ガーディアン 白き復讐の悪魔
長田市で始まった、「長田市連続猟奇殺人事件」はついに3人目の犠牲者を出し、事件は警察庁内部に存在する「対魔班」へと引き渡された。調査に乗り出した那尾と竜太は、そこで殺された3人の女生徒達に虐められていた、1人の少女に協力を求める。
竹宮 薫というその少女は何も知らなかった。
だが「彼は」知っていた。自分が彼女のために、何をすべきなのかを‥‥。
プロローグ
・・それは、月の綺麗な夜だった。
17才の田川明美にとって、今夜がそう特別な夜、という訳では無かった。最近知人の何人かが惨殺されていて、そのせいで周りがうるさく、そして彼女自身も気が滅入っていた。恭子や由嘉里とはそう仲が良かった訳ではない。ただ趣味が合い、つるんで遊ぶことが多かった・・それだけである。二人が殺されたのはショックだったが、しかしあの二人はウリやクスリもやっていたし、危ないところに面白半分に入っていくような頭の悪い子達でもあったのだ。二人が路上で惨殺されてからもう2週間が過ぎ・・。多分何かの恨みを買ったのだ、最近ではそう思うようになったから、今日は男友達の呼び出しにもつい応じてしまったのである。自分は恨みなど買うはずがない。普段はいい子にしているのだから・・。
だから多分、彼女は自分が死んだこともまだ、信じてはいないのだろう。
コンクリートの地面に横たわる彼女の姿は、まるでぶちまけた生ゴミのようだった。辺りに血の海を広げながら、夜空の映るその瞳には疑問と恐怖と、そして「その」存在だけを写してうつろに見開かれている。不自然に明るい月の夜空に照らされて、奇妙なくらいに人影の見えないその路上で、「それ」は静かにじっと、その汚物を見つめていた。血でぬれた前脚が不意に持ち上がり、そこだけが最後の、彼女自身をとどめる唯一のものの上に載せられる。足の下の丸い感触に、憎悪が集中した。
鈍い音と共に、残っていた明美の頭部が破裂する。飛び散った鮮血がその白い存在の頬を汚し、彼は満足そうに前脚を上げた。粘り着く赤い液体の滴りは生ぬるく、こびりつく頭髪の不快さが、彼の瞳に奇妙な笑みを浮かばせる。どこか気高く、美しい・・そんなしなやかなたてがみが波打って、彼は月の浮かぶ天を見上げた。彼にとってその月は、彼のした事を、何故か祝福してくれているような気がした。
遠吠えが、静まり返った町並みの中に響き渡る。それはもう少しで使命を達せようという、殉教者の祈りのように、一途だった。
「File_01_1」 長田女学院より
「長田市連続猟奇殺人事件、ついに3人目の犠牲者、か・・・」
下校の鐘を遠くに聞きながら、竜太は週刊誌の見出しについ嘆息した。「長田女学院」、そう記された校門の縁に腰を下ろしながら、流れる女生徒の好奇の視線など意にも介さずにページをめくる。ありとあらゆる推測や憶測、それらが何の検証もないまま掲載されており、根拠となっているのは殺された少女達の素行や私生活などのプライバシーだけだった。確かに17歳としては、いくぶん奔放な少女だったのかも知れない。だがだとしても、殺された人間の素行をむやみに暴き立てむち打ったところで何か意味があるとは思えなかった。ふと顔を上げると、その冷たい視線に何人かの少女が慌てて視線を反らす。前を歩く少女達の様子は普段とあまり変わらない。殺された少女がこの学校の生徒だとは、とても思えなかった。
「竜太さーん!」
その声で竜太が視線を動かすと、下校途中の少女達をかき分けながら那尾が走ってきた。小柄で竜太と比べれば肩口くらいしかないが、竜太自身の身長も185cmあるのだから、女性としては特に小柄というわけでもないのだろう。だがふわりとたなびく栗色の長髪は、那尾を必要以上に若く見せていた。竜太の側に立ち、軽く息を整えてから顔を向ける。愛らしいその顔には落胆の色が浮かんでいた。
「お疲れさん。なんか聞けたかい?」
「なーんにも。全くみんな、同級生が殺されたってのに冷たいのね。走って逃げる奴までいるなんて思わなかったわ」
「どうせ素直に『警察です』なんて言ったんだろ? 敬遠されても仕方ないぜそりゃ?」
・・沈黙。
「・・警察って、嫌われてるのかな?」
「自分は潔癖だなんて思える人間は、なかなかいないって事さ。正直な人間がそれだけ多いって事だと思えば腹も立たない・・。薫さんは?」
「今はまだ掃除中みたい。そろそろ出てくると思うけど・・」
「会わなかったのか?」
「・・だって彼女、多分何にも知らないよ? 幾ら虐められてたからってさぁ・・」
那尾の表情が僅かに曇り、視線を反らす。・・那尾はおそらく、あえて会わなかったのだ。
「・・あの子以外に、殺された少女達との接点が無いんだ。俺達『対魔斑』の相手がどんな奴か、忘れた訳じゃないんだろ?」
「そりゃあ・・!」
「彼女自身が手を出さなくても、『呼び出して』仕向ける事は出来る。壁を開くその『知識』さえ持っているのなら、奴らはどんな人間にだってしっぽを振るんだ。その人間にとってその対価が如何に大きかろうとも関係ない。彼女だって人間なんだぜ?」
「でも!」
那尾がかぶりを振る。気がついて、顔を向けた。
「だからってあの子はそんなこと出来る子じゃ、無いよ・・」
那尾の、その静かな呟きと共に向けられた視線の先に、1人の少女が歩いていた。玄関を出て校門の方に歩いてくる彼女はどこか疲れたように俯いていて、印象はひどく小さく、か細かった。竜太が立ち上がると彼女の方に歩き始め、向こうも気がついたように立ち止まる。だが先に声をかけたのは、小走りに竜太の前に出た、那尾の方だった。
「こ、こんばんわっ。竹宮 薫さんだよね。ちょっとお話聞きたいんだけど、いいかな?」
警察手帳を出して微笑みかけた那尾に、少女は一瞬びくりとして後ずさった。だが逃げはせず、青ざめた表情のまま小さく頷く。同意を受けて竜太が促し、3人は共に街の方へと歩き始めた。少女の怯えは自分達の存在故である。那尾はそうした仕事に就いている自分が、少し悲しくなった。
殺された3人とそしてもう一人が「子分」として連れ歩いていた少女、竹宮 薫。3日前の夜に田川明美が殺されるまで、彼女は警察やマスコミから重要参考人として「犯人扱い」されていたのである。彼女が4人に虐められていた事はほぼ周知の事実であったが、薫の両親はそれを知らなかった。・・なぜならば、薫がそれを話さなかったからだ。
「File_01_2 喫茶店ルフラン」
下校途中にある小さな喫茶店「ルフラン」はそう繁盛しているわけでは無いらしく、竜太達の他に人影はあまり見えなかった。薫の声は流れるラジオの音にかき消されるくらいに小さくて、那尾はしばしば聞き直すことになり、それがいっそう薫を怯えさせてしまった。ついため息が出る。警察とマスコミが彼女を犯人扱いしなくなったのは3日前からであるが、それは3人目の犠牲者である田川明美が殺されたからである。彼女は薫が警察の尋問を受けている最中に殺されたのだ・・。警察の無能をなじるようなその犯行で、彼女への疑惑は一応晴れた形になった。だがそれまでにどんな扱いをされたか、想像するのは難しくなかった。
「あたし、本当に何も知らないんです・・」
「あ、あのね? 貴方が犯人だって言ってるわけじゃないのよ? ただほら、事件当時に彼女たちといろいろあったらしいじゃない。その時にさ、何か変わったこととか・・」
