? 見たいな紋章はドルイドのだから私達のご先祖様が昔使ってたんじゃないかな?」
「本当か? 一体いつのなんだこれ……」
アイリス達ドルイドの平均寿命はこの世に存在する種族の中でかなり長く、風の眷属森人、光の眷属天翼人と並んで三千年とも言われている。
そのことを鑑みると最低三千年以上ここに現存していることになる。
「ん……、アイリスは今いく――――」
「それ以上続けたら埋めるよ?」
「…………」
自ら地雷を踏み抜くとはなんと愚かなのだろうか。女性に歳を聞くのはマナー違反。たった今、この時を持って身にしみた。
その後も探索を続けたが結果は芳しいものではなかった。祠を見つけたのは発見なのだろうが、残念ながらそれ以上なにかが見つかることはなかったのだ。
ふと、祠の中に紙屑が捨ててあるのを見つけたルークはそれを取り出す。
紙は水に濡れぐちゃぐちゃになっていたがインクは未だ文字の形を保ったまま紙面に残っている。
「ん、なんだろうな。これ…………」
「どうしたの?」
アイリスに声をかけられ、無意識に見つけた紙を背の裏に隠してしまった。
彼女はそんなルークの姿を見て疑問は残っているがまあいいか、と言うような面持ちで周りを探索しに戻っていった。
ゴツゴツした壁を見つめて何か見つけられるのかとは言わないでおく。
それよりもアイリスが離れて行ったのを確認してから紙面に書かれた文字を改めて黙読する。
紙片は手紙であるらしく、冒頭に書かれていた言葉は、
『人の魂と身体の構造を書き換えて魔獣に変える魔法の研究に関して』
手紙は二枚あり、一枚目は送られてきたものでもう一枚は報告に対する労いの言葉を綴ったものだった。
それはすなわち、人を魔獣に変える魔法の行使に成功したということ。
普段はドルイドがいるおかげで魔物がめったに住み着かないドゥルの森。
そこに突如現れた魔狼の群れと、姿を眩ましたセレイロ村の人々。
「ふざけるな……! それじゃあ俺が斬ったのは……」
自分が斬った魔狼の姿が脳裏に焼き付いて離れない。この手紙を見るまでは気にも止めていなかった姿が今は赤く鮮やかな記憶として脳裏に焼き付いている。
「――――よう」
「え? 何?」
「ここから出よう。この部屋にはもう何もない」
今すぐこの場から逃げ出したい一心での言葉だった。魔狼の首を刎ね、腹を裂き、口を切り裂いた。その記憶をもう思い出したくないと心が叫んでいる。
「うん、そうね。これ以上は何も無さそう」
アイリスには気付かれていないようだ。そう思い安堵する自分がいる事に疑問を抱く事はなかった。
ルークはアイリスの手を引き、丸部屋を後にした。記憶の扉を閉ざすように、後ろは振り返らず足早に。
洞窟は暗いままで提燈の明かりが無ければすぐに躓いてしまう。
洞窟を早く出たい一心で半ば走るような姿勢で洞窟の外へと向かう。
「る、ルーク。待って、右の通路から鳴き声? が聞こえる」
「何を言っているんだ? 来るときは分かれ道なんて……」
しかし、耳澄ませてみると確かに鳴き声が聞こえる。声が小さく、上手く聞き取れないが赤ん坊の鳴き声のように聞こえる。
声の発生源は自分たちが来た道とは別の通路からだった。
「行ってみよう。俺が先導するからアイリスは魔法の準備を」
「分かった」
極力足音を立てないように、そろりそろりと通路の奥に進んでいく。
果たしてそこに在ったのは魔物か赤ん坊か。
「オギャア……オギャア……」
後者だった。かなり衰弱しており、この寒い洞窟の中でボロ布一枚だけで放置されていた。
頬は痩せこけており、髪も生え揃っていない乳児がこの状態で生きていられるはずがない。
「アイリス、この子に回復魔法は?」
顔も見ずに問う。本人は気にしたような素振りを見せないが、状況そのものには困惑しているようでオロオロとしたままだ。
「で、出来る……。けどこの子は私の知らない魔法で結界が張られてて」
「その結界さえ壊せば良いんだな?」
その言葉にアイリスはこくこくと頷く。
「分かった。俺の魔術でなんとかしてみよう」
アイリスが知らないと言った魔法は神聖魔法と言う主に神官や司祭が使う魔法だ。結界の生成や回復に特化したこの魔法の守りはかなりのもの。
しかし、魔術と言うものも中々に優秀なものだ。以前使ったときのように魔力を身体を補強するイメージで纏わせれば身体強化を施し、刀に纏わせれば本来より数段階上の切れ味と耐久性を手に入れることができる。
