21 神樹の精霊
ロウウェル邸に戻ってから半刻。アイリスは目の前の料理に目を輝かせていた。色彩豊かなサラダや、鶏の燻製。他にもスープやパンと様々な料理が卓の上に並べられていた。前に暮らしていた里や台上の国でもこういった料理は幾度となく見られた。
味付けが違うのだ。あちらが濃厚で味わい深い調味料ならばこちらは果実を中心にした実に爽やかな調味料を使っているのだ。
興奮も高まるというもの。あくまで上品に、最悪素手で食べるのだけはやめろとはルークの言葉だったか。
流石に里を出てから色々なことを学んでいるため、素手で料理を鷲掴みになどはしない。学習という面ではシルトの王城での生活は特に有意義だった。知らない事を知るというのはアイリスにとっては楽しみの一つなのである。
「子供がお好きなんですか?」
楽しい夕餉の時、ノエルが唐突にそんな事言い出した。食卓は横幅のある机で、彼の視線の向こうには館に住んでいる子供たちの姿が在った。獣人の女の子も、亜人の子供たちも、もちろんの人間の子供も皆等しく笑顔だ。この国ではまず見られない光景なんだろうなと、アイリスは思った。
「うん? まあ、そうだね。保護者という立場としての愛情はあるつもりだ」
「つもり?」
ルークが訝しげな目を向けている。なんだか昼間から様子が可笑しいのだが、本人もひた隠しにするし後で問い詰めてみようと密かに心に決めたアイリス。アイリス自身はこの会話にはさして興味がないので、目の前の料理に手を伸ばす。
「ん〜、説明が複雑なんだけどなぁ……。話したくない訳でもないし、僕の長話に付き合ってくれるなら理由を聞かせてあげよう」
そういってロウウェルは子供たちが成人するまで保護している理由を話し始めた。面白い話が始まるのかな? と思ったときには右から左へ抜けていた会話が、しっかり頭の中に入ってくるようになっていた。元々この立派なお屋敷は彼の者ではなく、彼の奥さんの所有していたものとの事。
「妻はね、この国ではそれなりの地位にあったんだ。当時の教皇の妹であり、彼女自身も初の女性司教と言う偉い立場にね」
話を聞いたルークが「うん?」と首を傾げ疑問を口にする。
「失礼ですが、聖職者と言うことは子を成せないのでは……?」
「うん、だから僕は彼女とは一度も交わったことも無いし、操も立てると誓った。今日まで成人女性と繋がりを持つこともしなかった。種族柄性欲が強い訳でもないしね」
朗らかに笑う様は疲れているようにも見えた。しかし、当然といえば当然のことでもある。長命種にとって時間の流れはとても残酷なものというのは常識だ。前に興味本位で半分くらい読んだ創作小説。その中の森人の台詞に「時間の流れなど我らからすれば早いもの」と言うものがあったが、そんなのはもっぱら嘘である。アイリスはまだ若いが、それでも知っている。
身近な家族がそうだったのだ。時間の流れは皆平等だ。呪いにでも罹らない限り、感じる速度もまた同じ。そして味わった苦しみや悲しみは基本的に死ぬまで自分に纏わり付くつくもの。
里にも過去に一人いたのだ。千年も昔の外の世界においてきた恋人と死に別れたことに耐えきれず命を断った者が。アイリスは彼女が身を投げるのをその目で見てしまったことがある。
ロウウェルの瞳はその時の彼女と同じだ。
「妻が大の子供好きで、獣人や亜人だなんて小さなことに囚われることが無かった。『子供は次世代の希望』だなんて言って、あの頃は今に比べてこの館ももっと賑やかだった」
過去を懐かしむ目。その目に『今』は映っていない。
「この館は彼女の生涯が詰まっている。彼女は死の間際まで獣人や亜人の差別をやめるよう訴えたが叶わなかった。彼女の願いは夢半ばだ、だから僕はここに残って子供たちを保護している。僕は彼女の夢を叶えるまでこの地を離れるつもりも無いけどね」
それからもしばしばこの地で起きた珍しい湖の精霊の御伽噺や末恐ろしい神隠し事件の話を織り交ぜてエステルやクリスタの話になってきた。
「エステルとセシリーを拾ったのは、今から十六年くらい前かな。クリスを預かった後だから僕もてんてこ舞いでね。その時下の子を世話できる子がちょうど巣立ちした後だったから本当に大変だった」