「・・・」
「ごめん・・」
警察で何十回と無くされたはずの質問を、あえてしてしまった自分に情けなくなりながら、那尾はレモンティーに口を付けた。重苦しい空気がテーブルの上を漂い、時間がただ浪費されてゆく。隣の竜太は相変わらず悠然とコーヒーをすすっていて、助け船を出すような気配すらなかった。交渉事はいつもこんな感じである・・。那尾がため息をついたその瞬間、竜太が不意に立ち上がった。
「・・取り敢えずこれだけは言っておくよ。君がだんまりを続ける限り、君の疑惑は晴れやしないんだ。殺されたのはすべて君の先輩達で、君は彼女たちに虐められていた。・・君がそれを、認めたくなくてもね」
「・・・」
「殺人が始まったのは2週間前だが、その日の前日、彼女たち4人は君の鞄を面白半分に川に投げ込んでいる。それは直接の動機としても十分だし、君が彼女たちにされていたことを思えば、トリガーとしても十分な説得力があるんだ。ただ『知らない』とだけ言い続けるならそれでもいい・・。だか救いの王子なんかいないんだって事だけは、言っておくよ」
「ちょっと、そんな言い方しなくたっていいでしょう?! 薫さんいってみれば被害者なのよ? 少しは薫さんの事考えてあげたら・・!」
「このままほっとけばまた死人が出る。多分彼女に関係する人物だ。それでもいいなら、俺だってもう少しのんびりと出来るさ」
ピクンと、薫の肩が動いた。それを横目で確認しながら竜太は席を立ち、那尾に「後は任せる」と呟きつつレジに向かう。ふと振り返ると、席で那尾がくすりと笑っていた。受け取ったレシートには3人分の代金が記されていた。
(・・ま、出費としてこのくらいは持たないとな。問題は何も手掛かりのない相手を、これからどう仕留めるか・・)
腰の小太刀が、カタリと音を立てていた。
(まったくホント、素直じゃないんだからね~・・)
ドアのチャイムと共に出てゆく竜太の背中に、那尾はつい微笑ってしまった。対魔班で彼と組む事になった当初は腹立たしいことの連続であったのだが、解ってくるとその粗暴さが逆に可愛らしく見えることもあり、あれが彼なりの誠意なのだと最近はようやく分かってきていた。体面を気にしてなかなか事件を「対魔班」に引き渡さない警察に悪態をついて、喧嘩になりそうだった事もある。単に不器用で、でも一生懸命なだけなのだ。面と向かって言えば、きっと怒るのだろうが・・。
そう笑いつつ視線を移すと、薫さんは相変わらずうつむいたまま、肩を微かに震わせていた。さっきの一言が効いたのかも知れない。目鼻立ちは整っていて意外に美人顔をしているのだが、今はいかんせん表情の暗さと脅えがそれを隠していた。楽しそうに笑えば、きっともっと魅力的な少女なのだと思う。那尾にはそれが、とても残念でならなかった。
「竜太さんの言った事・・気にしないでね? ちょっと性格に難ありだとは思うんだけど、なれちゃえば無害だし、腕は立つんだからさ。それに彼の言ったことも・・・」
「また誰か、殺されるかも知れないんですか? 他の先輩たちみたいに・・?」
「・・多分ね。まだ犯人、捕まってないでしょう? 犯人の狙いがその4人の先輩達なんだとすれば、まだ一人、残っている訳だしね・・」
「神田先輩・・」
「神田真由美、17才か。4人組のリーダー格だった子よね。今日も休んでるみたいだけど、・・心配?」
「・・一応」
「虐められてたんじゃないの?」
「警察でも先輩達は別に、私のこと虐めてたつもりなんか無いって言ってたし・・。自分が・・」
「ふうん、優しいのね薫さんて。私だったら、そうは思えないけどな」
「・・え?」
那尾の声音に、ふと冷たさが混じったような気がして、薫はどきりとして顔を向けた。那尾の静かな視線はまっすぐに自分を見つめている。薫はそれで、我に返った。
・・ドウシテアノヒトガ、サイショニコロサレナカッタノダロウ・・
自分が今感じていた思いを、薫は那尾に見抜かれた気がした。
「薫さんみたいな子って、標的にされやすいのよね。反抗しないからいつまでたっても、相手は自分が何をしてるのか気がつかない。そしてどんどんエスカレートしていって、取り返しのつかないことになっても怒られないから反省出来ない。人を虐めるような奴ってのはそのくらい馬鹿で情けなくて、同情する必要も無いくらいに惨めな存在なんだけど・・。でもね薫さん?」
「は・はい」
「そんなのに振り回されて大切なものを失うなんて、もっと馬鹿な事なのよ? 貴方がもし虐められてるなら、反抗する権利は貴方にしか無いの。他の人じゃお節介のカッコつけ、もしくは言いがかりだって非難されて終わりよ。貴方が動かなきゃ、他の人も助けられない。自分の力が及ばないと思ったら、声を上げなきゃ駄目なのよ! 声を上げなきゃ、誰も気づけないんだから・・!」
「那尾、さん・・?」
「・・ごめん。ちょっとこういう話はね、我慢できないんだ・・。実は私も昔はね、薫さんみたく可憐な乙女だったんだけどなー。ちょっと油断してたらこーなっちゃった。あーあ、現実って厳しいっ」
「・・いじめ、られてたんですか?」
「・・。まあね」
薫は、目の前に座る利発そうな女性の顔を、つい見つめてしまった。警察の、自分とは違う、抵抗できる力を持った強い女性。自分の気持ちなんか分かってくれない何処か余所の女性・・。そう思っていたのだ。那尾がふと、微笑んだ。
「あたしがこんな事言える資格は無いんだけどね・・。人ってさ、それ程偉くもなれないけど、悪くも成りきれないのよ。それが不当な事であるのなら、誰かは解ってくれる。でも思うだけで気持ちが伝わるなら、言葉なんかいらないじゃない。助けて欲しいと思うなら、手遅れになる前に声を出さなきゃ駄目なのよ。そうすれば何かがきっと変わるから・・。あたしは、そう信じてる」
「那尾さん・・」
「だから、詳しく話してくれない? 薫さんが鞄を川に落とされた時、何があったのか。今回の事件って普通とちょっと違うから、そう言うことが結構重要だったりするのよ。そもそも殺された子達、何であなたの鞄なんか・・」
「・・違うんです」
「え?」
「あの時に先輩が無くしちゃったんです。お爺さんのペンダントを、川の中に・・」
「・・お爺さん・・・て」
薫の瞳が潤みだして、俯いてしまう。那尾は身を乗り出した。薫の家族に祖父は居ない。それは警察の調書にも載っていなかった、薫の密かな友好関係だったのだ。
「File_01_3 闇からの脅威」
「へえ、親しかった老人か・・・。調べてみる価値は、ありそうだな。」
携帯電話で那尾からの報告を聞きながら、竜太はコンビニで買ったハンバーガーにかじり付いた。辺りはすっかり闇の中に沈み、明かりと言えば近くにある街灯と電話ボックスだけである。光量が乏しく照らしているのはその周囲だけで、竜太の座るベンチまではとても届いていなかった。薄闇の中で、彼はだからここに座ってる。彼は闇は、嫌いではなかった。
『名前は大滝 良二。一人暮らしで、没年は78才。薫さん、よく遊びに行ってたんですって』
「へえ・・、余所のじいさんと親しいなんて、今時めずらしい子だな」
『他に優しくしてくれる人がいなかっただけよ。両親には話せない、同級生は4人組の先輩が怖くて近づかない。薫さん独りぼっちだったんだから・・』
