22 竜の住む山
前の話より少しだけ時間が飛びます。
銀色に輝く太陽が山肌を照らす中、ルーク達は炎竜が縄張り張っているヴィズオネア山の崖の表面を横に登攀している真っ最中だ。四人の中ではそれなりに冒険に慣れているつりのルークでさえ、額に大粒の汗を浮かべている。
だと言うのに前にいる三人のうち二人、アイリスとエステルは妙に楽しそうに小さな足場に爪先を掛けてはひょいひょい進んでいく。
「うわっ! わわわ……!?」
びゅうびゅうと谷間風が唸り声を上げる中、ぱららと灰色の薄氷が斜面を転げた。アイリスの足が狭い足場を踏み砕いたのだ。力を入れたわけでは無いのだろう。むしろ慎重に歩を進めていたはずだが、鉄楔が無ければ危ういところだった。
それでも彼女の後ろに続いていたルークにとっては心臓に悪いことこの上ない。姿見で己の顔を見れば幽霊に負けず劣らずなほど、真っ青になっている事だろう。
ひんやりとした汗が背中を伝った。下手をすれば四人仲良く断崖絶壁、奈落の底へ真っ逆さまである。
「あっぶな……い。アイリス、転げ落ちでもしたら洒落にならないんだぞ!!」
「ご、ごめん!!」
この山には厄介な点がいくつかある。まず昼間は空を徘徊している炎竜に見つからないように、ほとんど足場のない断崖絶壁を登るのではなく横に移動する形で登攀しなければならない事。
この崖は上に行くほど反るような形になっており、空から見えないようになっているのだ。
しかし、この崖は足一つ引っ掛けるのがやっとの足場しかないくせにとてつもなく脆いのだ。先ほどのアイリスとて、楽しんでいてもふざけていた訳ではない。どれだけ神経を張り巡らせていたとしても、この山では全てが黄泉への案内路になりうるのだ。
「こんな不安定な足場で戦うんですか……?」
「大丈夫、巣は頑丈」
レイリーは転げ落ちても最悪飛べるのだが、飛べる飛べないでは無いのだろう。険しく凶悪な山登りを楽しむ妖精と人形に男二人は苦い笑みを浮かべるばかりだ。崖を這うように進むこと一時間弱。ルーク達はようやく両の足で立てる場所へと到着した。
そこは山をくり抜くようにして出来た洞窟の入り口だ。巨獣の口蓋のような入り口から洞窟の中を進み、抜けると炎竜の縄張りである頑丈でなだらかな斜面に出ることが出来る。
生物の頂点に座す竜と言えど寝る時くらいは寝心地の良い場所を選びたいのだろうか。
「さて、ここまでの道は前座だ。山麓でも話したけれどこの洞窟が一番厄介だ。中は迷宮並みにぐちゃぐちゃな通路ばかりだ。それにいろんな種類の魔物が生息してる。炎竜に遭遇する前に別の魔物にやられちゃ意味が無い」
ルークはそう言って提燈に明かりを灯し、エステルとノエルに渡す。巨獣の口蓋を見上げると、今にも奥から猛獣の唸り声が轟いてきそうな雰囲気に思わず息を呑んだ。
エステルが斥候としてルーク達の数歩前を進み、ルークが前衛。アイリスは後衛兼製図士でノエルは殿だ。
アイリスは森を出てからというもの、新しいものを見つけては「やってみたい」と色々な技術に手を付けていた。薬の調合や、裁縫、踊り等々。料理と文字の習得以外は何でもやっていた。
製図ができるようになったのもシルトで冒険者になってから酒場に入り浸っていた禿頭の戦士に教えてもらってからだ。
アイリスの地図は丁寧かは置いといて、分かりやすいと彼のお墨付きも貰っている。
四人は街で決めたとおりの陣形に整えながら慎重に暗い洞窟の中を進んでいった。コツ、コツと四人の足音が通路の前と後ろに反響する。
「……止まって」
エステルの足が止まった。それに合わせて後ろの二人も武器を構える。暗澹たる暗闇の中では思うように武器は振るえない。提燈の火では遠くからやってくる敵も視認出来ない。
幸いにも洞窟は広いので、刃の先が洞窟の壁に刺さって態勢を崩した合間に……などと言う悲劇は起こらないと信じたい。