「三人のやんちゃな子供が同時に増えたからね」とロウウェルが微笑むと顔を赤くするのがセシリーと、クリスタ。何故か胸を張るのがエステルだった。
「赤ちゃん、だからしょうがない」
小さな頃の話題になるとルークが一瞬だけ物憂げな顔になった。彼はいつだって何かを隠している。アイリスやノエルには話せないことがあると分かっていても仲間としてはどうしてももやもやしてしまう。
「それにしても一番驚いたのはやっぱりエステルかな。君が三歳くらいのとき物凄い嫌われてたからね、僕」
「一度だけ、魔法をぶっ放して、やった」
セシリーの顔が青くなっていく。初めて聞いたんだろうか。「私そんな話知らない!!」とでも言いそうだ。
「私、そんな話聞いてない!! 姉さんなんてことしてんですか!?」
言った。口調が砕けかけるセシリーがなんだか面白くなってきて「エステルちゃんがいじめたくなる気持ちが分かるよ」などとは口が裂けても言えない。
「そうだね、あのときは躱しそこねたら首から上がボンッだったからね。流石にヒヤッとしたよ、それが意図的だったと知った瞬間は特にね」
「姉さん!!」
セシリーがダンッと机を叩く。部屋中に響き渡る大きな音。当然端の方でわちゃわちゃしているちびっこ達も反応するわけで、一番歳若い子供が泣き始めた。そのこの面倒を見ていた子もパニックを起こし大絶叫。
「セシリー……」
「一緒に宥めに行きましょう? セシリー」
前者の呆れた声はエステル。後者はクリスタだ。セシリーはキッとエステルを睨めつけるとそれでも自分が悪いと思っているのか、クリスタと一緒に子どもたちの方へ向かっていった。
「や、これは僕が悪かったな。けれど、エステルももう少しセシリーに優しくしてやってくれないかい。これじゃあ……」
「だめ、優しくしたら。あの子は離れられない」
エステルが気になる一言を残してその日の夕餉は終わりを告げた。小さな子どもたちも各々の食事を終えて、セシリー達と遊び始めていた。浴場にはルークとノエルが先に入ることになった。
アイリス、エステルとロウウェルの三人で食器を洗いの真っ只中だ。今日の片付けは本来は違う子のようだが、その子は今はセシリー達と遊んでいる。故に皿を洗っている三人はやる気溢れる有志の者達なのである。
皿は三人で分担して洗っていたのだが、一番最初に洗い終わったのはエステルだった。
「エステル、終わったなら蔵から弱めの酒を持ってきてくれないか?」
「ん? りょー、かい」
台所にはアイリスとロウウェルの二人だけが残った。ロウウェルは「よしっ」と一言呟くと、やりきったという様子でタオルで腕を拭いている。
「手伝うかい?」
爽やかな笑顔が飛んできた。
「大丈夫です……!」
アイリスは未だ大量の皿と格闘していた。
♢
アイリスが大量の皿を洗い終わった頃、エステルが一本の葡萄酒を持ってきた。エステルはやることがあると言ってすぐさま自室に戻ってしまったので、広い居間に残るのはやはりロウウェルとアイリスのみである。
アイリスはこの状況に少々、いやかなり困惑していた。そもそも里を出てからというものルーク以外の人と二人きりになどなったことが無いのである。何を話せばいいか全く持って見当がつかなかった。
「君たちはどうしてこの大陸に来たんだい?」
「え?」
突然のことだったので思わず間抜けな声を出してしまったアイリスは頬が熱くなるのを感じた。
「ごめんごめん、急すぎたね。ちょっとした興味本位なんだ。実際のところはどうなんだい? 良かったら教えてもらえないかな」
人の良さそうな顔を浮かべて微笑むロウウェルに自然と釣られて口を開く。三人で魔界に向かっていること。自分以外の二人は大切な物を得るため、取り戻すために向かっていると。
アイリスでも魔王の事は隠したほうが良いとは分かっていたので黙っていたのだが、ロウウェルは「なるほど」と大仰に頷いてから言ったのだ。
「ルーク君の目的はもしや先月ヴュステに現れた魔王かな?」