「ふ・・、彼女の両親も、随分間が抜けてるな。知らなかったんだろ? 彼女にそんな友達がいたなんて事も」
『・・やめてよ。そんな言い方竜太さんらしくないよ・・』
静かな空間を、受話器から流れる那尾の声が小さく震わせる。竜太は薄く微笑んだだけで、しかし返答はしなかった。那尾の声は闇の中でも柔らかで心地よく、そして澄んでいる。竜太は人の本性を暴いてくれる、この闇の中が好きだった。かつて闇の中で葬った連中の事が心にふと浮かんだが、それももう昔の話である。所詮自分は那尾とは違う。自分はまだ、あのころと変わってはいないのだ。
「・・で、その爺さんは? まだ健在なのかい?」
『実は半年前に、風邪を拗らせて肺炎で亡くなったんだって・・。1人家の中で冷たくなってたのを、尋ねた薫さんが見つけたんだって・・』
「悲惨だな。ま、病院で死ぬのを待たれながら死んでいくよりはマシか・・。その無くしたペンダントってのは、その老人の形見だったって訳だ。」
『・・竜太さん、やっぱり彼女が「呼び出した」と思ってるの?』
「俺が仮に彼女と同じ事をされたら、その場で相手を殴り倒すね。場合によったら殺すかもしれん。彼女は周囲の冷たさと自分の弱さ、そして抵抗の無意味さを知っているから反抗しないだけさ。だが心の中はそうは行かない。抵抗したい想いは鬱積していき、やがて殺意に変わる・・。そんなとき壁を開き力を呼び出す『知識』をその老人が、仮に彼女に教えていたのだとしたら?」
『そんな・・!』
「もしそうなら、事は単純そうだがな。相手が彼女でも呼び出せるような『魔獣』なら、見つけだして始末すればそれでいい・・。那尾は、神田真由美の家に向かってくれ。警官が張り付いてるからしばらくは大丈夫だとは思うが、幾ら即席の『魔獣』だとしても、拳銃じゃ役にたつと思えないしな」
『・・分かった。竜太さんは?』
「俺もすぐに向かうよ。こっちは手掛かり無しだからな・・。被害者が殺された現場をうろついてみたが、宝珠の反応はからっきし。即席にしちゃあ随分と隠密特性に優れた・・・」
何気なしに、左腕のリングを持ち上げる。空気がそれで、凍り付いた。
『・・どしたの?』
「すまないが急用だ。切るぞ」
その風が起こった瞬間、竜太は素早く身をかがめて左に飛び退いた。空気を切り裂く甲高いノイズと共にその巨大な固まりが肩口を通過し、前方の地面へと着地し、その先の暗がりの中へと消えていく。起きあがりながら、竜太は肩に手を乗せた。避けた衣服の下にある微かな痛みが、その存在の脅威を彼に伝えている。心無しに、汗が流れた。
-とっさに避けていなかったら、首を持っていかれていたかも知れない-
日頃の鍛錬と、淡く輝いている腕輪の宝珠に感謝しながら立ち上がり、竜太は腰の小太刀を引き抜いた。「それ」はまだその暗闇の中にいる。聞こえてくる低い唸り声に、ふと笑みがこぼれた。
「俺を狙ってくるとはな・・。なかなか、察しのいいやつじゃないか」
公園の外れ、木々の暗闇の中へと飛び込んだそれは、まがまがしい殺意をそのまま竜太に向けていた。息を整え小太刀をかざし、構えをとる。自分の愛刀「影竜」。かつて何体もの敵をほふったその刀身が鈍い輝きを放ち始め、竜太の視線が鋭く細まる。戦いの始まりを、それが静かに告げていた。
「・・・?」
だが、それはそれっきりだった。暗闇の中で自分に向いていた敵意の気配が不意に消え、宝珠もまた光るのを止めてしまった。再び静寂に包まれた公園の中で、竜太は影竜を下げ、気配のいた場所に歩いていく。何もいないその地面で、「それ」だけが鮮やかに、竜太を待っていた。
「・・・なるほどな」
地面に描かれた赤い血文字の集まりに、ふと笑みがこぼれる。筆記用具にされた猫の頭と胴体が、その場に引きちぎられて落ちていた。見開かれた猫の視線は恨めしげに竜太の方を向いていて、「てをだすな、あとひとりだ」と、それは赤くそう書かれていた。血糊はまだ乾いていない。これはあの『獣』がさっき、この場で書き付けたのである。
「・・・くそっ!」
ここから神田真由美という少女の家まで、走っても20分弱。向こうは恐らく、それ以上に早いはずだ。竜太の予想は悪い方に外れていたらしい。あれが那尾一人に押さえきれる相手のようには思えなかった。那尾を一人にしてしまった自分の軽率さを呪いながら、彼は夜の街路を走り出した。
「File_01_4 小さな親友」
「やあ薫。こんばんわ」
「あれ? お爺さんどうしたの?」
「ああ、実はこいつを散歩に連れていこうとしてなぁ・・」
その老人は小さな犬小屋の側で困ったように笑いながら、手に持った綱を薫に手渡した。陽はもう黄昏て、辺りは薄赤く彩られている。ここは小さな平屋建ての家と、そして庭のある敷地。「大滝」と記された表札の奥にいるのは薫と、そして年老いた老人の二人だけだった。学生服のまま鞄を縁側に下ろすと、薫は辺りを見回した。庭の隅でかさりと音がする。何かの白い固まりが、茂った雑草の林を走り抜けていった。
「全くあいつめ。最近では儂の言うことなど聞きやせんわ・・。」
「もともとやんちゃな子だもの。お爺さんに遊んで欲しいのよ、きっと」
「儂はもう老いぼれだよ。餌をやることくらいしかできんのにな・・。頼むよ、薫」
「うん」
薫は草の向こうでじっとこっちを見つめている、小さな白い固まりに優しく手を差し伸べた。腰を下ろし、唇をならす。誘うように指先を揺らしながら、薫はじっとその方向を見つめていた。しばらくしただろうか。やがてかさかさと音がすると、草をかき分けて、そこから小さな白い子犬が姿を現した。ころころとした体中にゴミをいっぱいつけながら、上目遣いに薫を見つめてそろそろと近寄ってくる。まるで「怒ってる?」と聞いているかのようなくりんとした瞳に、薫はつい微笑んだ。首輪を捕まえて、ぱちんと縄のジョイントにはめてやる。それから薫は、その子犬を抱き上げた。
「駄目じゃないのシロ。お爺さん困らせちゃ、ね?」
め、という顔で、そのシロという子犬に顔を近づける。ぺろりと頬をなめた感触にくすぐったそうに笑いながら、薫はシロを幸せそうに抱きしめた。
「ふふ。シロは儂よりも、薫のことが好きなのだな・・」
そんなお爺さんの呟きが、薫の耳に、今も残っていた。
・・・・・・
「今日も、帰ってないのか・・」
その空になった犬小屋を見つめながら、薫は寂しそうにそうため息をついた。那尾と別れて帰ってきた時刻はすでに七時をだいぶ回っている。薫の両親は、だが何も言わずに薫を迎え入れた。家の中はとても静かで、TVの音だけが何処か余所の事のように流れている。それは殺人が始まり、薫が警察に呼び出されてから、ずっとだった。
家族と共に夕食を静かに食べて部屋に戻ると、彼女はベッドに寝そべって空を見つめる。駆け寄ってくる小さな命が不意に脳裏に浮かぶ。薫はつい、呟いていた。
「シロ・・、なんで戻ってこないの・・?」
身を丸めながら、薫は静かに目を閉じた。学校に行くときには付いて行きたげに見送ってくれて、帰ってくれば嬉しそうに出迎えてくれて、つらいときにはなぐさめてくれた。虐められて帰ってきたときもあの子がいたから、薫は両親にも話さずにいれたのである。平和そうに見える家族の中に、自分だけが不幸を持ち込む。それはとても「悪いこと」のように、薫には思えていた。
”言わなくちゃ駄目よ! 言わなくちゃ、誰も気付けないんだから・・!”