「……黒血蝙蝠の群れ、結構多い」
エステルが呟いた直後、耳障りな不協和音の大合唱が暗がりの向こうから近づいて来た。ノエルとエステルは手に持っていた提燈を腰に提げ、エステルは魔法を使うための短杖をホルスターから引き抜き構えた。この日、山に入って初の戦闘が幕を上げた。
♢
決着には十分とかからなかった。
「……ラド・ソーン」
不思議な詠唱、いや魔法だった。エステルは短杖を構えると同時に宙に文字を描き、魔法を唱えた。ルークが知っている魔法は、長い詠唱文を唱えた上でその力を発揮するものだ。エステルがやってみせた様な一二言で発動する魔法など、ルークは知らなかった。
しかし、魔法の効果は一目瞭然だ。黒血蝙蝠の飛翔速度が目に見えて遅くなったのだ。宙を羽ばたいてはいるものの、これでなぜ飛べるのかというぐらいに動作そのものが遅滞していた。
こうなってしまっては、辛うじて動いているだけであって動かぬ的と大差ない。
「……これなら、楽」
エステルを加えた初戦闘は実にあっさりとその幕を降ろした。エステルは短杖をしまい、短剣で蝙蝠の首を一匹ずつ確実に落としていく。実に手慣れた動作だ。
アイリスはわざわざ魔法を使う必要もないのでノエルの後ろに下がった。ノエルは槍で敵の胴をひたすら突き貫いている。最近になって槍の穂先を武器らしく使うようになってきたノエルだが、その腕前は見事なものだ。槍を構えてから突くまでの動作に無駄がなく、ブレも全くない。
そんな三人を傍目にルークは緩めていた鯉口を元に戻し、補助武器の短刀で一匹ずつその首を落としていった。
刀も優秀な武器といえど刀身は鋼。もっと言ってしまえばただの金属だ。血が付着すれば、綺麗に拭き取っても切れ味が目に見えて落ちていくのは明白。そのため、今回に限り滅多に使わない短刀の出番なのであった。
「私、こういう仕事になると出番ないなぁ」
「アイリスにはアイリスだけの仕事があるからそれを頑張ってくれればいいさ。適材適所だよ」
アイリスはすっかり短くなってしまった金髪をくるくると指先で弄りながら唇を尖らせていた。シルトで使った木の短剣は練習で戯れに刻んだ付与魔術がかけられていたらしく、肉を断てる程の切れ味はあの一回で無くなったのだとか。
無事、蝙蝠の群れを狩り終えたルーク達は再び通路を歩き始めた。濃い闇が四人を包み込む繭のように前から迫る感覚。実際には提燈で照らしているから問題はないのだが、ルークはどうしても先の魔法が忘れられなかった。
「凄いな、さっきの魔法は一体なんなんだ?」
ルークは考えていた。何処かで聞いたことのあるような魔法だと思ったのだ。故に興味本位で聞いてみると、エステルは考え込むようにおとがいに小さな手を当てて黙り込んだ。
「あれは魔法。誰でも使えるけど誰でも習得できるものじゃない」
何とも不思議な物言いだ。彼女の言い方はこれこそが本物の魔法、と言わんばかりだ。それに「誰でも使えるけど誰でも習得できるものじゃない」と言う言葉が引っかかる。
エステルは自分から話さないだけで、聞けば大抵のことは話してくれると言うのはここ数日の発見だ。しかし、聞けば話すと言っても線引きはある。これ以上は話してくれないだろうと思い、ルークもその答えだけで満足した。
「エステルさんの魔法も凄いですけど、この洞窟も本当に天然物なんですか……?」
ノエルが陣の最後尾からそんなことを問うてきた。エステルはやはり少しの沈黙と共に、問に対する解を示した。おとがいに手を当てるのは癖だろうか。
「この洞窟の端には沢がある。それが長い時間を掛けて小さな空洞を押し広げていったのがこの洞窟。所々風化で脆くなってる部分もある」
へえ、と感心せずにはいられない。ここまでの知識はそれこそ学者の領分である。この世の中で山や洞穴などの自然物の成り立ちを説明しろと言われても、大半の者は「分からない」と答えるだろう。
