03 影這う魔狼Ⅰ
革靴の底が朝露で湿った地面に沈んでいく。草の上を歩けばサク、サク。枯れ葉の上を歩けばザク、ザク。ドゥルの森には二つの足音が響いていた。
ルークは今にも降りてしまいそうな瞼を必死に開けた。ついさっき遅めの自己紹介も終えたところで仕切り直し、と張り切って森の中を歩いているのだ。
隣を歩くアイリスは銀糸の刺繍が入った美しい白いワンピースに身を包んでいる。上から葉を伝って落ちてきた雫を弾くのを見たところ、かなりの上物だろう。
しかし、これから行うのは魔物の討伐。出発する前に指摘しなかったのが悪いと言われればそれまでだが、ルークは非常にもやもやした気分のまま足前へとすすめる。
こちらの視線を感じたのか、それとも何か聞くことでもあったのか。アイリスが突然ルークの方へ振り向いた。そしてすぅと息を吸ってから口火を切る。
「ところで、貴方はこれから行く場所分かってるの?」
どうやら後者であったらしい。息を吸って何か重要なことでもあったのかと身構えた身としては拍子抜けだ。
「そ、そりゃあもちろん。ドルイドの里から更に東。森の奥にある洞窟だろ?」
ルーク達が目指している洞窟は現段階で魔狼の住処だろうと推察されている場所だ。
推察通りならばそのまま討伐するし、居なければまた探索をというような方針で決まった。
この森は森の守護者が支配している事もあって、例の魔獣以外にこれと言った魔物は見当たらない。
ルークが里を出てから見かけたのは、リス、シカ、キツネ、イタチなどの野生動物ばかりだった。
中には魔物に匹敵するほどの幻獣一歩手前の半幻獣という動物もいるようだ。初日に見た大鹿などがそれに該当する。
所々、鮮やかな色の茸や、もぞもぞと蠢く大根の葉のような物を見かけたが見ぬふりをして歩き去った。そんな光景が続く中、最初に静寂を破ったのはルーク。
「なあ、依頼の作戦について話したいんだけど君――――」
「アイリスでいいよ」
「ありがとう、アイリス。それで作戦の概要だけど話しても良い?」
「ええ、どうぞ」
作戦は単純なものだ。比較的体の大きな魔狼は
本来であれば洞窟で身動きがまともに取れないまま倒してしまうのが定石。
しかし、双角魔狼は炎のブレスを吐く。
そんな相手を目の前に、洞窟内で戦うのは不利。そこでルークが魔狼たちを洞窟から誘き出し、アイリスの魔法で一斉に倒してしまおうと言うものだった。
「難しいわね、待ち伏せされたら逃げられないわよ。それなら洞窟の前から魔法を注ぎ込んだ方が早くない?」
「それだと恐らく奥にひきこもって出てこないんじゃないか? あと、村の人たちが生きてそこにいた場合が怖い」
「そ、そうね」
しかし、ルークの提案した作戦もアイリスが述べた通り穴がある。
アイリスの火力頼りに見えるが、実際はルークの誘いに魔狼が乗ることが前提である。
それに逆に待ち伏せをされ、倒されましたと言うことも無きにしもあらず。
魔物が魔物たる所以は野生動物より遥かに高い身体能力と良く回る頭だ。
ルークが提案した作戦はアイリスへの危険を限りなく最低限に留めるつもりのものである。
「それって私には危険が殆ど無いけど、代わりに貴方は普通にやるより危険じゃない」
「適材適所だよ。俺にはこの作戦以上に良い作戦がない。だから前は任せてくれ、代わりに後ろは任せるから」
「そう言う事なら…………分かったわ」
なんとも歯切れの悪い返事。彼女自身まだ納得はしていないのだろう。
二人とも死んでしまった場合情報も伝えられず、里にいるドルイド達やセレイロ村の人達に被害が及ぶ可能性がある。
故に今回は多少のリスクを背負っても最悪の可能性だけは避けなければならない。
太陽が西の地平線――森の木々で見えないが――に沈み始めた。魔物は夜になると活発になるものだと、誰もが子供の頃に教わる。それはいくつになっても常識という形で人を縛るが、大抵はそのおかげで助かるのでなんとも言えない。
「よし、そろそろ日も沈んできたし、この辺りで夜を越そう。俺は鹿でも狩ってくるから、アイリスは火を起こして待ってて」
