幕間3
5月中旬。
入学して最初のイベントとも呼べる、合宿が終了して2週間ほどが経過した今日。
夕焼けが窓から差し込む中、個人使用のパソコン室の中からは、ただひたすら文字を打つ音だけが聞こえてくる。
スーツを着た女教師は、死んだ魚のような目をして、パソコンで報告書を作成していた。
その報告は合宿から今日までの、夕夏、悠馬の動向、そしてその他の生徒の生活や素行についてだ。
「はぁ…」
本来、高校教師というのはダブルワークをする余裕などないほど忙しいのに、鏡花は教師の仕事に加えて、総帥秘書の仕事も抱えている。
しかし、いくらダブルワークがキツイと言えど、この話は誰にも打ち明けられない。
鏡花は自身の催眠という異能を使って、生徒だけではなく、この島に訪れる全ての人間に向けて異能を使っているのだ。
だから、教師たちの中に、鏡花がどれだけの激務をこなしているのかを知る者は、誰1人としていない。
そして当然、そのことを話してしまうと暗示が解けて大騒ぎになってしまうわけで、誰にも話すことはできない。
今、鏡花の仕事を手伝える者が居るとするなら、死神か悠馬くらいのものだ。
「はぁ…」
二度目のため息を吐いた鏡花は、ひと段落したのか、パソコンを見るのをやめると、目を瞑り、目頭を指で何度か押す。
「フフ、忙しそうだな。鏡花」
そんな鏡花に向けて、背後から投げかけられた声。
まるで鏡花が苦しんでいるのを高みから見物しているような、喜んでいるような声を聞いた鏡花は、眉間に皺を寄せると、振り返ることもなく会話を始める。
「お前…一体誰のせいだと思ってる?」
「…俺のせいと言いたいのか?」
一体誰のせいで仕事が増えたと思っているんだ。
能天気に背後に控えている死神に向けて、調子に乗るなという意味合いを含めた鏡花に対して、死神は何故自分が叱られるのか?と不満を露わにする。
「当たり前だ。はぁ…まさかお前が、合宿で生徒に手をかけていたとは…事後処理は誰がすると思ってる?というか、お前も手伝え。反省してるなら、今すぐに」
そんな死神のことなど知らず、怒り心頭に発した鏡花は、振り向きざまに死神を睨み付けると、パソコンを向ける。
「…おい、オイオイ。だからあの日、ちゃんとお片づけ手伝ったろ?」
まるで、小学生のような言い訳を始めた死神。
自分は合宿のあの日、ちゃんと鏡花のことを手伝ったんだから、それでチャラになっているはずだと言いたいご様子だ。
「お前、生徒を運んで神宮を回収したくらいでチャラになる程度のことだと思っているのか?」
鏡花が言いたいのは、神宮の件ではなく、霜野の件だ。
鏡花から見ると、素行が悪いことだけしかわかっていなかった生徒を、死神が突如として殺してしまったのだから、面倒ごとが増えてしまったのだ。
おかげで鏡花は定時にも上がらず、こうして1人で仕事をしているわけだ。
「…まぁ、その件については寺坂には報告をして解決しているし…」
「は?」
「どうかしたのか?」
「いや、は?」
鏡花はパソコンを開くと、何十回もスクロールをしてもまだ終わらない長文を死神に向けて見せると、パソコンの画面を力づくで叩き割る。
鏡花は怒っているというよりも、完全に殺意を抱いているように見える。
何故なら、今見せた書類データは全て、霜野の素行や生活態度、その他諸々の全ての繋がりから何までを記入したものであって、これさえなければ鏡花は睡眠時間を削ることも、こうして定時に上がれずサービス残業をすることもなかったのだ。
それなのに死神は、その報告はすでに終わっていると言ったのだ。
合宿から今日まで、霜野の話を色々な生徒から聞いて回り、放課後は学校に1人残ってパソコンをカタカタとしていたのに、その頑張りが全て無駄になってしまった。
「80時間」
「?」
「私は合宿から帰ってきて、放課後に1日8時間この仕事をしてきた。18時から26時まで書類を作成し、そこから明日の授業の内容の確認。寝るのは朝5時。起きるのは朝7時。これを10日続けた」
「あ、いや…」
そこまで言われると、死神も鏡花が何が言いたいかを悟ったようだ。
自分自身の事後処理なのだから、まさか鏡花が霜野の件についての報告書など作成しているはずもないと勝手な判断をしていた死神。
鏡花が気が利きすぎることを知らなかったために起こった誤算だ。
「待て。待て待て待て。ここで戦う気か?」
「ああ…ちょうどストレスも溜まってたんだ…1発…いや、気がすむまで殴らせろ」
「鳴神っ…!」
しかし、死神が気付いた時にはもう、手遅れだった。
御機嫌斜め、ストレスも最高地点に達している鏡花は、死神の制止など聞かずに、容赦なく殴りかかる。