今回は魔力を結界全体に注入するようにして送り込む。目的は結界の構成をぐちゃぐちゃに掻き乱して破壊することだ。
本来はそんなことは出来ないのだが、幸いと言って良いのだろうか。
結界としての体を保ってはいたものの不完全なものだったため、簡単に破壊することができた。
「あとは頼む」
アイリスはこくりと頷くと、詠唱をいくつか繰り返し魔法で赤ん坊の身体を癒やした。
「私にできるのは症状を軽めに抑えることだけ。ちゃんとご飯を食べさせて上げないとまた衰弱しちゃう」
「ありがとう。提燈と火打ち石を置いていくから少し待ってて、子供にあげられそうなものを取ってくるよ」
その日は洞窟の中で過ごす事にした。火を焚き、毛布で赤ん坊を包む。
食べなければ死んでしまうとなことなので、取ってきた林檎をすりおろして加熱したものを与えた。赤ん坊は噛む力も育っていないようで、殆ど温めた果汁のようになってしまったが。
洞窟の中で三人固まって、その日は夜を明かした。まるで二人、赤ん坊に縋るかのように抱えながら。
♢
ルークとアイリス、赤ん坊を加えた三人は日が昇りすぐに外へ出た。話し合った結果、真っ直ぐセレイロ村に向かうことにした。
理由としてはこの赤ん坊がセレイロ村の誰かに関係するかもしれないというところからだ。
アイリスに聞いてみると、ここ最近子を成したドルイドの知り合いはいないそうだ。
そうとなれば突如人が消えるという事件がセレイロ村以外で起きていない限りはあの村の誰かの子供。そう考えたほうが自然だからである。
赤ん坊は元々衰弱していた事もあり、日が昇っても起きることは無い。寝息は穏やかなで心配することは無いだろうが、元より生まれたばかりの脆い身体。
あやしている間に首が揺れてぽっきりなんてことも珍しくは無いのだから丁寧に、割れ物を扱うかのように森の中を抜けていく。
「あれ、何で皆がここに……」
そうしてドゥルの森を抜けた先にはセレイロ村があった。しかし、以前とは違う光景が一つ。
「ほんとだ。ドルイドの里の人達がなんでこの村にいるんだろう」
セレイロ村には里にいたドルイド達の半数あまりが集まっていた。視線は地面を彷徨い、心身共にすり減ってしまったかのようだ。
「何がどうなって……」
「一人の女にドルイドの半数が殺されちまったのさ」
はっと声のした方へ振り返ると、アリアとセレイロ村の村長が立っていた。
「本当に依頼を達成するとは……。ここではなんだろう。詳しい話をするためにも儂の家に来るといい」
ルークは赤ん坊を抱えながらアイリスと共にアリアと村長の背に着いていく。
隣りを歩くアイリスを見れば下唇をキッと噛んで気持ちを爆発させるのを抑えている。
里で亡くなった人たちのことだろうか。
たった一日でも一度戦いを共にすれば、仲間の外面的な性格は良くわかる。
彼女は感情的な部分が多い一方で理性でそれを押さえつけるタイプだ。
今、そうしているように自分の心を理性という鎖で雁字搦めにしている。本当は叫んだり、悲しみに涙を流したいだろうに。ふと、アイリスと目が合う。
「ごめんなさい。少し、離れても良いかな?」
我慢の限界なのだろう。瞳は今にも泣きそうなほどに歪み、声も震えている。
「ああ、赤ん坊とこの状況については俺が聞いとくからさ。その……いや、何でもない。こっちは俺に任せて」
「うん、ありがとう」
そうして離れていくアイリスの背は風が吹けば崩れて消えてしまいそうだった。
「優しいんだな、君は」
アリアがルークに向かって優しく微笑みながらそう言った。だから、ルークは大きく息を吸ったあとに自虐的に言い放つ。
「優しくなんてないですよ。俺はただ臆病なだけです」
♢
アイリスと別れたルークはアリアと共に村長の家の中へ入った。初めてこの村に来た時と同じく洋盃には綺麗な清水が注がれる。
「綺麗な水ですね」
前は言わなかった言葉。その言葉が嬉しいのか、はたまた驚いたのか細めていた目を一瞬開く村長。
「おかげ様で子供まで水の代わりにエールをなんてことが無くて良い限りだ」
村長の視線はやはり、ルークの抱える赤ん坊に向いている。魔物の討伐に言った冒険者が赤ん坊を抱えて戻ってくれば誰だって気になるだろう。
ただ、村長の視線にはそれとは別のものを感じられる。
「その赤ん坊に名はあるのか?」
「布の裏に|テオドアと一言だけ」
「そうか……そうか、あの娘は……」
