02 森の守護者
ドゥルの森には独自の文化を持つ一族がいる。
透き通るような金髪に緑がかった碧色の瞳。不可視である精霊を視る事のできる不思議な瞳。
外界の人々に知られる事なく長い間平穏を守っていた一族。
やがて森の外には村ができ、人と馬車の行き来が増える。人が増えれば森に入る者も現れる。
木こりや薬草摘みの少女。
そして密猟者。
そして今はその一人が森にやってきている。
森の中の湖畔で呑気に焚き火をしている白髪の青年。彼が木こりだろうが薬草摘みだろうが、それこそ密猟者だろうが関係ない。
ただ、機械的かつ速やかに無力化して森の外に放り出すだけなのだから。
♢
「アリス……?」
「誰よ、その人」
金髪に緑がかった碧眼の少女がいる。間違いなくこの森に住むと言われているドルイドだろう。
敵対するつもりは無いので、抜刀はせずに両手をあげて降参の意を示す。
「待ってくれ、敵対するつもりはないんだ。まずは話を聞いてもらっても良いかな」
目の前に杖を突き出しながらも少女は一言「分かった」とだけ言った。
警戒の色を弱めず、ルークを睨みながらだが。
ルークはこの周辺地帯に詳しくない事。依頼を受けてこの森に入った事。自身がここに来た経緯を話した。
「それを証明するものはある?」
「この依頼書を見てくれれば」
ここで「そんな物は無い」などと言えば首を飛ばされそうな剣幕なので、依頼書を見せることにした。
今回の依頼内容をびっしりと書き詰められた一枚の紙片を片手に少女は反応を示さない。
もしや律儀に依頼内容を一から読んでいるのだろうか。
しかし、律儀に見てはいたものの返ってきた言葉は期待してたのとは別のものだった。
「何、この黒い模様を書き連ねたぺらぺらしたの」
「え?」
「え?」
思わず間抜けな声を出してしまった。
この反応からわかることは、ただ一つ。
「字読める? 紙って知ってる?」
普通こんな事を聞けば「馬鹿にするな」と相手の怒りを買うこと間違いなしなのだが。
「ううん、文字なんて要らないし紙? ってこのぺらぺらしたやつのこと?」
本当に知らなかった。会話が通じるのだから少なくとも簡単な文字くらいは読めるだろうと思ったが、勘違いだったようだ。
この世界の識字率はそれほど低くないが高いわけでもない。精々四割から五割の間くらいだろう。
そもそも種族の数だけ言語が存在するこの世界において共通言語の読み書きが出来ること自体が凄いのだ。
目の前の少女が共通言語で書かれた依頼書を読めなくとも不思議な事では無い。
それよりも紙を知らないことの方が驚きだ。
「その紙にはこの森に出た魔狼の群れを討伐してくれって書いてあるんだ。俺は魔狼の群れを討伐しに来たんだよ」
少女は俺の説明を聞いて、何を考えているのか下を向いて黙り込んでしまった。
彼女が下を向いてから数秒。
「事情は理解したわ。けれどここは森の守護者の聖域。無断でこの森に入れば追い出されるって村の人に言われなかった?」
「そんなこと聞いてないよ!?」
初耳である。村長は、森に入れば魔狼に会う前に彼女達に捕まると知っていてたのだろうか。知っていて何も話さなかったのならこれほど質の悪いことはない。
今度あったら絶対文句を言ってやろうと心に誓ったのは言うまでもない。
「まあ、私達もあの魔狼の群れの被害を少なからず受けているし。おばあちゃんに報告するから貴方も付いて来て」
相変わらず杖を俺に向けたままの少女は小声で何かを呟いたかと思うと、虚空から現れた岩塊に両手首をがっちり固定された。
「何かされたら困るからこのまま連れて行くわね」
抵抗する間もなく腕を固められたルークは、少女の背についていく事しかできなかった。
♢
少女は森の中をまるで庭を移動するかのようにひょいひょいと移動していく。
途中までは月の出ている方向を観察していた。
逃走経路を確保しようと思っていたのだ。それもしばらくしてから諦めてしまったのだが。
理由は単純明快。真夜中にも関わらず、迷わずに進む彼女に付いていくのでやっとだったからだ。逃走経路の確保は諦め、移動しながら彼女について尋ねて見たが返ってきたのは痛いくらいの沈黙だった。
歩き始めてから十分程で里には辿り着けた。
両腕を拘束されながらにしては充分頑張ったと思う。荒い息を吐きながら辺りを見渡す。
ドゥルの森の樹木は非常に高く、一番高いものだと平屋が三つか四つ入るのではないだろうか。
一般的に大木と呼ばれる木々に比べるとその差は歴然。
そんな埒外な大樹の幹に沿う形であったり。
太い枝と太い枝の間に建てたりとドルイドの家の大半はツリーハウスだった。
もちろん地面に建てられた木造家屋もいくつかある。ルークはその中でも一際大きい家の中へ通された。
「君が森に入ってきた子か。ベルトに差した物騒な物と比べて随分と綺麗な顔してるじゃないかい」
待ち受け――出迎えてくれたのはこの里の長でアリアという名らしい。