薫は、なにかをこらえるようにベットに顔を埋めた。那尾の言葉が心に響き、あふれそうな思いは自分を静かに責め立てた。今となっては遅すぎる・・。大切だったものは捨てられてしまった。落ちてゆくペンダントを見つめながら、でも、自分は何もしなかった。声を上げることすらしなかったのだ。だからシロは・・、逃げたのかも知れない。お爺さんの大切なものを無くしてしまった自分に、それを先輩のせいにした自分に、彼は怒ったのかも知れない。
(ごめんなさい・・ごめんなさい、だから・・!)
薫は小さく、丸くなってすすり泣いた。心の中に自分を閉じこめてしまおうとする少女の姿は、割れたガラスの破片のように、はかなかった。
「File_01_5 神田真由美という少女」
「あ、竜太さん!」
嬉しそうな笑顔で、那尾は走って来た竜太を出迎えた。時計はすでに9時を回り、2階建ての程度のよい住宅の周りには数人の警官が立っていて、周囲は物々しい空気で包まれている。状況を聞き、安堵のため息をつく。ついで汗を拭っている彼に、那尾は持っていた缶ジュースを渡してあげた。那尾の好みで甘ったるい奴である。だが今はのどを潤せる物なら何でもよかった。
「・・ふう。生き返る・・」
「竜太さん走ってきたの? さっきはさっきでいきなり電話切っちゃうしさ。何かあったの?」
「・・ちょっとな。こっちの方はとりあえず異常なしか。すぐに襲うのかと思ったが・・」
「すぐに襲うって・・あれ? その肩・・?」
那尾に言われるまで気がつかなかった。さっきやられた右肩口に、少し血がにじんでいる。かすり傷程度ではあるが、まるで剃刀でやられたような鋭利な傷口に、転んだなんていいわけが通じるようには思えなかった。怪訝そうな那尾にふと笑う。余裕のある笑い方は出来なかった。
「・・実はさっき、魔獣らしい奴に襲われちまってな。逃げられたが・・。奴から忠告貰ったよ。『てをだすな あとひとりでおわりだ』ってな」
「なっ! じゃあ、あのとき・・!!」
「ああ。それに相手は一匹だ。会話が出来るくらいの知能があって、そして薫さんを害してた連中を執拗に狙ってる・・。なんでそんな奴が出てきたのかわからんが、厄介かもしれんぜ、こいつは・・」
「そんな・・・!」
竜太も那尾も、それで沈黙した。どんな鋭い爪や牙を持っていようと、単なる獣なら恐くはなかった。一番恐ろしいのは、それを生かすことを知っている知能・・。人間が何故「百獣の王」たり得ているのか、自然をも左右できる存在でいられるのか。全てはそれが物語っている。竜太達の「対魔班」としての経験が、今、敵に対して最大級の警報を鳴らしていた。
「倒せるの、かな・・」
「ちょっと、家の前で騒がないでくれる?」
突然ぶっきらぼうにそう呼びかけたのは、「神田」という家の玄関先で立つ、1人の少女だった。不機嫌そうなその顔を竜太は忘れてしまっていたが、那尾は覚えていたらしい。愛想笑いをしながら、那尾は振り返った。
「ああ、真由美さん・・ね? ごめんなさい、うるさくしちゃったかな」
自賛を許容できるくらいは美人な少女だったが、ただ印象には老けた感じがつきまとい、竜太には好きになれないタイプだった。不満そうで、そしてその不満の元が分からないでいらついている・・。こうした表情は見たことがある。街を歩き買い物や食事を「楽しんでいる」多くの高校生達の、それは共通する表情だと竜太は思った。彼らはただ、考えないようにしているだけなのだ。考えてもどうにもならない事は「分かっている」のだから。
薫を自覚もなく虐めていた彼女たちにしてみれば、単に薫はストレスの発散でしか無かったのかも知れない。抵抗しない彼女の意志を「嫌だと思ってないと思った」としか感じられない、感受性の発達が遅れた年老いた子供達。「そんな風にしてしまっているのが社会だ」などという戯れ言を真に受けて、自分の内面に向き直る「勇気」も持てない小さな大人の群。そんな「無個性」な人間だからこそ、こんな台詞を平気で言えるのかも知れない。
「あなたたち警察の人でしょ? ちゃんと仕事、してんでしょうねぇ?」
・・・かちん。
「だったらさっさと帰ってもいいんだぜ? 俺達がいなくなれば奴は君を30分も立たずにミンチにするだろうよ。まあ君で最後だ。俺達も楽が出来るな。君さえよければさっさとやって貰いたいところだよ・・。なんなら俺が、これから連れ出してやろうか?」
「な、なによ! そんな言い方無いじゃない! 私が何をしたって言うのよ!!」
「薫さんを・・虐めてたんでしょ? 犯人の動機ってその辺らしいじゃない。貴方が無くした薫さんのペンダント、彼女には大切なものだったんだし・・」
「なんで? なんでよあんな安物!! あんなのを川に落としたのが、そんなに悪い事だったって言うの?! あれは薫が素直に渡さないから・・!」
「自分の置かれてる立場くらい認識しろっていってんだ。言っとくが、犯人は君を殺すつもりだぞ。君に殺されるほどの恨みを買ったって意識があろうと無かろうと、犯人にとっちゃ・・」
「・・人の大切なものを取り上げて楽しむなんていい趣味ね。楽しい?」
竜太が腹を立てるよりも早く、那尾はすでに上気し始めていた。反省の色がまるで無い。かつて那尾の前にいた・・そして、今は那尾のもっとも許せないタイプの人間が目の前にいる。怒気に満ちたその視線に、真由美はうろたえた。
「わ、私はあの子にペンダント、借りようと思って、そしたらはずみで鞄ごと一緒に・・。私だって別に、返すつもりで・・」
「それは貴方の勝手な言い分でしょ・・? やられた人にとったらね、殺したいくらい許せない事だってあるのよ!? 自分勝手に薫さんのペンダント無くしといて鞄まで川に投げ込んだくせに、自分のせいじゃないなんて、よく言えるわね!! 死んだ子達にはもう言えないから、貴方に言ってあげる。こんなの自業自得よ! 私だって仕事でなけりゃ、誰があなたなんか・・!!」
「・・もうよせ、那尾」
涙をためて怒鳴っている那尾を静止させ、うろたえている真由美を見つめ返す。周囲の警官達の視線を集めながら、竜太は静かに真由美を見つめた。
「さっさと家の中に戻ってろ。静かにしていれば俺達が守ってやる。死にたいんなら話は別だが、どうせそんなつもりもないんだろ? 自分が一番大切で、他のことなんかどうでもいいんだものな」
そんな皮肉に青ざめて、彼女は素直に家の中に帰って行った。戸のしまる音で、那尾の涙腺が緩んだらしい。大粒の涙をポロポロこぼし始めてしまった那尾に、竜太も何を言っていいか、判らなかった。
「那尾・・」
「なんで・・? なんであんな人達が居るのよ・・! 薫さんが何かしたの? 何も悪い事してないのに、なんで薫さんが責められなきゃならないのよ・・!」
「とにかく今は、あれを守るのが俺達の仕事だ。泣いてる場合じゃ、ないだろ?」
「ん・・・」
那尾はまだ高校生だった頃に、親友を自殺で失っている。虐められていた那尾をその子が庇ったがために、かわりに標的にされたのだ。遺書でも那尾の事を心配しながら・・。彼女は学校の屋上から飛び降りた。それ以後、那尾は変わったのだという。強くなろうとし、そして彼女は強くなった。だがおそらく心の傷は癒えることはない。そしてそれは彼女自身を責め続けるのだ。
そんな彼女を前にこんなことしか言えない自分が、何とも、情けなかった。
(・・・ここは・・・?)