後に聞いた話だと村長の娘はセレイロ村一番の剣士の妻であったらしい。剣士が姿を消してから塞ぎ込み、結果生まれて間もない息子と共に主人同様姿を消してしまったのだとか。
そして生まれて間もない息子の名がテオドアなのだと。
村長は眠るテオドアを優しく抱きしめ、涙を流している。あの手紙の通りならテオドアの両親を斬ったのはルークだ。
そのことを考えると、途端に身体の芯が凍るように冷たくなる。心の弱さゆえか、手紙のことは言いたくないが言うべきだろうかと逡巡する。
「私の話はあとからでもできる。話さずに後悔するよりは話して楽になってしまえ」
アリアが背中をバンッと叩いて来た。それをとても痛く感じたのは未だに怯えている心のせいだろう。
「この手紙は森の奥の洞窟で見つけたものです」
覚悟を決めて未だに涙を流す村長へ手紙を渡す。手紙の一番上に書いてある項目と中身を読み終えたのだろう。
村長の顔はみるみると青くなっていく。気をやって赤子を落とすようなことは無かったが、彼もかなり答えたのだろう。
「人を魔物に変える魔法……だと? こんな、こんなおぞましいものが……!」
次いで村長の顔に現れたのは怒りの感情。しかし、その感情の矛先がルークに向くことは無かった。
「その子の両親を手に掛けたのは俺です。罵声ならば甘んじて……」
「いいや、お主が気にすることでは無い。儂らとて村を襲った魔狼を幾匹か屠った。お主に罪があったとしてそれは儂らも同じじゃ」
本当は今すぐにでも声を荒げたいのだろう。隣に立てかけてある杖を手にとって「ふざけるな」と怒鳴り散らしたって文句は言えないと思っていた。
「怒鳴り散らして娘が、婿殿が帰ってくるなら良い。だが、あの子らがいなくなってしまってもお主らはこの子を助けてくれた。それだけで十分じゃ」
そう言って村長はもう一度赤ん坊を抱きしめる。隻腕の村長では赤ん坊を撫でてやることも出来ないのだろう。その代わりなのか、優しく抱きしめ続けた。
「人ってのは感情的な癖に時折それを無理やり押し込めるもんだからほんと、不器用なもんだね」
「それは自分自身の事ですか?」
アリアの手のひらは血が滲んでいる。拳を握った際に爪が食い込んだのだろうか。
「なにいってんだい。私はいつでも平静さ」
声も震えているのにそう言い切るのだから確かに人は不器用なのだろう。
村長は赤ん坊を寝かせてくると、一度部屋を出ていき部屋にはアリアとルークだけが残った。
「それじゃ、私達の事も一応話そうかね」
切り替えが早いわけじゃない。話さなければいけないと思っているからだ。声だって震える。
里を襲ったやつを今すぐに追いかけに行きたい。そんな思いがアリアの瞳から感じられる。
「私達の方はさっきも言ったとおり一人の女にやられたんだ。度し難いことこの上ないが奴は私達の魔法を全て受けきった上で術者一人一人に倍の威力で魔法を返していった」
「金と銀の入り混じった気色悪い髪色で瞳はくすんだ碧眼。顔は最悪なことにアイリスそっくりだ」
心臓の鼓動がどくんっと一際大きく音を立てる。耳に直接聞こえてきそうだ。
髪色や瞳の色は違えど面影を残している。極めつけに顔はアイリスとそっくり。そんな人物を知り合いの中だけで考えたらルークは一人しか知らない。
「それと青年、君を疑ってるわけじゃないが奴は終始『ルークはどこ?』と小言を呟いて……おい、青年?」
背筋を冷たい汗が流れる。妙な吐き気が食堂から喉へとせり上がる。息が苦しい。
「そんな、だってあいつは……」
「私も言葉を選ぶべきだったな。あのとき君はヴァルカン大陸の勇者だと言っていた。それに関係があるのなら私はこれ以上の事を聞くつもりは無い。だから一度落ち着け、今の君は酷い顔をしているよ」
アリアから受け取った水を一息に飲み干す。それから大きく深呼吸を一回。
「落ち着いたかい?」
「ああ、ありがとうございます。その、そいつが里を?」
「ああ、地中に引きずり込んだは良いがどうせすぐに抜け出したに決まっている。ただ、追って来ないということは今回は諦めたということだね」
「そうですか、ありがとうございます」
まるで他人の悪夢を直接頭に叩き込まれたかのような感覚だ。
その日、ルークは村長の家に泊めてもらった。里から逃げてきたドルイドたちに関しては彼ら自身の魔法で臨時の天幕を作り、アイリスもそこで寝泊まりをした。
結局、アイリスには魔狼の事は教えずにその日を終えた。
♢