「えっ……えぇ、分かったわ」
本来なら火を起こせば魔物が一目散に駆け寄って来るのだが、この森の一番の脅威は魔狼ではない。半幻獣の怒りに万が一にでも触れてしまった場合半端な魔物より厄介な事になる。
一方で幻獣は人と火の気配に敏感で近寄って来ない。それは半幻獣であっても同じ。
火を焚くのは野生動物や半幻獣避けにもなるのだ。
そう言って森に入ること数十分。結局野生動物を一匹も見つけられなかったので、川で魚を仕留めるだけに終わってしまった。
拠点に戻れば、そこではアイリスが言われたとおりに火を起こして待っていた。
「動物が全然出て来てくれなくてね、仕方ないから今日の晩御飯は川魚だ」
「ありがとう、動物たちは魔狼に怯えて夜は隠れてしまうの。ところで、その左腕は……」
「ん? ああ、義手だよ。昔、下手を打ってその時にね」
隻腕になってからかれこれ五年。義手は当たり前すぎて他人から見ると珍しいものなのだと、時々忘れてしまう。その度にこの説明をするから、こんなことにも慣れてしまった。腰からナイフを取り出し、川魚の内蔵を取り出し、串を刺して塩を振りかけた。
「えと……その白い粉は?」
アイリスが不思議なものを見るような目で塩の入った小瓶を見る。実際不思議で仕方ないのだろう。ルークは年中雪の降る街で生まれた。その為干し肉を作る習慣がある。つまり塩は故郷で既に慣れ親しんだもの。
対してアイリスは生まれてこのかた森暮らしで塩湖にも海にも縁が無かったのだろう。
塩を知らないという事はこれの素晴らしい味も知らないという事。ふと、意地の悪い考えが頭に過ぎる。
「一気に口の中に放ってみ?」
自分でも一瞬考える。悪魔の所業と言っても過言では無い。塩の入った瓶の口をアイリスの手の平に傾けて少々多めの塩を振る。アイリスは手の平の塩を数秒間じーっと見つめたあと、思きいって口の中に放り込んだ。
「ぶふっ!? 辛い!」
塩を直に舐めたアイリスはそのあまりのしょっぱさに吹き出してしまった。涙まで流れている。
その隣でルークは堪えきれず腹を抱えて笑ってしまった。気づいたときには時既に遅し、その様子に腹を立てたアイリスが脇腹を拳でどついてくる。
「ごめんごめん、アイリスは海って知ってる?」
別に馬鹿にしたわけでは無いのだが、ルークのその一言でアイリスはむっと頬を膨らませ「知らなくて悪かったわね」と拗ねてしまった。もう一度「ごめん、ごめん」と謝りながら。雲一つない夜空を見上げて口を開いた。
「なら、いつか海を見れるといいね。海はとても綺麗で空と同じくらい広い場所だ。きっと気に入る」
「空と同じくらい……」
「そう。今のとは比べ物にならないくらいしょっぱい水でいっぱい、ね」
「それは……でも、綺麗なところなら一度見てみたいな」
「だろう?」
「それじゃあ、貴方が連れてってよ。私を海にさ」
その笑顔は昼間の眩しい太陽のように輝いていた。その笑顔に、はっと息を呑む自分がいるのに驚きを隠せない。
「そ、そうだね。この依頼を終えたら、ね」
二人はその後も他愛のない話を繰り返しながら、塩で焼いた魚を食べた。
♢
ルークはささやかな夕食を終えたあと、近くの大木に背を預けて月のない夜空を眺めていた。何度でも言うが、夜の森は例の魔狼だけが脅威ではない。昼間は見なかったが肉食の野生動物もいるとアイリスから聞いたので、彼女を先に寝かせ自分は見張りをしていた。
しん、と静まり返った森は良く音が響く。小動物の足音や、こちらを警戒する肉食動物の唸り声。それから――――
「アオオオオオオオオオォ…………ン」
低く、長い遠吠え。この森には普通の狼もいるが、十中八九魔狼の遠吠えだ。隣で寝ている仲間は呑気に寝返りを打っている。
「アイリス、起きて。魔狼が出たかもしれない」
割と強めに肩を揺すったのだが中々起きない。一瞬頬を軽く張ろうかと考えたが諦め、防具の繋をしっかり締める。
焚き火の火は灯ったままだ。この様子なら燃え盛る焚き火に怯えて野生動物くらいなら近づいてきたりはしないだろう。