・・そこは、どこか薄暗い部屋の中だった。真ん中には奇妙な円が書かれていて、回りに立てられた炎が、それを淡く照らしている。中央には小さなテーブルがあって、その上になにか、白い小さな物体が乗せられているのが見えた。
(シロ・・・?)
テーブルの上で、死んだように動かないシロに、誰かが近づいて来る。頭から漆黒のローブをかぶり、顔は見えない。そしてその手には、装飾を施されたナイフが・・・握られていた。
(・・・?! 止めて、止めて! 何を・・・!)
その人物が、ナイフを振りかざした。その下にはシロが居るのだ。だが、その人物は躊躇する事なく・・・!!
(いやあ――――――!!!)
・・・薫は、それで目が覚めた。
「ゆ・・、夢・・・?」
ゆっくりとベッドの上で半身を起こし、額の汗を拭う。身体中が湿っていた。滑らかな汗が頬を伝い、悪寒が襲う。彼女はひどい不安感に身を震わせた。
「シロ・・・。まさか、もう・・・!」
いても立ってもいられなくなって、彼女はベッドから起き上がった。少し羽織って階段を下り、玄関の扉を開ける。門を出ようというところで不意に足をとめると、薫はあたりを見回した。広がる闇の中で、薫は聞き覚えのある鳴き声を聞いたような気がしたのだ。
「・・シロ?」
声は聞えない。だがシロの声を、自分が聞き違うはずが無い。シロは確かに近くにいたのである。夜ももうそれなりにふけていた。少女が一人で出歩いても安全だ、と言えるような時間ではない。だが、彼女はシロの縄を握り締めて、夜の住宅街をふらりと歩き始めた。言い知れぬ不安が彼女の胸を締め付けている。あんな夢を見たせいなのか、信じられないくらい、自分が必死なのを感じていた。
「File_01_6 悲鳴」
「きゃああああ―――――!!!!」
それは、あまりにも突然だった。竜太達がその部屋に駆け込んだ時、真由美の部屋の窓ガラスは割られ、2つの物体が床に転がっていた。床一面に血だまりを広げながら、その2つに別れた猫の死体は、恨めしげに宙を見つめている。外から放りこまれたそれに、竜太ですら一瞬、息を飲んだ。
「い、いやあ!! 殺される、私も、私も殺される・・!」
「落ち着け、これは奴の脅しだ! 下手に騒ぎを起こしたら・・!!」
その騒ぎに乗じて、敵は仕事をしやすくなる。だが取り押さえる前に、彼女は悲鳴に近い声を上げながら家の外に・・恐らくは遠くに逃げるために・・・飛び出そうと駆け出してしまった。那尾も止めようと走り出したが、いかんせん人の家の中である。まずいと思った時、彼女は玄関を出ようというところで急に足を止めた。脅えたような表情でドアの外を見つめている。駆けつけた竜太も、そして那尾も驚いた。
「薫・・・」
ドアを少し離れたところに、何故か、困惑した表情の薫が立っていたのだ。手に綱を握りしめて立ちすくむ薫に、真由美ははじめ、驚愕とも恐怖ともとれる表情で後ずさった。だがやがて、彼女は狂気じみた視線を向けながら、薫を睨み付けていきなりまくしたて始めたのだ。
「あんたね・・・。やっぱり薫! あんたがみんな殺したのね?! 復讐のつもり? そして今度はあたしってわけ? 冗談じゃ無いわ・・!! あんたが、虐められるようなあんたがみんな悪いのよ! なのに殺されて、あたしが殺されてたまるもんですかぁ!!」
「あ、あの、私・・・」
「止めろ!! 彼女は何も知らない! 犯人は、別にいるんだ!!」
「解らないじゃないの!! きっと、誰かとぐるに為って、そしてみんな殺して、きっとほくそえんでたんだわ!! この子は犯人なのよ?! 捕まえて!! 早く捕まえてよぉ!!」
竜太や那尾、そして私服警官達にそう絶叫する彼女を落ち着かせるためには、彼女の言う通りにする以外、道は無いように思えた。竜太がなにか言う前に那尾が前に出て、震えている薫を保護する。脅えた表情の薫に、那尾は精一杯やさしい笑顔を送ったが、状況はあまり好転しないような気もした。竜太は錯乱する真由美を家の中につれていこうとしたが、しかし彼女はそれでも、薫達の方向をじっとにらみつけている。ため息が出た。
「どうしたのこんなところに・・・? 何かあったの?」
薫さんは小さくふるえて、表情も蒼白という感じだった。それ以上何を言っていいか分からなくて、那尾は小さくせき込んであたりを見回した。周囲は月の光に照らされて不自然なくらい明るくて、そして冷たく見える。こんな夜には私だって出歩きたくないのに・・そう考えながら、那尾はふと薫の方に視線を戻した。一瞬、どきりとする。びっくりするくらい真剣なまなざしで自分の方を見つめている薫は、手に茶色い手縄を握りしめていた。
「シロが・・・」
「え?」
「シロが、この辺にいるみたいなんです。それで私・・・」
「シロ・・って?」
「うちで飼っていた子犬なんです。2週間前、散歩に連れていこうとしたときに逃げちゃって、ずっと探してて。さっき、あの子の声が聞こえて・・・。でも、声だけ聞こえるだけで捕まらなくて、そしたら、こんな所に来ちゃって・・・!」
「・・・・」
那尾の胸中になんとなく、嫌な予感がざわめいた。それが明確な形になるまでに幾らか思考の整理を必要とし、那尾は心なしに目を細めた。事件が始まったのは2週間前である。薫さんが鞄を投げ捨てられたのも2週間前。そしてそのシロという子犬がいなくなったのも、2週間前・・。
そう考え始めた那尾の思考は、しかしそこで、中断せざるを得なかった。
「ぐあぁっ!!」
変化は急激だった。落ち着きかけた真由美を家の中に連れ戻そうとした竜太は、突然上から降って来た、巨大な質量に跳ね飛ばされてしまったのだ。烈火の如き勢いで、それは発砲しようとする回りの警官達をなぎ倒し、真由美だけを孤立させる。有らん限りの憎悪を込めた咆哮が、放心する彼女に襲いかかっていった!
