煌く日々を明日も君と
もうすでに、彼の人格は残っていなかった。
クラミツハとセカイが混ざった時点で、神格を得ていなかった暁悠馬という少年の人格は徐々に薄れ始める。
しかし悠馬は、そんな重要なことに気づけていなかった。
人間が眠くなって眠るのと同じだ。彼らは眠る時、そのまま死ぬなんてことは考えずに、目覚めればそこに生が在ると仮定して眠る。
自分の人格がそこに在ると思いこんでいる悠馬は、走馬灯すら見ることが出来ずに、シャドウ・レイの閃光の中で1人の少女に出会った。
「…ルクス…」
彼女は小さく蹲って、震えていた。
真っ黒な髪が身体を覆い、真っ白な肩を震わせ泣いている少女を見た悠馬は、この空間が何であるのかも分からずに彼女へと詰め寄る。
「ここに居たのか、ルクス」
悠馬は煌く閃光の中で、彼女の腕を掴んだ。
彼女は病的なほど真っ白な肌を惜しげもなく晒すと、肩をピクリと震わせて、顔を上げた。
「…悠馬クン」
「…帰ろうか?何が食べたい?」
悠馬は優しく笑う。
悠馬にはメトロ戦の時と違い、明確な記憶がある。
さっきまで混沌と戦っていたことも、ルクスに恋をしているのだと自覚をしたことも、自分の名前も。
何もかも覚えている悠馬は、優しく、それでいて大胆にルクスを連れ戻そうと声をかけた。
「ボク…帰れないんだ」
「…何言ってんだよ。帰れるさ」
「ボクのこの身体は、ボクのこの人格は、全部ボクの闇が覚えてた記憶で…ボクの人格は、もうどこかへ消えてしまった」
ルクスの本当の人格は、混沌にぐちゃぐちゃにされて、自壊してしまった。
今残っているのは、ルクスの人格の残り。
彼女の人格を、意識を通じで自在に操ってきた闇が、彼女の人格を再び作り上げ、ルクスとして話しているだけ。
だから元の世界には戻れない。
精神世界どころか、この謎の空間でしか生きていけないルクスは、混沌が消滅したところで一生植物状態だ。
何しろ彼女の人格は、もうないのだから。
しかし悠馬は、そんな彼女の話を聞いて、驚くことなく腕を引いた。
「帰ったらさ、2人でロシアに行ってみない?」
「ボクはロシア支部から追放されてるから。ロシア支部には行けないよ」
「俺のゲートを使えばバレないよ。だからさ、シベリアに行って、花を見よう。きっと綺麗だ」
「無理だよ…」
「ロシア支部に行った後はさ、またイギリス支部に行こう。…俺のデバイスと神器ぶっ壊れちゃってさ…その修理ついでに、またソフィの家で寝泊まりして…きっとルクスが来てくれたら、ソフィも喜ぶだろうな」
「やめてくれ…」
「あ、あとさ、5月に第1の合宿もあるんだ。異能祭の合宿なんだけどさ〜、その時、もしよかったらこっそりついてこない?肝試しとかあって楽しいんだぜ?」
「やめてくれ!ボクはもう死んでるんだ!この人格も、ボクなのかどうかすらわからない!これで現実に戻れなかったら、ボクはこのまま惨めにこの世界で暮らしていくしかないんだ!夢を持たせないでくれ!ボクはもう夢も愛も感情も!何一つとして知りたくないんだ!」
悠馬と共に過ごし、徐々に理解し始めた自分の感情と、自分の恋心。
それらを知ってしまっただけに、自分が闇で作られた偽りの人格で、もう2度とここから出れず、死ぬこともできずに1人で過ごしていくのだと考えると、とてつもなく怖い。
自分を偽りの人格だと知りながら、自我が崩壊することすらなく、延々と続いていくであろう虚しい日々。
悠馬について行くと答えて、自分だけこの場に取り残される可能性を拭い切れないルクスは、悠馬を突っぱね、可能性を否定することによって不安をかき消そうとした。
試さなければ、ここから一歩も動かなければ、ルクスはルクスのままだ。偽りの人格でもなければ、本当の人格かどうかもわからない。
シュレディンガーの猫と同じで、まだルクス・アーデライト・夜空という少女は死んでいて死んでいない。
悠馬はそんな彼女の手を強引に引っ張ると、彼女を立ち上がらせ、屈託のない笑顔を浮かべた。
「帰ろうルクス。俺はお前のことが好きだ。お前はお前だよ。偽物じゃない。絶対に」
「そんな無責任な…」