おばあちゃんと呼ばれていたので失礼なことを考えたが、それは尚早であった。
アリアは少女と同じ髪色と瞳、若干幼さを残す少女とは違い大人としての魅力を充分に放っていた。
「それで、森に入った理由は? その子が連れてきたって事は理由があるんだろう?」
アリアは片手に自身の身長と変わらない杖を握っている。少女と同じで警戒しているのがよくわかる。
「俺は魔狼の群れ討伐の依頼を受けてこの森に来たんだ。貴方達の事は知らなかったんだ、済まない」
「魔狼の群れを、ね。青年、君が一人でかい?」
「はい」
アリアに依頼書を見せると、彼女は共通言語が読めるようで納得してくれた。
「なるほど、私達の里からもつい先日行方不明の子が出てね。そうか、それで君は来てくれたのか」
しかしと、アリアの目は細められ、セレイロ村の村長と話したときと似たような重圧が部屋全体を覆った。
「セレイロの村長ならこう言ったんじゃないかい? 『一人じゃ無理だ』って」
村長と面識があるのだろうか。確かに一昨日、一人で行くのは諦めろと言われた。何も言うことはできなかった。それが分かっているのかアリアは「やはりな」と口にすると下を向いて黙り込んでしまった。
少女とアリアは血が繋がっている故か、こういう所はやはり家族なんだろうかと思ったりもした。
「君は魔狼の群れを一人でどう討伐するんだい? 何も私達は討伐して欲しくない訳じゃない。けれど、依頼を遂行できるのか怪しい君にお願いしますとは言えないなからねえ」
背筋に気持ち悪い、ひやりとした汗が流れた。このままでは信用を得ることはできない。ごちゃごちゃした頭で何かないかと考える。
迷っているの見抜いたのか、美しい顔に嫌な笑みを浮かべ、
「早くしろ、私はこれでも短気なんだ」
♢
話は川を流れる水のように滞ることなく進んでいった。少女は湖畔で捕まえたルークとアリアが話しを進めるのを部屋の片隅でぼうっと聞いていた。いや、実のところで内容は全く把握していない。
何故ならアリアとルークが使っているのは私の知らない言葉だからだ。
少女が普段使っている言葉は、森の外では共通言語と呼ばれているもの。
二人が使っている言葉の中に少女が知っている言葉は一つもない。
二人の会話は実際には数分の出来事だったけれど、置いてけぼりにされた少女にとっては数十分にも数時間にも感じられた。
この妙な孤独感はいつまで続くのだろうかと、考えていたところようやく少女の知っている言葉が聞こえた。
「よし、それならこの子も連れて行くといい」
少女はアリアに肩を掴まれて無理やりルークの前に引っ張りだされる。
いや、抵抗してはいなかったから無理やりではないのかもしれないが。
「この子はこの里で一番精霊と仲のいい子だ。役に立つことは私が保証しよう」
ルークはポカンと口を開けて驚いていように見える。いや、実際驚いているのだろう。
変な顔だと笑ってやろうかと思った。
――自分も似たような顔になっているかもしれないと思わなければ笑っていたかもしれない。
「ちょ、ちょっとまってよ。おばあちゃん、何がどうなって私がこの男の子に付いていくことになるのよ」
「青年はこの森に不慣れだ。それに剣はともかく魔法の方はからっきしらしくてな。お前なら大丈夫だろう?」
「何が大丈夫なのよ!? それにさっきの知らない言葉は何よ!!」
「ん、ああ。別種族の言葉だ。気にするな」
展開が急すぎてついて行けない。
少女にとって何故アリアが考えを急に改めたのか、ルークが何者なのかすら分からない。
そんな状態でどうして一緒に森に行くなどと思うだろうか。
少女がちらりとルークの方を向くと、アリアに「この事は誰にも言わないでくれ」と小声で言っていた。
恐らくは人に見せられない何かを見せて、それでアリアを納得させたのだろう。
考えれば考えるほど湧泉のように新たな疑問が浮かんでくる。結局話は纏まったものの、少女とルークについてはなあなあで終わってしまった。
♢
本当に疲れたなとルークは未だ眠気の晴れない頭で昨晩の事を思い出す。綺麗な湖畔で焚き木をしていたらいきなり連行された。
他言語を使った会話は一種の賭けだった。
アリアが共通言語以外に理解がなければルークは一文無しのままシルトに帰るところだった。
もちろん馬車で三日の道を徒歩で。
何故他言語を使ったのかと言われれば周りに聞かれたくない事を話したからとしか言えない。
皮肉なのかルークにとっては忌まわしい事実のおかげでアリアは納得してくれた。
それからルークは自分を連行してきた少女に事情を説明せよと迫られ、一分もかからず終わる説明に数分も要した。
ようやく開放されたと思って外に出てみればそこには老若男女――皆、美男美女――様々なドルイドがいた。
――何処からきたの? 歳はいくつ? 腰帯に差してるのはなぁに? 外の人は皆貴方みたいな姿なの!?