「くおのぉ!!」
すぐさま体制を立て直した竜太は一気に「影竜」を始動させる。そのままその獣に体当たりを食らわし、よろけたところへ間髪いれずに影竜を一閃するが、それはその巨体に見合わぬ素早さでかわされてしまった。月は雲で隠れ、街燈の向こうに逃げたそれは見えない。狂気に輝く両眼と、生臭い息使いのみが、その場を戦場に変えていった。
・・だが。
「ひ・・・ひあぁぁぁああ!!」
竜太も彼女に気を向けている場合では無かった。那尾は薫と共にいた。警官達はなぎ倒され、真由美は完全に孤立していた。弾けた風船のような悲鳴と共に、彼女は夜の暗闇の中へと駆け出していった。しまった!と思ったとき、目の前の獣の瞳は嘲りの色に染まっている。奴は、これを待っていたのだ!
獣が宙に跳ね上がった。大きく孤を描いて町中に消えてゆく。その方向は間違いなく、真由美が逃げていった方向と同じだった。那尾が駆けつける。竜太はそのとき、すでにもう走り出していた。
「竜太さん!」
「追うぞ那尾!! これじゃ、間違いなく殺られる!!!」
「うん! 薫さん、あなたは早く家に帰って! いいわね?!」
そう言い残し、二人は真由美とそれを狩る獣を追いかけて、暗闇の中に走り去っていった。残された薫は、どうして良いか解らずに立ちすくんでいたが、不意に何処かから聞き覚えのある遠吠えが、この住宅街に響きわたった。
「犬の・・・、遠吠え・・・?」
シロは遠吠えなどしない、行儀の良い犬だった。でも何故か、それはシロの声に似ているように、薫には思えた。
「File_01_7 再会」
「逃げなきゃ・・・逃げなきゃ・・・!!」
どこかから聞こえてくる遠吠えを聞きながら、真由美は、街路をむちゃくちゃに走っていた。追いかけてくる形の無い恐怖に後ろを振り向く事も出来ず、追いかける竜太達の静止も耳に届かない。死にたくないと、そう思えば思うほど、死んでいった少女達の姿が脳裏に浮かぶ。那尾の罵声、竜太の視線、薫の涙・・。やがて、自分の死んだ姿が・・!
「いやあ!! 死ぬのはいやああ――――!!」
「なら止まれよ!! 今一人になったら・・!!!」
「・・・!」
突然、那尾が立ち止まった。腰に引っかけていた小型の弓を取り出し、引き絞る。竜太が驚きの表情を見せる前で、那尾の「次元弓」が光の矢を形成する。彼女はそれを、ためらう事無く真由美に撃ち込んだ。
「あぅ!!」
音速の3倍のスピードで、それは真由美の右大腿部に命中した。一瞬全身に痙攣が走り、気を失って転倒した真由美に、二人はやっと追い付いて保護する。那尾は汗だくだった。幾ら衝撃を押さえたとはいえ、無防備な人間を撃つのは、彼女にも初めての経験だった。
「・・よくやったよ那尾。いい判断だ」
「えへへ・・、でももう二度としたくないなあ・・・」
安堵のつぶやきがもれる。竜太は薄く笑いながら真由美を担ごうとして、そこで振り向いた。那尾も気がつく。真由美が走って行こうとした街路の先に、真っ白な何かが、月光に照らされながら立っていたのだ。彼を襲い、真由美を狙ったそれの瞳は、狩りを邪魔された、その怒りに輝いていた。低いうなり声が周囲を包んでゆく。
「那尾、真由美さんを頼む」
「・・竜太さんは?」
「リターンマッチだ。任せてもらうぜ?」
・・それは美しいとさえ言える、白い獣だった。馬のような大きさだが印象は犬のそれで、見事なたてがみが波打つ様は、気高き貴公子を思わせた。それが向けてくる殺意を受けとめるように、竜太は影竜を構え、にらみ据える。那尾が後ろに下がったとき、先に動いたのは獣の方だった。
恐るべき跳躍力で、獣が地を跳ねた。魂を食われるような咆哮は辺りの空間をふるわせ、巨大な狂気が竜太を襲う。だが彼にとってそれはすでに「慣れた」驚異でしかなかった。笑みさえ浮かべながら、彼は静かに地を蹴った。
「おおお!!」
すれ違った竜太の一閃だけが、獣の右肩口辺りを切り裂いていた。苦痛の咆哮を発しながら交差し、バランスを崩して転倒する。その時彼は異変に気がついた。受けた傷口が再生しない・・。それは竜太の「影竜」のせいでもあり、自分自身の限界のせいでもあった。前肢付近の痛みをこらえて飛びのくと、そのまま距離をとる。この人間とは3度目の対峙になる。獣は相手が思ったよりも強敵であった事を、今、始めて悟っていた。
「今までのような不意打ちとは違うんだ。今度こそ、覚悟してもらうぜ?」
今度は竜太が仕掛けた。獣は一歩後ずさった。気迫と共に竜太は一気に接近し、降り下ろされる前肢の一撃を交わして影竜を叩きつける。赤い血しぶきが闇夜にきらめき、悲鳴にも似た咆哮を発しながら獣が横転する。竜太はためらわずに影竜を突き下ろすが、余力を残した獣は全身のばねを使ってそれを交わして飛びのいた。コンクリートに突き刺さった影竜を引き抜いたとき、獣は考えを改めていた。時間が過ぎてゆく。目標は本来、ひとつなのだ。
「・・・! 那尾! 逃げろ!!」
だが、竜太の恐れは希有に終わった。獣が真由美と、それを守る那尾に襲いかかろうとしたとき、那尾は既に、次元弓を獣に打ち込んでいたのだ。左の脇腹辺りに爆発物のような衝撃を受け、獣は横に跳ね飛ばされた。痛みを堪えて立ち上がったとき、彼はもう、敗北を悟っていた。使命を果たす事が出来なかった悔しさに、彼は吠えた。
獣が宙に跳び上がった。那尾は再び次元弓を放ったが、それは空中で交わされてしまう。獣は二人から離れたところに着地すると、そのまま街路の出口に疾走する。竜太達が追いかけようとしたとき、その先の曲がり角に突然、人影が現れた。
「か、薫さん?! 危ないー!!」
薫が立っていたのだ。シロを探して、こんなところに来てしまった彼女が二人の方を振り向いたとき、獣はそのまま、薫に襲いかかっていった。那尾の絶叫に気がつき、悲鳴をあげながら彼女はしりもちをつく。予想される衝撃に顔を覆い、身をこわばらせる・・だが、恐れた事は何もおきなかった。
「え・・?」
恐る恐る薄目をあけて前をみると、そこには真っ白くて大きな動物が、心配そうに自分を見つめているのが解った。しかし恐怖は感じない。その澄んだ瞳を、薫は忘れていなかったからだ。
「シロ・・?」
その獣は答えるかのように、その長い耳を動かした。シロに会えた喜びと、その姿の疑問とが入り交じり、薫はしばらく動けなかった。ふるえるその手を差し伸べようとしたとき、那尾が、自分の方に走ってくるのが見えた。
「薫さん!!」
獣はすぐさま跳躍すると薫を飛び越し、夜の町に消えていった。月が丁度雲に隠れ、辺りは暗闇に沈んでゆく。獣はもう、見えなくなってしまった。
「くそお! 逃がした!!」
「薫さん、大丈夫?!」
那尾が気遣うが、薫はしばらく応えなかった。次第に気持ちが整理され、体が震え始める。あれがシロである事を、彼女は信じられなかった。そして同時に、大滝 良二と言う老人の呟きもまた、思い出していた。