「お前の手はあったかい。お前の涙は本物だ。お前の恐怖も、お前の感情も、全部人間のものだ。闇なんかじゃない。お前の人格は、ここに在る。だから帰ろう」
彼女の手は暖かかった。彼女は恐怖して泣いていた。彼女は怯えていた。だから可能性を全て捨て去ろうとした。
そのどれもが人間としての感情だ。
悠馬はルクスへと告白をしながら、彼女を抱き寄せた。
ルクスは涙を流しながら、嗚咽を漏らしながら、悠馬へとしがみつくと唇を噛んだ。
「帰りたいよ…ボクは君のそばにいたいよ…」
「うん。大丈夫。必ずそばにいるから」
***
「!」
目を開くと、そこには真っ白な天井が広がっていた。
脳内の思考速度は極端に鈍く、まるで自分自身の時間の速度を鈍くさせられているような感覚に囚われながら、手を動かしてみる。
手を動かすと、右手の神経から自身の脳に、鈍い痺れが走った。
「っ…」
痛いというよりも、血管がちぎれたような、そんな不快な感覚だ。
不快な感覚を感じていると、誰かに顔を覗き込まれているような気がして、顔を上げる。
そこには見知らぬ看護服の女性が、不思議そうな表情でこちらの様子を窺っていた。
「ルクスさん?わかりますか?」
「ゆ…ま…ク…は?」
「先生!ルクスさんが意識を取り戻しましたよ!」
看護服の女性は、ルクスが目覚めたのがよっぽど驚きだったのか、病院内で大声を上げながら走って行く。
一体、何がどうなっているのだろうか?
ルクスは何もわからないまま、ただあの瞬間、閃光の中で出会った悠馬の言葉だけを思い返し、立ち上がる。
「悠馬クン…」
不快な違和感のある右手を強引に動かし、呼吸器を外して立ち上がる。
腰を上げると、自身の腹筋が悲鳴を上げているような気がしたが、今はそんなのどうでも良くて、ルクスは自身の右手に繋がれた点滴の点滴スタンドを握り、立ち上がる。
「っ…」
足もかなり不快な感覚だ。
まるで泥沼にハマっているような、夢の中で走っているような感覚の足に眉を潜めたルクスは、それでもヨチヨチと赤ちゃんのように歩みを進め、外へと向かおうとする。
すると、病室の扉は静かに開き、青いチェックの制服に身を包んだ金髪の少女が現れた。
「ル…クス?」
「花蓮チャン…」
「アンタ…目覚めて…」
花蓮は手に持っていた小さな花束を地面に落とすと、目元に涙を溜めて泣き崩れた。
「うっ…良かった…ルクスずっと目覚めないから…もうダメかと思って…」
「ボクは…そんなに眠ってたのかい…?」
しばらく声を発していなかったからか、喉に痛みを感じながら掠れた声を出すルクスは、花蓮へと訊ねる。
「もう3週間よ…!ずっと寝たきりで意識取り戻さないから…!」
「そんなに…」
体感では、数分程度だった。
悠馬がシャドウ・レイを放つ瞬間に闇で混沌を足止めし、そこから悠馬と話していた記憶のあるルクスは、それからすぐに目覚めたとばかり思っていた。
しかし時の流れとは異常なもので、目覚めるとすでに、約1ヶ月近くが経過していた。
「そうだ…悠馬クンは…」
「っ…悠馬は…」
ルクスに尋ねられ、花蓮はビクッと身体を震わせた。
いつもは嬉しそうに、恋人として堂々と悠馬について話す花蓮の姿を目に焼き付けていたルクスは、彼女の表情と仕草を見て、背筋が凍るような感覚に囚われた。
「…ずっと集中治療室の中…面会もできない」
「……そう……なんだ……」
花蓮の告げた無慈悲な言葉に、ルクスはその場に立ち尽くす。
***
「…悪い。俺がもう少し勘が良ければ、結果は変わっていたかもしれない」
黒咲はICUと記された扉の前の椅子に座り、呟く。
真っ黒な髪に、少し窶れた目元をしている彼の横には、オリヴィアの姿があった。
オリヴィアは自身の金髪の髪を人差し指で巻きながら、黒咲に優しい表情を向ける。
「君のせいじゃない。黒咲、君が謝る必要はないぞ」
黒咲は悠馬が目覚めない原因を知っている。
その理由は、3週間前、混沌が悠馬の異能により消滅したタイミングにまで遡る。
「それで?お前は一体誰なんだ?」
モノクロだった世界に色が戻り始め、漆黒に染まっていた空は、徐々に夕暮れを取り戻す。