提燈の明かりが二つ、場に合わぬ軽快な金属音を奏でながら暗闇の中で揺れている。洞窟は地面が脆くなっているのか、所々他の階層も見えてきた。
アイリスの描いた地図を見てわかったのは、洞窟の構造は蟻の巣状であることだ。
ぐちゃぐちゃに入り組んでいて、時に広間のようなところに出ることもあれば、通路の真下にまた別の通路があったりもする。エステル曰く、階層落ちしたら全てが製図士頼りとの事なので皆慎重に歩を進める。
「これは……まずいね」
「……ごめん、気付けなかった」
洞窟に潜ってからさらに一時間、周りは獣の唸り声で埋め尽くされていた。その声は頭が割れるほど甲高い。暗闇の奥から見つめる数多の紅の瞳は、四匹の獲物をどう追い詰めようかと思索しているかのようだ。
ルーク達を囲んでいるのは黒鼠の群れだった。黒鼠は魔物ではなく歴とした野生動物だが、その存在は非常に厄介だ。町の下水道で見かけようものなら、ギルドから依頼ないしは討伐班が組まれる。
理由は三大疫病と呼ばれる『狂獣ノ病』や『噴血ノ病』に並ぶ、『黒斑ノ病』の発生源になりうるからだ。三つの病はどれも動物や魔物からの感染によって大流行する。しかし黒斑ノ病だけは格が違う。
「……口と鼻を塞いで」
各々が手拭いや手のひらで口と鼻を覆った。こうしてみてから気付いたことだが、鼻を覆っていても顔を顰めてしまいそうになる異臭が宙を漂っているのだ。するとどうした事だろう、黒鼠達は瞬く間にその姿を闇の中へ消し去ってしまった。
「獣避けの香草を使った。……でも、黒斑ノ病は空気感染する……から気を付けて」
格が違うと言うのは、エステルが言ったように黒斑ノ病だけは空気感染してしまうのだ。エステルはそれすら見越した上でか、はたまた単純に彼女が用意周到なだけなのか。
今回もエステルに助けられる形で終わってしまったのが、ルークのリーダーとしての僅かな自信に傷付けていった。
それからも度々魔物や肉食獣に襲われては、逃げたり戦ったりを繰り返した。洞窟の中が蟻の巣状になっているせいで、アイリスの製図に何枚もの羊皮紙が使われた。出費は痛いが今回は我慢する他無い。
迷いでもしたらこの地図を頼りにするか、どこか自然にできた吹き抜けを見つけなければ外には出れないのだ。所々、壁に傷を付けたり特徴的な場所などを印を付けて洞窟を進んでいる。しかし、いくら進めども吹き抜けどころか風すら感じられない。
初日の探索は広めの部屋を見つけたところで一旦中止した。既に太陽は西の空に傾き、今は夜の帳が空を覆っていることだろう。なぜ今が夜とわかったのかと言えばノエルが前から持っていた懐中時計を持ってきたからだ。本人もこんな所で役立つとは思っていなかったらしいが。
「それじゃ、入り口塞ぐよー」
「空気の通る穴は開けといてね」
アイリスの鈴を鳴らしたかのような詠唱が円部屋の中に響く。同時に部屋と通路を繋いでいた穴を塞ぐように岩の壁がせり上がって来た。
「提燈の油も残りわずかだからね。明かりはもう消そう」
エステルとノエルがルークに言われた通り提燈の灯りを消すと、途端に丸部屋の中は呑み込まれそうな闇に覆われてしまった。方向感覚すらあやふやになるほどの闇に思わず声が出る。
「暗いねえ……」
新月の日でもここまで暗くなることはそうそうないだろう。ノエルも堪らずといった様子で言葉を吐き出す。
「ちょっと不便ですね。もっかい灯り点けましょう」
「うん、ちょっとだけ作業もしたいし……提燈はここらへんだったっけ?」
だから不慮の事故だとは分かっていても、ルークはこの時ほど暗闇の中で身体を動かした自分を恨んだことはないだろう。
恐らく提燈があるだろう場所に手を伸ばそうとした瞬間、右手は想像以上に手前かつ上の方で障害物に当たったのだ。