(わしが居なくなっても大丈夫さ・・・。薫には、シロがいるからな・・・)
それが何を意味するものか、薫は今ようやく、解った気がした。
「お爺さん・・!」
「File_01_8 落ちたペンダント」
やってきた救急車によって、真由美は病院へと運ばれていった。精神的な部分で懸念されるものはあるが、外傷は無きに等しく、それが彼女の両親を安心させる。気を失ったまま運ばれてゆく彼女を見送った後、竜太達はその家の居間を借りて腰を下ろした。竜太と那尾が見ている前で、俯いた薫は、それを静かに話し始めた。
「先輩達に捨てられたペンダントは、お爺さんが無くなる一週間くらい前に、『幸運のお守りだから』って、不意に渡されたものだったんです。戦争で死んだ、娘さんの形見の品だってお爺さんは言ってました。受け取れないって言ったけど、どうしてもって言って・・。私、おじいさんがそれを本当に大切にしていたの知っていたから、絶対に大事にしようって・・・。でも先輩達は・・・」
・・・・・・
そこは、橋の上だった。真由美や、死んだ他の3人が輪になって、薫をからかっていた。薫は必死だった。懇願する薫の前で、もてあそばれるそのペンダントを摘んで川の方に落とす真似をする。彼女らは無様に慌てる薫を見て、楽しんでいるのだ・・。薫は取り戻そうと、思い切り手を伸ばしたその瞬間、真由美の手に握られていたそれは、弾かれて、川の中にゆっくりと落ちていった。
「あ・・!!」
「あ、あーあ。あんた自分で落としたのよ? しーらない・・なによその目・・。ふん、そんなに大切な物なら、さっさと拾って来ればいいじゃない。これも一緒に・・、ほら!!」
真由美はそう嘲って、薫の鞄を川に放り投げた。4人の笑い声が遠ざかりながら、取り残された薫の耳に響きわたる。薫はそのまま、川の中に入っていったのだ。
ずぶ濡れで帰ってきた薫を、シロは心配そうに見つめていた。両親はまだ帰ってきていない。黄昏た夕日の中で薫は微笑み、しゃがみながらシロの頭を撫でてやる。着替えを済ませ、散歩用の綱を取り出し鎖を外しながら、薫はシロに語りかけた。
「お爺さんのペンダント、無くしちゃった・・・。でもあんな人達に取られるよりは、いいよね・・・」
大粒の涙がこぼれる前に、薫はシロを抱きしめた。呪詛の呟きが幾度も薫の口からもれていた。そして、薫は呟いたのだ。
「・・・あんな人達なんか、死んでしまえばいいのよ・・・!!」
・・・・・・
竜太も那尾も、言葉が無かった。シロが突然暴れ出して、薫の手から逃げ出したのはその時だと言う。シロはその夜、「魔獣」になったのだ。薫を守るために・・・!
「死者を蘇らそうとする人は、よく禁断の呪法に手を染めるものだけど・・」
大滝 良二と言う人が、いったいどこで反魂の呪法を身につけたのか、那尾にはもう分からなかった。分かっていることは、それが死者を蘇らせる方法ではなく、死者の体に「魔」を呼び寄せ、そこに宿らせ意のままに操る、ただそれだけのものと言うこと・・。もしかしたら大滝老人は、死んだ妻や子を生き返らそうとしていたのかもしれない。そして死にものぐるいで反魂の法を身につけ、それに失望し、周囲には気味悪がられて、移転を繰り返した・・。この町で、彼はやっと見つけたのかもしれない。何のためにつけた呪法だったのかを。
「大滝のおじいさんは、死ぬ前にシロを魔獣に変えていたのよ・・。病を患い、自分の命が残り少ないと悟った彼は、薫さんを守らせるためにシロを選んだんだわ。彼は魔を召還し、シロと魔獣とを融合させ、本当は「守護者」として、生まれ変わらせていた・・」
「だが何故か、シロは暴走を始めてしまったって訳か・・。狂った魔獣として発現したシロに、あの4人は許しがたい存在に思えたんだ。それで・・」
「にわかな術なんか、使うから・・」
那尾の呟きに、竜太は思案げに目を細めた。
「いや、たぶん違うな・・。爺さんの術は完璧だったんだ。そうでなければ半年もの間、シロがシロでいられるはずがない。シロを元に戻す方法を、あるいは『潮時』をシロに伝える方法くらい、彼は用意していたんじゃないか?」
「元に戻す方法って・・・まさか! そのためにペンダントを?!」
「おそらくはな。持っている人間と意志を疎通させるための、通信機のような呪術品だったのかも知れない。彼女らがペンダントさえ捨てたりしなければ、シロは彼女らを殺すような事はしなかっただろうよ。俺の時のように姿を見せないまま、遠くからちょっと脅すだけでも十分な事くらい奴には理解できるはずだ。だが彼女らに対してはそう思えなかった・・。殺意が強すぎたんだ。君のな」
竜太は感情のない視線で薫の方を向いた。青ざめて俯き、そして那尾の方を見る。優しい笑顔の那尾に、薫は尋ねた。
「シロは、どうなるんですか・・」
薫のつぶやきに、だが那尾は答えられなかった。竜太が話し始める。泣きそうな薫を見つめる竜太の目は、しかし厳しく、冷ややかだった。
「あいつは見つけ次第俺達が始末する。これ以上犠牲者を出す訳には行かないからな」
「竜太さん・・」
「でも・・・、でもシロは・・!!」
「奴は君を守るために3人を殺したんだぞ? そしてペンダントも今はない。ほおっておけば被害は幾らでも増える。君が生きている限りね」
体を震わせた薫の前で、竜太は視線を定めたまま断言した。
「奴は俺達が殺す。あいつはもう、生きてちゃいけない存在なんだよ!」
「そんな・・・!!」
「あ、薫さん!!」
薫は、突然席を立った。那尾の呼び止めにも反応せずに、そのまま街路に出ていってしまう。那尾は竜太を怒鳴りつけたが、しかし彼は動じなかった。
「竜太さん、あんな言い方って無いでしょう!! 薫さんは・・!」
「さて、俺達も行こうか・・」
「・・・え?」
「彼女が呼べば、奴は間違いなく出てくる。・・そこでけりを付けるぞ」
「竜太さん・・!!」
「終わりにするんだ。・・こんな事はな」
何処かで、犬の遠吠えが聞こえていた。夜はまだ、終わってはいないのだ。
「File_01_9 全ての終わりに」
古びた一軒家が、薫の前にたたずんでいた。
表札に「大滝」と書かれたその平屋の家は、今はもう、誰も住んではいないようだった。明かりの消えたその家に住んでいた老人は永遠にもう、自分を出迎えてはくれない。お爺さんの笑顔が消えた日、薫の心からも、ぽっかりと何かが無くなったような気がした。
「おじいさん・・・」
大滝老人は、自分をまるで、本当の孫のように思ってくれた人だった。やさしかった老人の回想が、薫の心を締め付けた。
(どうして薫のような優しい子程、つらい目に合うんだろうな・・。人と言うのは、そんなにも情けないものなのか・・)
「おじいさん・・・」
その時、犬の甘えるような声で、薫は我に帰った。
「・・シロ?」
