14 行く手を阻む者
それはとある満月の日の夜中だった。太陽は西に沈み満月が東の空に浮いていた。ぽつぽつと街灯の明かりが点き始めた。城塞都市シルトの直上には都市全体を覆うほど巨大な魔法陣が敷かれていた。
「なんだあの魔法陣は!?」
一人が叫び皆が空を見上げた。そこから波のように怒号と困惑、諦観が広がっていった。皆理解したのだ、空に浮かんだ魔法陣がこの都市を滅ぼすものだと。年中魔法を弾く結界に守られていても関係ない。あれは結界内で発動させているのだ。普段から魔族との交戦を経験した者たちだからこそ即座に理解できてしまう恐怖。
「ルーク、私あんな魔法知らないよ……!!」
「俺も知らない。とにかくどんな魔法かわからない以上、王城の前まで避難するぞ。ノエルは見つけ次第合流だ」
それはルーク達にもわかっていた。おそらく住民の殆どは外門に移動するだろう。今更行っても人波に揉まれてしまう。故に一部の者たちは一番守りが固い城の前に集まるのだ。二人は人々の流れと逆行しながら城に向けて走った。
「ルーク、精霊があの魔法には誰も力を貸してないって。あれは本物の魔法だよ!!」
「俺に魔法の真偽を説かれても分からないよ!! どういうこと!?」
アイリスの言った「本物の魔法」というフレーズを理解しかねるルークは必然的に問うた。魔法を使ったことのないルークにとって魔法は精霊に力を借りようが借りまいが等しく神秘の力の象徴だ。違いなど説かれても理解が追いつくはずも無かった。
「人の持つ言葉ある力と術者の心象だけで精霊と同等の力を発揮すること。それが人には出来ないはずの本物の魔法だよ!!」
直後、魔法陣がシルトの都市全体に降り注いだ。物理的にダメージがあった訳では無い。自分のことは分からないがアイリスを見る限り精神状態を可笑しくする類でもないようだ。体調もすこぶる良い。ただ一つ違和感があるとすれば心の中に灯った黒い何か。確かに胸の中を焼くような感覚があるが何も影響を与えていない。現れただけだった。だが、周りは違った。
「アイリス、ごめん!」
「え? きゃあっ!?」
ルークはアイリスを突如抱き抱え――――俗に言うお姫様抱っこである――――とある家屋の屋根の上に向けて跳躍した。その直後、二人のいる場所めがけて炎のブレスが撃ち込まれた。深緑色の鱗と甲殻、黄金の縦割れ瞳に蜥蜴の体躯に蝙蝠の翼を取ってつけたかのような姿。
「緑竜……!」
竜は強さと地位を大きく分けて三段階に出来る。亜竜、竜、竜の三段階だ。下から人の地位に照らし合わせて下人、平民、貴族といった具合である。そして竜族の世界においてそれぞれの地位の差はとてつもなく大きい。道の中央に突然現れた緑竜はその身一つで町を滅ぼすには十分すぎる強さを誇る。
「竜!? 一体何処からこんなのが!?」
しかし、市井の人々に取ってみればそんな差など全く関係ない。亜竜ですら人類の脅威なのだ、竜族であるというだけで発狂手前は必至である。緑竜が現れたのを皮切りにあちこちで魔物が突然現れては、逃げ惑う人々をその凶爪によって切り裂いていった。
「これって森で見たのと同じ……」
アイリスは先日森で見た、人が魔物に化けていく様を思い出してしまったのだろう。顔からは血の気が引いて、体も若干だが震えていた。
「さっきの魔法陣……まさか都市全体にあの魔法を掛けたのか?」
魔法で人が魔物に化けるのなら得心が行くと、波立った心を落ち着けた。しかし、間髪入れずにアイリスがそれを否定した。
「無理だよ、こんな広い範囲に魔法を使えば一瞬で魔力が空っぽになっちゃう」
ではこの光景は何だと言うのだろうか。眼下を見ればそこは地獄絵図そのものだ。正気を保ったまま恐怖と混乱に駆られる者。正気を失い、誰彼構わずに辺りに攻撃する者。魔物と化して人を襲う者。対象には勿論ルーク達も入る。
「このまま王城まで突っ切るぞ!! あんな所に飛び込んだら即お陀仏だ!!」
ルークは屋根瓦が砕けるのも構わずに足に魔力を込めて民家の上を駆けた。下から、横から、上から色々なモノがルークとアイリスを血の池に沈めようと襲い掛かってきた。時には灼熱の火球。時には不可視の風の刃。或いはルーク達の倍はある巨爪で民家ごと粉砕した。