ピクリと肩が跳ねた。ロウウェルはその反応を見てか薄く笑った。鎌をかけられたのだと気付いたときには遅かった。ロウウェルは確信を得てしまったようで「ほう……」と何故か感心したような、安心したような顔をした。
「勇者でもないルーク君が魔王を、ねえ……。この世界には四人も勇者がいるんだから彼らに任せておけばいいのに」
アイリスはその言葉を聞いたとき小さな疑問が自身の中に芽生えたのを感じた。確かにそうなのだ。生まれてこの方森暮らしのアイリスでも勇者という存在は知っている。
砂漠に侵食されたヴュステ大陸、人と魔の戦により狂ったヴァルカン大陸、年中穏やかな風が大地を撫ぜるヴァルト大陸。東の方にも大陸という名の島嶼地域がある。
四つの大陸には必ず、同じ時期に四人の勇者が生まれるというのだ。身体の何処かに十字剣の紋章を宿し、常人では考えられない常軌を逸した力を持つ怪傑達。
確かにそんな人たちがいるのならルークが行く必要は無いのでは、と思う。第一アイリスはルークについて何にも知らない。
「ルーク君が好きかい?」
「ひゃわっ!?」
突然のことにぼふんっと顔全体が一気に熱くなる。まるで湯でも掛けられたかのようだった。
「い、いいいきなりにゃにを!?」
「ははは、予想以上の反応でお兄さんちょっと楽しくなっちゃったよ」
何を笑っているんだと怒鳴ってやりたかったが、恥ずかしさのあまり声がうまく出なかった。ロウウェルはそんなアイリスの姿が微笑ましようで頬を若干緩めたが、すぐに表情を引き締め真剣な眼差しをアイリスへと向ける。
「そんな君に僕から忠告だ。彼は必ず無茶をやらかす、自分で自分の力を理解していない。御しきれていない。それに彼は人間だ、ちょっと小突くだけで簡単に崩れてしまう」
「そんなことは……」
「いいや、崩れる。彼と少しでも一緒にいたいのなら彼を後ろから見ているだけじゃ駄目だ」
大きく息を吸って、吐く。一連の動作を二三度繰り返してようやく落ち着いたアイリスは浴場の方を見る。決してやましい気持ちがあるわけでは無く、ロウウェルの言葉が引っかかるのだ。
「いやいや、ごめんね。変な脅しを掛けるつもりじゃあ無かったんだ、本当だよ? 実は君に会って欲しい子がいてね」
「会って欲しい子……」
ロウウェルに言われるがままに連れて行かれたのは彼の書斎だった。彼は窓際に近づくと壁に立て掛けてあった一本の杖――――ではなく槍を手に取った。アイリスがソレを杖と見間違えたのは槍が木で出来ていたからだ。
「会って欲しいというのは……」
ロウウェルは一層穏やかに微笑むと、静かにその名を呼んだ。このとき、アイリスのロウウェルに対する印象は「よく微笑む人だな」だった。
「おいで、クラルス」
ぱあっと木の槍が白光に包まれたかと思うと、直後ロウウェルの傍らには若葉色の髪の女性が立っていた。
「あぇ? えっ何処から?」
「始めまして、ドルイドのお嬢さん……で良いのかしら。貴女はちょっと不思議な雰囲気の子ね」
クラルスは悪戯が成功した子供のような笑顔を浮かべてロウウェルの方へ視線を送った。
「紹介しよう。清浄なる神樹の霊槍クラルス。世界樹に宿る精霊、それが彼女だ」
「正しくは世界樹に宿る神霊の分体ね」
いよいよもってアイリスの理解の及ばぬところに来てしまった。世界樹に宿る精霊の事は聞いたことがある。天翼人の選ばれた者のみが、かの精霊と契約を結ぶのだ、とアリアが世界を回っていた頃の話の中でそんなのがあったからだ。
しかし、武器に宿る精霊など少なくともアイリスは聞いたことがなかった。故に、
「あの、どういう事ですか?」
話は振り出しに戻るのである。
クラルスはアイリスに近寄ると「ほぅ」と恍惚の表情を浮かべると同時に哀しそうな目を向けてきた。
「貴女からは母さまの魔力がとても強く感じられるわ。けれどその胸に刻まれたモノは呪いね」
両手で自身の胸元を抑えて一歩二歩と後ずさるアイリス。一連の会話は流石にロウウェルの予想外だったのか「ごほんっ」とアイリスとクラルスの間に割って入る。
「クラルス、君のお眼鏡には叶うかな?」
「ロウウェル、貴方そのために……」