翌日、ルークは日が昇ってすぐに目を醒ました。昨日の話が、魔狼の正体が頭の隅に引っかかってまともに眠ることすら叶わなかった。
この村の清水は井戸から湧き出る水と、森に入ってすぐの沢に流れている二つがある。
ルークは沢の方に行き、顔を洗ってから身支度を整えた。今日の昼前にはこの村を発つ。
街道の途中にある街に今日中つかなければ馬車が取れないからだ。
村に戻ると村長の家の前にアイリスが立っていた。昨日の話を聞いたあとでは彼女の顔をまともに見れる気がしない。それでも極力今までと変わらぬ顔で話しかけた。
「どうしたんだ、そんなところに突っ立って」
「ひゃっ!?」
突然声を掛けられて驚いたのか、短い悲鳴を上げるアイリス。
「いきなり声をかけないでよ……」
「それじゃあ、黙ったまま隣まで歩いて顔を出せばよかったのか?」
「そっちのが怖いからやめて」
話せば案外なんとかなるものだなと思った。
ただ、アイリスはルークを見たまま人差し指と人差し指をくるくる回すだけでいっこうに口を開かない。何か用事があったのではないかとつい思案顔になってしまう。
「ね、ねえ。私もルークの旅に連れて行ってくれないかな」
危うく先程持ってきた洋盃を落とすところだった。アイリスも冒険者になるという事だろうか。
「おいおい、旅だなんて大層な……。俺はヴュステ大陸を中心に冒険者として活動するつもりなんだ。わざわざ大陸を渡る気はないぞ」
「それでもいいよ。けど、君忘れてない?」
はて何を、とは言えなかった。彼女の瞳がそういう雰囲気ではない。これに関しては忘れるという方が難しい。自分から言い出したことを反故にするなど男としてあってはならない。
「海か」
「そうよ、それに里の皆を襲った人。その人にもルークと一緒にいれば会えるかもしれないんでしょ?」
全身の毛が逆立った。どうしてそれを、と叫ぼうとしてアイリスのものではない手で制される。
「私が教えたんだ。詳しいことは言っちゃいないから安心してくれ」
そこにはアリアがいた。そう言われ、反論することはないものの複雑な気分ではある。
アイリスの瞳は真剣そのもので、何を言っても引き下がる気は無さそうだ。
「わかったよ、好きにしてくれ。でもギルドに登録する金貨三枚は流石に払えないぞ」
そう言うと一瞬嬉しそうな顔をしたアイリスだが金貨三枚という言葉にギクリと、なんともわかりやすい反応だ。
唐突におろおろとし始める彼女にアリアが見かねたのか自分の荷物からとあるものを取り出した。
「これを持ってきな。金貨五枚と私が外を渡り歩いていた時に使ってた一張羅だ」
そう言ってアリアからアイリスに渡されたのは黒を基調にしたローブにブラウスとスカートだった。
「下は古く見えるかもしれんが、上着のローブはまだまだ行ける……はずだ。戦闘に全く持って向いていないワンピースよりはずっとお前の事を守ってくれるはずさ」
投げ渡されたローブを見てアイリスの瞳がまたきらきらと輝く。単純な子だ。
「儂からも依頼達成料を払っていなかったな」
次はルークに用のあるセレイロ村の村長。片手には硬貨の入った袋を提げている。
そう言って手渡された袋の中身は銀貨九十五枚と銅貨五十枚。足して金貨一枚分だ。
今回の依頼書の中身。すっかり忘れていたが報酬金額は銀貨五十枚のはず。
「あの、これは……」
「孫を助けて貰った礼含めじゃ。それに村の者たちも主に感謝にしている。気にせず受け取るのも礼儀の一つだと思うがね?」
村長は好々爺といった感じで優しく微笑む。ルークは彼に感謝の言葉を述べ軽く頭を下げる。
それから村を出発するために本格的な準備を済ませ、村の外まで差し掛かったところで後ろを振り返る。
見送りはアリアと村長の二人だけかと思ったがセレイロ村の住民と他のドルイド達全員がやって来た。
「アイリスちゃん元気でねー!」
「冒険者さん、ありがとう!!」
感謝の言葉や別れを惜しむ声、激励の言葉が口々に投げかけられる。
「行ってきまーす!!」
アイリスは元気なもので、両手を大きく振りながら後ろ向きで歩く。そんなことをしてたら転ぶぞと声を掛けても良かったが、今はそんな細かいことを言う気分ではなかった。
旅立ちはいつだって明るいのが一番だ。
新たな冒険の始まりも、終わりも暗い顔で下を向いていては楽しくない。
だからルークも心の奥底にある暗い感情は一度仕舞い込んで、笑顔で片手を振りながらセレイロ村を後にした。セレイロ村の後ろには綺麗な虹が掛かっていた。