絶対に安全とは言い切れない。申し訳無さを感じながらも刀をベルトに差したルークは遠吠えのした方へ走り始めた。
アイリスが目を覚したのはいつ頃だったろうか。むくりと体を起こすとふと、違和感に気付く。何かが足りないような気がするのだが今は真夜中。寝惚けた顔で周囲を見渡しようやく気付く。
「どこにもいない……」
必死に首を巡らせ、ルークの姿を探すがどこにもいない。
「アオオオオオオオオォォ…………ン」
そんな時に洞窟のある方角から狼の遠吠えが聞こえた。魔物の感情や言葉が分かるわけではないが、あれは仲間との会話とは違う。
どちらかといえば仲間を呼ぶような鳴き方に聞こえる。
「まさか、一人で……!?」
アイリスは相棒たる樫の杖を手に持ち、遠吠えのしたほうへ走り出す。
♢
ルークが走り始めて数分。遠吠えの主はそこにいた。漆黒の毛皮に見を包む双角をもつ大きな狼の魔物。
――――人間の男がいるぞ! 餌だ! 引きずり倒して皆で食べてしまおう。
そんな声が聞こえそうなくらい魔狼達は黄金色の瞳を爛々と輝かせ、涎を垂らしていた。
ルークは狼達を見渡し、刀の柄に手を添え、腰を深く落とす。余分な息を吐き出し、新鮮な空気を肺の中に新たに取り込む。
一番手前の魔狼まで約十歩。戦闘開始の合図は鯉口を切った瞬間だった。夜の森に鈴のような音色が響く。足に力を込めて木の葉積もる地面を蹴った。一瞬間を置き、一番手前にいた魔狼の眼前まで隼もかくやという速さで距離を詰めた。
突然目の前に現れた敵に驚いたのか前足振り上げる魔狼。その行動に臆することなく鞘から刀を抜き放ち一閃。腕が雷のように閃き、刹那の後には刀は完全に振り切られていた。
振り上げられた前足が降ろされる事もなく、魔狼の首はごとりと地面に落ちた。首元から鮮やかな色合いの血が噴水のように噴き出す。
ルークはそれに見向きもせず、返す刀で斬り伏せた魔狼のうしろにいたもう一体の魔狼を仕留めた。二太刀に要した時間は三秒にも満たず。
ルークのうしろには、首から鮮血を撒き散らし、前足の肩口から血を噴き出しながら横たわっている二体の魔狼がいる。
そこでようやく双角魔狼が反応し、ルークを喰らわんと丸太をも噛み砕けそうな顎を大きく開き踊りかかってきた。だが双角魔狼とルークの体格差は狼と鼠。
猛進する双角魔狼の股下を素早く駆け抜け、三体目の魔狼も口元を横一文字に斬り裂いて殺した。
取り巻きを倒し終わり、後ろを振り向く。そこにはルークめがけて、青い炎を吐き出す双角魔狼がいた。
♢
アイリスが合流したのは、ルークが双角魔狼の青い炎を受けるその直前だった。
「避けて!!」
悲鳴のような叫び声の直後にルークの姿は青い炎に包まれる。早く彼を治療しに行かなければと、ルークに駆け寄ろうと震える足を叱咤する。
幸いにもルークはブレスを浴びる直前にアイリスからは見えない奥の方へ回避していた。
その事実を確認するやいなや、ほぅと息を吐いた。すぐさま状況を確認しようと辺りを見渡し――――
そして、すぐに苦い液体が喉元まで込み上げてきた。
彼女の前に広がる光景は、首から上の切断面が丸見えの魔狼が一体、肩口から胸にかけて斬り裂かれ内臓が一部はみ出している魔狼が一体。そして今しがたルークに顔を横一文字に斬られ頭がぱっくりと……。
鶏や兎を絞めるのとは違う生々しい惨劇の痕。
そこまで見て、口の中の苦い液を無理やり飲み下す。ルークは刀で牽制をしながら、こちらの方へやって来た。
「何があったの……?」
顔は青ざめたままだろうが、それでも状況を把握するためにルークに説明を求めた。
「見張りをしている時に遠吠えが聞こえてね、様子を見に来たらこいつらがいた」
「なんで私も起こしてくれなかったの……!?」
「揺すったけど起きなかったろう。君」
そう言いながらルークは再び正面に刀を構える。
「作戦通りとは行かなかったけど、俺ががあいつを引きつける。だからアイリスは魔法を双角魔狼に撃ってくれ」
そう言って、ルークは魔狼の太い前腕に向かって袈裟斬りをあびせた。