ふにふにと弾力のある感触。「んっ……」と妙に艶っぽいアイリスの声。悪寒が全身を支配した。冷たく大きな汗が額に浮かび、触ったものが何かを悟った瞬間ルークの頬は自分でも分かるくらいに上気していた。
「る、ルーク……!?」
「ひっ……! ご、ごめん!!」
条件反射で上体を逸らしたルーク。恐らく胸を庇ったであろうアイリス。灯りを消す前の記憶を頼りにするならば、ルークの後ろにはエステルがいたはずである。「あっ」と思ったときには時すでに遅し。
ゴチンッと実に痛そうな音が部屋に響いた。それからアイリスが宙に向かって何かを頼むような口ぶりを見せるとぱあっと部屋の中が明るくなった。
「っ……痛い。早く、退いて」
「ほんと、ごめん」
明るくなった部屋には、額を強打したエステルに後頭部を強打したルークが仰向けに覆いかぶさる形で倒れていた。アイリスの顔を見れば頬は真っ赤に染め上がっていた。
「何で二人ともそんなに顔を真っ赤にしてるんですか?」
一人状況を把握しきれていないノエルの声が静かに部屋の中に響いた。アイリスは耳まで赤くして自身の背嚢を持ち上げた。
「今日はあっちで寝る……」
「……じゃあ俺はこっちで」
アイリスは部屋の奥を陣取ったので、ルークは先程のこともあり距離を取ることにした。先程右手が触れてしまったのは間違いなくアイリスの胸だ。
義手であれば感じることなかった感触を思い出すたびに頬が上気してしまう。そしてこんな姿を仲間に見られるのも嫌だった。
光は中心から部屋全体を照らせる程度だ。あの光はアイリスが度々使っていた幽火の精霊のものだろう。
部屋の隅に荷物を置き、物を取りやすいように――見た目も気にして――整理した。するとどうだろう、何も無かった丸部屋は御伽噺に出てくる小人の土中の家のように仕上がった。
荷物を纏めて、自分の寝床を確保してからルークは気分を変えるために背嚢からとある物を取り出した。
「見張りは俺からやるよ」
そう言って、背嚢の中から取り出したのは一冊の本だ。分厚く凝った装丁が荘厳な雰囲気を醸し出している。部屋を塞いだとはいえ、絶対に魔物が来ない保証は無いのだ。故に見張りは絶対……と言ってもそこまで警戒することも無い。そこで、先の痴態を記憶の隅に追いやる為にも読書をする事にした。しかし、本を読み出したルークを良く思わなかったのか、既に寝たと思っていたエステルが赤子のように「ハイハイ」をして近寄ってきた。
「……本、好きなの?」
その瞳からは見張り中に本を読み始めたことへの不満や怒りといったものは見られず、寧ろルークの持つ本に好奇心を抱いているようにも見えた。
それも当然といえば当然だろうか。童話や詩集などと言った一般に本と呼ばれるものは基本的には貴族が嗜むものだ。庶民には値段が高すぎて購入する手立てが無い。
ロウウェルならばその辺りのものは持っていても可笑しくなさそうだが、彼女はルークの持っている本を読んだことが無いのだろう。
ルークもシルトでたまたま手に入れた古い英雄譚を何度も読み返しているだけである。それでも本というのは不思議な魅力を持っているもので、飽きるということはなかった。
「譲ることはできないけど……読んでみるか?」
「……読むっ!!」
エステルはその容姿も相まって、玩具を与えられた幼女のようにはしゃいだ。声は決して大きくは無い、そもそも部屋自体が大きくアイリスやノエルは既に反対側の壁で寝ている。きらきらと瞳を輝かせたエステルを見ていると、昼間までの彼女の凛とした姿からは想像もつかない。
この部屋に限って見張りで二人起きていても意味がないので、ルークは先に寝かせてもらうことにした。エステルは弾んだ声で「分かった」と言うとすぐに表紙を開き、頁を捲り始めた。微睡む意識の中、エステルの楽しそうな顔が妙に印象に残った。