老人宅前の、道の向こうの暗闇の中に、その気配はたたずんでいた。姿は見えない。だが小さかったシロと変わらないその気配が、薫には、とてもいとおしく思えた。しゃがみながら手をさしのべて唇を鳴らす。いつもやっていた行為だ。シロはそれで、薫の元に返ってくるのだ。
「シロ・・、シロおいで? ほら・・」
その呼びかけに少しためらって、でもゆっくりと、シロは薫の方に歩いて来た。月光に次第に照らされるその姿は、巨大で雄々しく、頼もしい。しかしどこか、テストで悪い点をとった子供のようにしゅんとしていて、薫はつい、微笑んでいた。薫は受け入れることが出来た。シロは自分のために、この姿になったのだから。
「シロは・・・、悪い事なんかしてないよ。私を、守ろうとしてくれたんだものね・・・」
シロは低く鳴いた。可愛い声だったが、でも何処か、元気が無かった。息使いもどこか荒いような気がする。竜太や那尾との戦いで、シロはひどく傷ついてしまったのだと薫は理解した。辛そうに目を閉じたシロを、薫は優しく、抱きしめた。
「シロは、悪くないのにね・・・。大丈夫。こんな傷、少し休めばすぐに直るよ。だから逃げよ? 私がついててあげるから。シロをあんな人達なんかに、殺させたりしないから・・・」
「悪いけど、そういう訳にも行かないんだよ」
「?!」
薫は驚いて振り返った。振り向いたその路地に、竜太と那尾が立っていた。驚きの表情を見せる薫の前で、竜太は薫にすら解る殺意をシロに向けている・・。竜太の「影竜」は、すでに淡く、輝いていた。
「貴方達・・!」
「すまないがどいてくれ。今からそいつを、殺さなきゃならん」
「なんで・・? なんでシロが悪いの?! シロはただ・・!」
「・・分かって薫さん。シロは、貴方を害していたと言うだけであの3人を殺したのよ? 放って置けば、また誰かを・・」
「シロは悪いことなんかしてない!! あんな人達なんか、あんな人達なんか殺されたって・・!!」
「君がそう思ったから、シロは彼女らを殺したんだ。確かに褒められない連中だったかも知れないが、彼女らは君を殺した訳じゃない。シロはタブーを犯したんだ」
「でも・・、でもシロは悪くない!!」
「とにかくそこをどいてくれ。これが俺達の、仕事なんでね」
竜太は表情を変えない。別人のように冷たい声音が、薫の背筋を寒くした。シロを見つめる。苦しそうな息遣いのシロを見た時、薫の中で、何かがはじけた。
「・・・退きません」
「薫さん・・・!」
「これ以上私、何も失いたくない・・・!」
「薫さん!!」
「シロは、私が守ります。あなたたちなんかに殺させない!!」
竜太達が動くよりも速かった。薫はシロを軽く押し、自分はシロと竜太達のあいだに立った。シロを隠すように身構えて、そして竜太と那尾を睨みつける。気が弱くておとなしかった薫は、もうそこには、いなかった。
「シロ・・、シロ逃げて! 早く!!」
・・薫は叫んで、竜太は走り出し、那尾は次元弓を構えた。 ・・その時だった。
「・・・え?」
薫はシロをトンと、軽く押しただけだったのだ。だがシロは、そのまま、まるで支えのない板のように、向こうへと倒れていった。一度地面でバウンドし、そのまま動かなくなる。薫の全身から血の気が引いていった。最悪の情景が、薫の目の前に広がっていた。
「し・・シロ?! シロどうしたの!! しっかりして!!」
驚いて、竜太と那尾も駆けつける。だがシロは逃げようともせずに、ただ弱々しく、苦しそうに息をするだけだった。シロに呼びかける薫の声は、もう悲鳴に近い。駆けつけた竜太と那尾の事など、もう見えていなかった。
「いったい・・?」
「そうか・・。こいつが後一人で終わりだと書いたのは、こういう・・」
「え?」
「・・・シロは結局、子犬のシロでしかないんだ。この体を維持してゆくには莫大なエネルギーがいる。元に戻れなければ・・・」
「あっ・・!!」
次第に弱くなってゆくシロの息遣いに、泣きそうになっている薫が気付いた。シロの足元が、次第に乾き、崩れてゆく。風化は足に始まり、次第に全身へと・・・!
「いやぁ!! シロ、シロォ!」
泣き叫ぶ薫の手の中で、シロは、ゆっくりと崩れていった。足が崩れ、胴体が削れ、白い塵に変わってゆく。二人は息をのんだ。「融合」とは、現世と魔界とをつなぐ行為でもある。それにわずかでも綻びが生まれれば、それはそこから、どちらにも属せない塵となって壊れて行く。見つめる二人の前で、薫に抱かれたシロは崩れていった。白い塵がさらさらと舞い始める。それはもう、誰にも止められなかった。
やがてシロが悲しく、弱く泣いた。それと同時に、シロの頭は乾いていった。薫の涙とシロの鳴き声が響く中、薫は気がつくと、白い塵の中に腰掛けていた。シロを抱いていたはずの手のひらから、白い塵がさらさらとこぼれている・・。シロはもう、何処にもいなかった。薫はただ、呆然と呟いていた。
「シロ・・・?」
那尾は、何もいえなかった。無言で薫のそばに寄り、薫を見つめる。自分を見上げた薫の涙が、雨の滴のようにシロの塵の中にこぼれた。那尾は薫を抱きしめた。那尾の胸の中ですすり泣く薫を抱いたまま、那尾にはただ、こうしてやることしか出来なかった。
・・シロは今まで、薫を守るというその一念だけで、体を持たせていたのだ。竜太達との戦闘が、その死期を早めた。全てが分かった今だからこそ、竜太は後悔していた。なぜ自分は最初の対峙の時にシロを殺れなかったのだろう。そうすればそこで終わりだった。薫の目の前でシロが死ぬ必要も無かった。それが出来なかった自分が、今は口惜しかった。
(あばよシロ・・・、邪魔しちまって、悪かったな・・・)
夜風に舞い始めた白い塵へ、竜太はそう呟いていた。呟きに答えるかのように、何処かで犬の鳴き声が聞こえたように竜太には思えた。月は雲に隠れてゆく。この長い夜も、ようやく終わりの時を迎えていた。
薫は泣いていた。いつまでも那尾の胸の中で、いつまでも・・・・。
と、言うわけでこんばんわ、森宮でございます。最後まで読んでくださったなら、感謝です。
このお話は森宮が昔、飼っていたお犬様が死んで、それが多分起点に成り書いた物です。それはシロのように賢くはなくまた可愛くもない雑種で、毛並みはひどく、よく逃げちゃあ夕飯時だけ帰ってくるという人間様をなめきった態度だった上に芸と言っても餌を盾にしなくてはお座りすら出来ず、実際己の欲求に正直な非常にお馬鹿なお犬様でした。とは言え、やはり今でも、この子の事は何かの意識に残り続けてはいます。鎮魂の様な物だったでしょうか。
内容的にはつまり「いじめいくない」と言う、解り切ったモノだったのですけど、ともかく現代のスマートフォン社会ではどのように見えるのか、ちょっとテストがてらアップです。どうも実際はもっと短い単位で投稿した方が良いのでしょうが、ちょっと勝手が解りません。
まあ、楽しいと言う物でもありませんが、無意味でもないでしょうか。