「ルークさん、アイリスさん。無事ですか!?」
魔物から逃げながら屋根の上を走り続けていたルーク達に近づく影が一つあった。白い翼にほんの僅かに魔力の光を纏わせて宙を駆けるのはノエルだ。
「ノエルも養父母さん達は大丈夫か?」
「はい、真っ先に王城に避難してもらいました。国王様が城内の庭園を開けてくれたんです」
吉報だ。どのみち戦うことにはなるだろうが、避難してきた者たちと纏まって戦ったほうが一人二人で戦うより遥かに安全だ。それにアルクスフィーニの国王と言えば、魔族の一万の進軍を二十分の一の兵力で死者十人未満で守りきった生ける伝説である。もはやそこまで行くとお伽噺の領域だが、そんな人物が居てくれるのなら心強いことこの上ない。
「俺達は王城に向う。おそらくこうなったら籠城するだろうから俺達もその中に入れてもらおう」
「僕も着いていきます」
「私もルークに任せる……」
大体の方針が決まったところでルークは身体強化を更に強めた。アイリスを抱きかかえたまま城まで最短距離で跳んでいくためだ。これを見た後の生還者は「あれもバケモンだ」と言ったそうだ。
正しく宙を飛んでいるノエルと大差無いほど宙を跳んで渡るルーク。ノエルは若干呆れているようで「こんな人敵に回す方がおかしかったんですね」などと言っている。ルークが跳び始めてたったの数十秒で城は見えてきた。そしてあともう少しと言うところで二つの影がルーク達の行く手を阻んだ。一人は見覚えのある狐人の堕ち人だ。
対してもう一人の黒髪青瞳の青年は全くの初見であった。
「悪いけれど貴方たちの相手は私達二人よ」
コルデーは狐色の二尾を揺らしながら艶やかにに微笑んだ。
♢
「コルデー……」
「あら、一度名乗っただけなのに覚えていてくれるなんて光栄だわ」
「あんな印象的な名乗りを受けて忘れられるならさぞかし楽な人生だっただろうな」
「あの人が私を狙って……?」
ルークとコルデーは睨み合い。お互い得物の柄に手を掛けている。ノエルに至っては既に槍を構えている。
「まあ、いいわ。私達の目的はこれでアイリス、貴女に傷を付けるだけで済むの。この短剣を刺すだけで私達は退くわ、だから貴方達少しの間どいていてくれないかしら?」
コルデーは白練色の短剣を片手で手遊びしながらルークとノエルにそれぞれ視線を向けて、大切な仲間を傷付けるのを見逃してほしいなどとほざいた。
「「断る!!」」
「あら、残念」
コルデーはそう言うと刹那の間にアイリスとの距離を詰め、短剣を振りかぶった。分かりきった行動に一番近くにいたノエルが反応し、短剣の刃がアイリスに触れる直前に防いだ。ルークもコルデー以上の速さで距離を詰めて、刀を抜き放ったが、コルデーのがら空きになった背中に刀が届く事は無かった。
「貴様の相手は我が務めさせて頂こう」
「邪魔だ!! どけ!!」
普段は見せない荒々しい声音でルークは黒髪の男に切りかかった。気が昂ぶっていたせいか、剣筋は僅かなブレを伴って男の身体から逸れてしまった。黒髪の男の右手にはいつの間にか黒い直剣が握られていた。コルデーと並んでいた時には鞘すら帯びていなかったためルークの胸中に動揺が走る。ちらりとアイリス達の方を見ると二人は何とか攻撃を防いでいるようだが、コルデーの無詠唱の魔法に押されていた。
「戦いの最中に心まで他所に向かわせるとは、我を軽視しているのか?」
声が聞こえた時には既に目と鼻の先に黒い刃が迫っていた。
「ぐっ!?」
間一髪、左腕の義手を魔力で硬質化させて防ぐことが出来た。しかし、その衝撃のせいで身体は成すすべもなく吹き飛ばされ、結果アイリス達から遠ざけられてしまった。
「貴様とは一度話してみたかった。ちょうど良い機会だ、感想を聞かせてはくれまいか?」
「なんの話だ」
ルークは目の前の敵から意識を一瞬でも外したことを後悔した。刀を正面に構え、次こそは油断しないと誓い、男に視線を固定した。しかし、誓いは一瞬にして破らされた。