鏡花は催眠以外の異能を持っていないため、物理的な戦闘は完全に自身の努力値次第。
やはり総帥秘書、と言うべきなのか、異能を使えない場面の対策のために、近接戦闘にはかなり手慣れている様子だ。
鳴神を使用して身を屈めた死神は、先ほどまで自分が立っていたところに鏡花が回し蹴りを入れたのを見ながら、両手を挙げて鏡花を宥めようとする。
「落ち着け鏡花。お前、回し蹴りでパンツ見えたぞ。白と黒のやつ」
「っ…どうやらお前は本気で死にたいようだな?」
「…いや、すまん。許してほしい」
鏡花が回し蹴りをすると同時に見えた、ストッキング越しの下着の色を答えた死神。
それを聞いた鏡花は、益々怒りを露わにして、ポケットからカッターナイフを取り出した。
「はぁ…」
「っ…」
そこで死神は、話し合いでは解決しないと判断したのか一度ため息を吐くと、鏡花の首元に手を回しながら、優しく頬に触れる。
「俺が悪かった。だから落ち着け」
首元に手を回され、いつでも殺せるといった雰囲気を醸し出す死神を見て、鏡花はカッターナイフを床に落とす。
「今度何か奢れ。お前の給料の半分くらいのものをな」
「オイオイ、車でも買わせる気か?」
「…お前、いくら給料貰ってる?」
「あ…いや…そのだな…」
またしても失言をした死神。
死神の月の収入は、1000万近い。
その理由は、異能王から直接認められた冠位という位に就き、その上世界的な大犯罪者を大量に捕らえているからに他ならない。
加えていうなら、本年度より行われた人員削減で、今残っている理事会のメンバーの給料は、さらに上がっているのだ。
対する鏡花は、総帥秘書としての固定給。
現在は月100万近い給料をもらっているが、あまりにも忙しすぎるため、使う時間も余裕もなく、ただひたすら貯蓄されていくのみ。
正直なところ、鏡花はお金を必要とはしていなかった。
そんな鏡花でも、総帥秘書として3年間働いてきた自分より、1年前に冠位になった男の方の給料が高いことに、納得がいっていないようだ。
「わかった。奢る。だからその怒りを納めてくれ」
死神よりも忙しいのに、給料は十分の一の鏡花。
てっきり鏡花も同じくらいの給料をもらっていると判断していた死神は、自身の誤解に気づき、両手を挙げて降参する。
「じゃあ、今日は破産するくらいご馳走になろうか?」
「待て。2000万以内で抑えてくれ。生憎だが俺はそれ以上の金を持っていない」
「生徒の携帯端末に1億円も入金したからだろ。お前は本当にバカだな…」
合宿の時に、悠馬が迷惑料として幾らかのお金を受け取っていることを知った鏡花は、詮索などではなく、ただ純粋に気になったため、いくら入金したのかを聞いていた。
すると返ってきた答えは、1億円だったのだ。
1人の生徒にこれだけ肩入れをするというのは、本物のバカか、将来をかなり有望視していて、自分の人生を賭けていいと思っている奴くらいだ。
まぁ、いずれにせよバカであることには変わらないのだろうが。
「…まぁ、アイツには色々とやってもらうことがあるからな」
「…ところで、話が戻って申し訳ないが、お前は何故霜野を消した?私が調べた限りでは、ただの不良ということくらいしかわからなかったのだが…お前は何を知っている?」
遠回しに言うと、2000万以内のお買い物ならオッケーという返事が聞けた鏡花は、機嫌を直して最初の話へと戻る。
「益田と繋がっていた。といえばわかるか?神宮に力を与えたのも、霜野だ。加えて言うなら結界事件で美哉坂の情報を流したのも、な」
「なるほど…そういうことか」
「ああ。そういうことだ」
霜野がどういう人間だったのか。
生徒や教師から聞くだけの内容では、限界がある。
現在教師としての立場にある鏡花が、セントラルタワーへと入ることは出来ないわけで、教師として以上の情報を手にするのは、ほぼ不可能だった。
自分の知り得なかった情報を聞けて満足の鏡花は、椅子に座ると、長いため息を吐いた。
「死神。焼肉が食べたい。今から2時間ほど睡眠をとるから、その後に焼肉へ連れて行け。勿論お前の奢りだ」
「へい。お安い御用で」
目を瞑った鏡花を目にした死神は、文句を言うこともなく、嫌々といったそぶりも見せずに鏡花のお願いを快諾すると、悠馬と全く同じ、ゲートという異能を使い、開けた部屋の中へと入る。
「さてと…今日は色々と忙しいな」
「突然の訪問はすまないとおもっている。だが、早急に確認したいこともあるからな」
ゲートを使ってたどり着いた部屋には、きっちりとしたスーツに身を包んだ、真っ黒な髪の男が座っていた。
年齢は二十代後半くらいだろうか?