双角魔狼の前脚からは血が溢れ、体は前によろけるがそれだけで止まるほど敵は弱くは無かった。
続けて二太刀目で胸を斬り上げようとしたルークの斬撃を素早くうしろに身を引くことで避け、無防備な彼の脇腹を右腕で吹き飛ばした。
「ルークッ!!」
ルークはまるで人形のように弾かれ地面を転がっていった。彼の軽装は胸や関節はしっかり守られているが、逆にそれ以外は守られていない。
そして同じく急所であるはずの腹回りも、動きやすさを重視した為か装甲の類は無く、とても魔狼の一撃に耐えられるものではなかった。
「ぐぅ……かはっ……!」
何とか立ち上がりはしたものの、口から血を吐き出し、足もふらふらと頼りない。
それを好機と見たか、双角魔狼は再び丸太のような腕を振り上げ、ルークに再び襲いかかる――――
「氷雪纏う鷲、氷を操る者よ。春に去る貴方の羽は大地に残り、冬の足跡は死神の足跡となる。囲め氷霊!!」
双角魔狼の凶爪がルークを手にかけることはなかった。
何も無い暖かい森が突如として吹雪く。
瀕死の相手を叩き潰そうとしていた双角魔狼は身体を動かせず、黄色に輝くその目は驚いたように見開かれていた。
アイリスが魔法で吹雪を呼び寄せ、双角魔狼の身体を雪と氷で覆ったのだ。
一方ルークは、回復などしていないはずなのにすっかり体勢を立て直し、アイリスの目の前まで戻ってきた。
「助かった。ありがとう」
ルークの顔をのぞき込んで見ると、遠くからでは分からなかったが額には大きな汗がいくつも浮かんでいた。おまけに膝は生まれたての子鹿のように震えている。
「待って、今すぐ回復してあげるから」
そう言って、アイリスが杖を構えた瞬間にがくんとアイリスの身体が揺れた。
正確にはルークがアイリスを抱え大幅に移動したのだ。
文句を言おうと視線を回転させる。キッとルークを睨めつけ、直後に事態の深刻さを目の当たりにした。
ほんの数秒前まで自分たちがいた所は地面が焼け焦げ、あたりは青い炎で燃え盛っている。
動けない体で双角魔狼はブレスを放ってきたのだ。
周りは元から青い炎に包まれていたが、間近で見ると人の恐怖を掻き立てるようにゆらゆらと燃えている。
勝てる訳がないと一瞬心の中に弱気が生じる。魔物と関わることが無いものならばそれで普通なのだ。
しかし、良く見れば双角魔狼の息遣いは荒く、血の混ざった涎が口からダラダラと垂れている。
「もう少しだよ。最初のブレスを吐く直前に腹を裂いておいたから、出血が酷いはずだ。一気に畳み掛けよう」
「分かった……!」
ルークは刀を構え、アイリスはいつでも魔法が唱えられるように神経を集中させる。
武器を構えた二人と対峙するのは、体中雪と氷に覆われ、腹から赤黒い血をどくどく流す双角魔狼。
斬りこむタイミングを窺いながら、あるいはいつでも魔法を唱えられるように準備するルークとアイリス。
双角魔狼の視界にはどう写っているのだろう。今宵の獲物としてから狩るべき敵としてか。
最初に動いたのはルーク。刀を脇に構えて疾駆する。常人に比べ遥かに速い足は瞬く間に敵との距離を詰める。
迫る爪をいなし、牙を躱し、漆黒の毛皮に刃を滑り込ませる。
斬っては避けて斬ってはいなす。
どれも致命傷には至らない軽い傷ばかりだが、双角魔狼からすれば目障りなことこの上ないだろう。
先程からルークに気を取られてばかりで、もう一人仲間がいることを完全に忘れている。
「空舞う乙女、風と共に在る者よ。花と共に踊る貴女の綽名は妖蝶、切り裂け風霊」
宙を不可視の刃が駆け、動き回る双角魔狼の脇腹を裂いた。ルークと初めてあった時のような手加減は一切しない。
威力は恐ろしいもので余った風は後ろの樹木を滅茶苦茶切り裂いていった。
「きゃぃんっ!!」
短い悲鳴が真っ暗な森に木霊する。
巨躯もほんの一瞬であったが痛みに怯んで動きが止まった。
ルークはその隙を見逃さなかった。刀に不思議な白光を纏わせ、双角魔狼の首目掛けて刀を振り下ろす。
刃は驚くほどすっと肉を断ち、どすんっと大きな音を立てて双角魔狼の生首は地面に落ちた。