「我が母、魔神の首を斬り落とした時の感想を問うているのだ」
頭の中が真っ白になったかのようだった。
「な……」
「我は魔神、いや、月の女神により生み出された者。故に母の記憶は我に継承されている。さあ、我が母の首を落とした感想は如何に?」
頭は真っ白になったまま。それでも身体は意志とは関係なく前へ進み、両の腕を天高く翳した。
「それが答えか」
次第に真っ白になっていた頭に今と過去の情報が上書きされていった。あの日、光の差さない大地での出来事。そして、目の前の男から感じる吐き気を催すほどの不快感。
「お前は、俺を基にした……」
「ほう? 良く気がついたな。我は貴様らが母を封じたその次の日に生まれた。母の剣として、手足として、目として」
蓋を閉じて、決して無意識のうちに開かぬようにと封じ込めていた過去が溢れだした。同時に過去に伴って蘇る怒りと憎悪と強さへの執念じみた渇求。右袈裟から左袈裟、続いて突きから横薙ぎの一閃。呼吸の間を置くことなく急所めがけて刀を振るう。
良く視える両目によく動く両手。身体強化の倍率を身体が壊れる寸前まで引き上げ強引に神速の域に到達した。
「ははっ感情に押しつぶされ、負の感情のみで刀を振るう幽霊武者の相手も悪くはないな!!」
男は終始、気味の悪い薄笑いを崩すことは無かった。剣戟とは一方的に続くものでは無い。一方が出しゃばればそのツケが回ってくるのが道理。
ルークの連撃に生じた僅かな隙間。男はそこに自身の剣撃を混ぜ、今度はルークが受け手になる番だった。
「刀身で刃を受けずに全て受け流すか、躱す。まるで雲を相手にしているような感覚。ふむ、確かに親子だな」
「なんだと?」
太刀筋は鈍らせず、超高速の剣戟を行いながらルークは答える。表情としてそれを表に出すことはしなかったが、心の内は別だ。何故ここで死んだはずの父が出てくるのかが分からなかった。
男の語った事が全て真実だとするのならば男はこの世界に生まれて精々四年半だ。だと言うのに死んだはずの父を男が知るはずもないのだ。
「お前達は不思議だったのではないか? 何故仮にも神と呼ばれた我が母が一時的にとはいえ首を刈られたのか」
言葉を一言交わすうちにも十の剣閃が刻まれていった。二人の剣戟は常人の域を逸脱し始めていた。
「簡単な話だ。二十と余年ほど前、お前達の両親は己の命を賭して一度月の女神を封じていたのだ。故に、起きたばかりの彼女は二人の勇者に遅れを取った。それも先と同じ様に」
ほんの僅かに男の剣に重みが増した。受け流すだけでも、両腕が痺れ、たたらを踏んでしまう程だ。その一撃による隙はとてつもなく大きく、ようやく均衡を取り戻し始めていた剣戟は男の優勢となった。
「合点がいったよ。なんだ、俺は見た事もない親父の剣を知らず知らずに真似てたのか」
キィインッという音ともに黒い直剣が空を舞った。
「なに……?」
今度こそ男の驚く番だった。ぽかんと宙を見つめていたのは刹那の間。しかし、その一瞬は男にとって致命的な隙となった。
「ぐっおぉ……!!」
男は黒い霧を出現させ、その中から先と全く同じ黒剣を取り出し剣の腹でルークの斬撃を受ける。
「へぇ、女神に生み出されたってのは伊達じゃあないんだな。今のが魔法なら今頃お前は有名人だ」
「だろうな……」
「それじゃあ、色々教えてくれた礼に取り敢えず一発返してやるよ」
男の額には大粒の汗が浮かんでいた。ルークは低く、低く――――――――獲物を狩る四足獣の様に身体を構えた。直後、遥か後方に煉瓦の爆ぜる音を、眼前で肉を突き破る感覚がそれぞれルークの脳を刺激した。一瞬と表するにはあまりにも速すぎる一撃に男の身体が揺らぐ。
「なに……が?」
男の身体から血が流れることは無かった。そこにあるのはただの穴。ダメージを負ったからと言うよりは本当に何が起きたのか理解していないかのようだった。
「お前が血肉を持っていようがそうでなかろうが俺には関係ない。さっさと行動不能にしてアイリス達を助けに行くだけだ」
ルークは再び刀を構え直し、背筋を伸ばした。一方男は腹に風穴を開けられたのが予想外だったのか直剣を片手に俯いていた。