「僕はもう役目を果たせない、既に資格がないんだ。その点、彼女は君達とは最も繋がりが強いじゃないか」
クラルスは若葉色の髪を月明かりに照らしながら、黙考する。精霊とは思えないほどに彼女の行動は人間的だ。アイリスはドゥルの森にいた精霊たちを思い出して、頬が緩むのを止められなかった。やがて、考えが纏まったのかクラルスは頷くと両手で胸の前に起き詠唱を口にし始めた。
「アイリスちゃんのあの杖はいつから使っているんだい?」
「えっと、四年前に自分で枝を削って……」
「すごいね、自作かあ。ものは相談、と言うより何があっても押し付けるんだけど僕から杖を受け取ってくれないかい?」
アイリスは首を傾げた。この書斎の何処を見ても杖らしきものは見当たらなかった。「はて、一体どこから」と口にするより早く、目の前にそれは現れた。クラルスの両の掌の間に若葉が現れ、急速に成長を遂げる。それは瞬く間に杖の形を取り、彼女の手の内に収まった。
「これは名も無き神樹の霊杖。世界樹の種から作られた世界に一本だけの杖よ」
手渡された杖はアイリスが持っている杖と大した違いはない。もちろん、精霊が手ずから作ったのだから形状や見目はこの杖の方が圧倒的に綺麗ではある。両手で持つと想像以上に軽く、丈夫であるように感じられた。
「使っているうちに私の分体……つまりもう一人の世界樹の精霊が生まれると思うから上手く面倒を見てあげてちょうだい」
「あの、なんでこれを私に……?」
「クラルスを持つ僕の本来の役割は力無き人を護り、助けを求める者に力を貸し与えることにある。けれど僕はもうこの国の壁より外に出ることがない。それだったら最も適任である君に譲渡したいと思ってね」
微かにだが、霊杖から魔力が溢れてくるのを感じ取ったアイリスは杖を胸に寄せ、両の腕で抱いた。こうしてみるとわかるが、この杖は温もりを持っている。単に暖かいのではなく生き物の持つ温もりのようにも感じられた。
「もし、私の分体が生まれたら良い名前を付けてあげてね。ドルイドのお嬢さん、呪いも無事解けることを祈っているわ」
クラルスはそう言うと儚げな笑みを残したまま槍の中に溶けるようにして消えていった。そして床に倒れそうになる槍をロウウェルが支える。
先程まで美しさすら感じた木槍は、力を使い果たしてしまったかのように乾き、所々亀裂が目立っていた。
「あの、槍が……!」
「神樹の武器は次代に力を託すときにこうして己の役目を終えることで、朽ちていくんだ。二千年共にした相棒ともこれでお別れだ……」
やがて槍はその形を保てなくなったのかボロボロに崩れ、枯れた木片がパラパラと床に散った。
「アイリスちゃん、その子をよろしく頼む。それとルーク君も、気にかけてやってくれ」
「はい……」
アイリスは一言そう答えるしかなかった。仕方ないじゃない、と心の中でぼやく。ロウウェルには色々説明して欲しいことはある。しかし、今の彼の顔はとてもそんなことを聞けるような表情では無かった。
ようやく、心残りを無くせたかのように穏やかな笑みを浮かべていたのだ。一筋、頬に伝う何かが月明かりを反射している。
予感とはこういうものなのだろうか。アイリスが今感じているのは、永きを共にした彼らの別れによる哀しみではない。ロウウェルの姿は、まるで己を繋ぎ止めていた楔を外された悪魔のように思えて仕方がなかったのだ。流した涙は人としての何か大切なもの、そんな気がしてならないのだ。
「さ、君も浴場に入ってくるといい。エステルも用事は終わってるはずだから、誘ってみたらどうだい?」
アイリスはその言葉に頷き、書斎を後にした。扉の隙間から見えたロウウェルの表情は暗くてよく分からなかった。新たに手に入れた杖を抱え、アイリスは自室に戻っていった。
「あとは竜の血だけ、か。僕もそう遠くないうちに君たちに会いに行くよ。クラルス、マリー」
その言葉を聞くものは誰もいない。生涯の大半を共にした相棒と、最愛の人の名を口にしながらロウウェルは椅子に腰掛けた。古い葡萄酒を注いだ酒盃を呷る。
「うん、月見酒っていうのも中々に乙なものだね」