スーツの襟元には日本支部のバッジを付け、いかにも好青年といった顔の男を目にした死神は、想定外の来訪者に、若干呆れているようだ。
「確認したいこととは?寺坂総帥」
「死神、お前と鏡花の報告で既に上がっているが、生徒にあのお方の存在は気づかれていないんだよな?」
現総帥、寺坂が連絡も無く異能島に訪れ、話をするということは、よっぽどのことだ。
あのお方、という単語を聞いて、少しだけ反応を見せた死神は、ゆっくりと歩きながら窓際まで辿り着くと、重い口を開く。
「幸いなことに、霜野はあのお方には会っていなかった。だからこそ、あの注射器の中身を知らずに、神宮へと手渡した。勿論、俺も鏡花も、あのお方については一切話をしていない。いや、触れてないというべきか」
「そうか。注射器は1本、回収できたんだな?」
「ああ。霜野が2本持っていたからな。残りの1本を確保している」
そう言って死神は、ポケットから怪しげな形状の注射器を取り出し、机に置いてみせる。
「…この注射器を使用前に表の人間が手にできたのは、おそらく日本支部が初だろう。すまないが、成分の確認などをするから預かってもいいか?」
「ああ。成分確認後は、燃やすか分解するか、それとも崩壊させるか、きちんと片付けろよ。何も知らない奴が手にすることこそ、問題だ」
「わかっている」
あのお方なるものが提供している注射器を、中身ごと手にした寺坂は、事態が一歩前に進むと判断したのか、やや上機嫌だ。
対する死神は、成分確認後の処理の方を気にしているらしく、さまざまな意見を頭の中に思い浮かべていた。
「一先ず、ご苦労だった。正直な話、お前にはあまり期待をしていなかったから、これだけの成果を上げてくれたことに感謝している」
「オイオイ、酷い言われようだな」
「当然だ。去年のことを忘れたとは言わせんぞ」
苦笑いの寺坂は、昨年の出来事を思い出す。
死神は、異能王が直接スカウトをしたわけでも無く、死神自身が異能王の王城へと乗り込んだのだ。
しかも、そんなことをすれば当然、各国の総帥や冠位、戦乙女や王からの防衛的な攻撃を受けるわけで。
その全てを受けてなお、ケロっとしていた死神は、国際指名手配犯の首を異能王の王城前に並べて、「俺を冠位にしろ」などと言い始めたのだ。
そうして結局、特例として死神は冠位となり、今の座に就いているわけなのだが。
素性も知らない上に、いきなり異能島の管理者になりたいなどとワガママを言ったりすることから、あまり期待をしていなかった寺坂からしたら、死神の行動は実に喜ばしいものだった。
注射器を小型の、オルゴールほどの大きさの金庫の中へと丁寧に入れた寺坂は、その金庫の鍵を握り潰すと、ゴミ箱へと鍵の残骸を葬る。
「おい、開けられないだろ?」
「帰宅途中に鍵ごと盗まれた、などとなってしまったら笑えないだろ。鍵はもう1つ、全く別の場所に置いているし、それがなくなっていたら、最悪お前に頼んで中身を取り出してもらうさ」
「フフ…お前らは人使いが荒いな。一体俺をなんだと思ってるんだ」
「はは、仕事仲間だよ」
思ってもいなさそうなことを笑いながら口にした寺坂総帥は、この島へと来た理由は注射器の回収だけだったのか、上機嫌に手を振ると、その場から去っていく。
「気をつけて帰れよ」
「お前は私のお母さんか!」
まるでお母さんのようなことをつぶやく死神に対して、ツッコミを入れた寺坂。
彼のツッコミの声だけが、室内に大きく響き、木霊した。