質問と言う名の嵐である。
「いや、もう寝たいんだけど……」
「いいじゃない、いいじゃない。可愛い女の子に囲まれて幸せでしょう? 女の子がいやでも気さくな男衆もいるし」
「いや、普通に眠くて……」
俺の抗議は虚しく彼ら彼女らの質問責めは終わらない。数十分前まで俺を目の敵にしていた少女はその光景を見て「ざまぁみろ」と今にもいいそうな顔でルークを見ている。
「俺ってそんなに嫌われるような事したかなぁ……」
その後は質問だけでなく宴まで開く始末。
悠久の時を生きると言われるドルイドは変化に敏感で、物怖じせずにむしろ歓迎する一族だった。
果実酒からきのこのシチュー。鶏の丸焼き等々。森人と同様に金属を好まないと聞いていたが動物の肉は平気らしい。
主役として連れて行かれたルークは子供たちが寝たあとも大人のドルイド――成人した頃から肉体的成長と老化が止まる――に果実酒を飲まされ続け一睡も出来なかった。
正直、伝説上の種族だと思っていたドルイドが実在していて嬉しいと思った反面。もっと慎ましやかな生活を送る種族だと思っていたルークにとっては彼らの存在は衝撃的だった。落差は激しく、ここまで期待と想像を裏切られたのは初めてな気がするとさえ思った。
想像の斜め上を行く種族の感性に掻き回されるまま、夜は明ける。ルークが寝れたのは、たったの二十分だけだった。
ルークが昨晩の回想を終えた頃少女も起きてきたようだ。顔は晴れやか、熟睡できたようで何よりだ。
「気分はどう?」
「ああ、この眠気さえ無ければ最高だね」
「それは良かったわね」
俺が何をしたというのだろうか。出会ってからこの少女の態度だけが一向に軟化してくれない。
昨夜一緒に果実酒を飲んだお姉さんのように極端に近付いて欲しいわけでは無いが、こうも親の敵のように見られると戸惑ってしまう。
「ねえ」
部屋の扉を開けて外の空気を吸おうと思ったときだった。いきなり呼び止められた。
言葉の圧が凄い、ナイフを突き立てているかのような鋭さを感じる。
「なんだい?」
「貴方はいつになったら名前を教えてくれるの?」
「なまえ?」
ジトっとした視線を感じる。
これがジト目と言うやつだろうかと呑気なことを考える。だが、少女に言われてはたと気づく、確かにルークは名乗ってない。出会ってからずっと不機嫌だったのはそのせいなのかと思うと納得はいく。しかし、
「君の名前も教えてもらってないぞ。俺は」
「「…………」」
ルークと少女の間に沈黙が降りた。
しばらく互いの目を見つめ合いながら「君が先だ」と目配せをすれば「貴方が先に名乗りなさい」と目で返してくる。
もちろんルークが勝手にそう思っているだけで最後の部分は罵倒かもしれない。
そんなくだらない小競り合いを開始してから二分。二人同時に吹き出して、強制終了となった。
「私はアイリスよ。貴方は?」
「俺はルークだ。しばらくの間よろしく」
「ええ、よろしく」
朝露が樹の上から滴る森でルークとアイリスは互いの手を取った。
♢
ルーク達が馬鹿騒ぎしていた頃、ドゥルの森の最奥。
そこにはドルイド達にすら忘れ去られた祠がある。
今でこそ洞窟として扱われているが、遥か昔は精霊神を祀っていた歴とした祠であった。
しかし、ドルイドは年が流れるにつれ樹木へと信仰の対象を移らせていったため、今では魔物の巣窟である。
「人の魂に干渉して魔物に変える魔法、ね」
「貴女様も着々と準備を進めているご様子。魔王様に気に入って頂くためですからこれくらいは出来なければ」
洞窟にいるのは一人と一匹。
一人はボロボロなローブを頭からすっぽりと被った女性。
一匹は目玉がそのまま大きくなったような魔物。
「ええ、そうね。それじゃあ頃合いを見て戻ってきてちょうだいね。ところでその子供は?」
「ああ、回収した村人の一人が忌々しい神聖魔法を使えたみたいで結界を張られてしまったのです」
「まあ、元が赤子なので大した魔物にはなりませんよ」と魔物は触手を左右に振る。
「そう……」
フードで隠れて見えないものの、女性は顔をじぃと赤子に向けているのがわかる。
まだ髪も生え揃っていない赤子だった。
「この子は放置しといて構わないわ。結界に守られていてもどうせ助からないでしょうし」
「御意に」
ロングブーツの踵をコツコツと洞窟内に響かせながら去りゆく女性を目玉の魔物は見つめ続ける。
「魔王様に這いよる女狐風情が、偉そうにしよってからに……」
洞窟の中に光が差すことはなく、頼りになるものも無い。
故に魔物の後ろから聞こえる呻き声に気付ける物は誰一人としていなかった。