「そうか、我は……腹を。……なるほど、未だ剣術では貴様に敵わぬようだ」
男はすうっと顔を上げると先までとは様子が明らかに違っていた。海のような青い瞳には闘志が漲っていた。剣を持たぬ左の掌から黒い霧を放出させるとそれを鎧のように纏った。
「我は当代の魔王。魔界を統べる王として従者が任を遂げるまで何としてもここを譲る訳には行かぬな」
「魔王、その割には随分と人間臭い事をするんだな」
「偏見でモノを見るのは人類の悪癖だな。我とて役割とはいえ魔族の王として安住の地を提供することを誓いにしている。安住の地に住むべき民が病や飢餓によって絶えてしまえばそれこそ意味がない」
魔法に関しては無知とさほど変わらぬルークでも分かるほど濃密な魔力の塊が魔王に集まっていく。元勇者と魔王の戦いは再び幕を開けた。
♢
「あちらは随分と盛り上がっているようね」
「ミシェルをどこにやったんですか」
ノエルは槍の穂先をコルデーに向けて問うた。
「知りたければ私をねじ伏せて直接聞けばいいんじゃないかしら?」
アイリス達から一旦距離を離したコルデーは片手に短剣をもって腰を低く構えていた。右腰に提げられている直刀のサーベルは鞘に納めたままだ。
「サーベルは抜かないんですね」
「あら、剣で戦ってほしいのかしら? 残念だけれど私の目的はこの短剣をアイリスに当てる事よ。殺すわけにはいかないもの」
先に仕掛けてきたのはコルデーだった。アイリスに一直線に突き進んで行くあたり、ノエルの事を歯牙にも掛けていないのが伺えた。コルデーはまるで瞬間移動をしたかのようにアイリスの眼前に迫り、目と鼻の先までの接近する過程をまるごと省略したかのように見えた。
「きゃっ!!」
しかし、アイリスも生半可なことで里を飛び出してきた訳ではない。魔法ではなく、ルークが以前魔力を操っていたのと同じようにして身体強化ではなく体の目の前に魔力の盾を作り出した。
小さく悲鳴はあげたものの、その刃を柔肌に受けることは無かった。
「はあっ!!」
直後ノエルの槍がコルデーの頭のあった位置を勢い良く薙ぎ払った。コルデーは腰から上を後ろに逸してそれを躱した。
「小さき老人、大地に寄り添う者よ。地中の牢獄、死者を繋ぎ止める楔、生ける者の監獄。築け、土霊!」
「あまい!!」
アイリスはあくまで補助に徹するつもりでコルデーを拘束しようと考えたが、指先一つに束ねられた炎で消し飛ばされた。岩で出来た鎖と牢獄をいとも容易く無効化した直後に、煙の影から巨大な火球がノエルを襲う。
ノエルにとっては予想外だったようで、咄嗟に交差させた両腕で火球を受けてしまった。皮膚表面は焼け爛れ、一部は黒く焦げていた。
「ぁづっ……」
「のーくん!!」
その間にもコルデーは執拗にアイリスに短剣を当てようと、迫ってきた。魔法を唱える余裕もないまま、最近ようやく使えるようになった魔力結界による盾で攻撃を防ぐ。
「無煙の炎より生まれし者、神意に背く者よ。御身の叡智を用いて討ち滅ぼせ、炎の魔人」
今度はノエルの番だった。お返しと言わんばかりに巨大な炎の槍が天空からコルデー目掛けて投擲された。家屋の倒壊などもはや二の次である。槍はコルデーによって散らされてしまったものの、知らず知らずの内に近付いていた魔物達はそれで一掃することが出来た。
(どうしよう。私に出来る事は……)
一方でアイリスは心身ともに疲弊していた。自分は詠唱しなければ魔法を発動出来ない。当たり前の事ではあるが、正しく精霊と心身一体となった相手に〝当たり前〟は通用しない。自分の身を守ること以外はただの傍観者であり、ただの追われる獲物に過ぎないのだと突きつけられる。
その事実を認めたくないがゆえに、詠唱を出来るだけ速く、速くと何とかしてコルデーの猛攻からノエルと一緒身を守っているのだから。だからこそ、ほんの一瞬の隙を突かれてしまった。
「アイリスさん!!」
白練色の刃がアイリスの首筋に近づく、同時にもう一つコルデーの腕よりも速く自分の首に飛来してきた何か。その間は一瞬。
宙を真っ赤な血が舞った。