辺りを覆っていた瘴気はシャドウ・レイの力によって浄化され、落日に染まる旧都市の中で悠馬…いや、クラミツハの方を向いた黒咲は、真剣な表情で尋ねた。
これまでは混沌優先でスルーしていたが、これは暁悠馬ではない。
混沌が尋ねると、クラミツハは不思議な表情を浮かべながら何を言っているんだと言いたげだ。
「悠馬よ。正真正銘」
「ああ。確かにさっきまではな。だが今は全くの別物だ。俺の知っている暁悠馬は、少なくともお前じゃない」
確かに、共闘した直後はまだ暁悠馬のように感じていたが、今はもう暁悠馬としての気迫もオーラもなく、あるのは何故か神々しいオーラのみ。
神格を得ていないはずなのに、神格に近い状態に至っているクラミツハに、黒咲は人差し指をむけた。
黒咲に否定され、クラミツハは考え込むような仕草を見せる。
「私は…クラミツハ…ぇ…だとしたら…悠馬は?」
クラミツハは自分自身が暁悠馬ではなく、神のクラミツハであることを思い出す。
セカイと融合しつつあったクラミツハは、ここに来てようやく自分自身が神だということを思い出し、徐々に青ざめていった。
何故なら、身体が思い通りに動くのだ。
暁悠馬の身体のはずなのに、右半身しか使っていなかったはずなのに、今はもう、左手も思うように動くし、違和感すら感じない。
元々この身体が自分のものであったように、馴染みきったことに気づいたクラミツハは、愕然とした表情で膝をついた。
「悠馬は?悠馬?悠馬?」
セカイと神が結びついた時、そこには人間の介入する余地などない。
セカイという力は、元々神のために用意された異能であり、その力を神が利用すれば、当然ながら人の人格なんて滅びる。
この世界には序列というか、領域が3つ存在している。
1つ目は、誰もが知る、通常の人間。動物や生物も含まれるが、これらは同じ次元の存在で、全生物が等しく生態系の一部分に組み込まれている。
2つ目は、セラフ。
セラフの中には中途半端な使徒たちも含まれるが、彼らは人に戻りさえしなければ、生態系の枠組みから外れ、次元が一つ違うという扱いを受ける。
使徒は次元が微妙だから人間からの干渉も受けやすいが、悠馬やソフィアのような完全なセラフは、一般人の特殊な攻撃を受けることはない。
そして3つ目が、神。
神は文字通り、この世界の万物に干渉する力を持ち、その気になれば生態系の枠組みすら変化させることができる存在だ。セラフ化を使えるようになったとしても神に異能は届かないし、次元が違うため、そもそも相手にすらされない。
つまり悠馬は、クラミツハのすべての権能とセカイをフルパワーで使用した結果、クラミツハとセカイの神という領域に押しつぶされ、自我が消滅した。
クラミツハは状況とこの世界の秩序から結論を導き出し、頭を抱える。
「そんなの…聞いてない…!」
あり得ない。
悠馬は世界で初めて、自分の力のみで神格を得るに至った人間で、おそらく未来永劫、神になることができる人間なんて、悠馬以外現れない。
ずっとそばで見てきて、これからもずっと、死ぬまで一緒にいるのだと考えていたクラミツハは、大きな過ちを犯していたことに気づいてしまった。
「なによ…!結局詰んでたんじゃない…!私が力を貸してこんな結果になるんなら…力なんて貸さなかった!」
最初からこんな結果に終わるリスキーなものだと分かっていたら、悠馬に権能を貸して、闇の出力を請け負うなんてしなかった。
そんな崩れたクラミツハを見る黒咲は、彼女の背後に倒れていたルクスの体内から放出された光の存在に気づく。
物語能力は、物語能力者を殺すことによって、その人物を殺した物語能力者にその分の力を得ることができる。
混沌がティナの3割を奪い、7割の物語能力を保有したように、混沌を殺した今、次は物語の上位互換、セカイを持つ悠馬の身体へとすべての力が譲渡されるわけで…
黒咲は光輝く物体を見て、その膨大なエネルギー量に寒気を感じた。
これは人間が持っていていい力ではない。
悠馬は現在セカイを7割持っているが、混沌が作り出したのもまた、ほぼ完璧に近い言うなれば擬似セカイ。
既にセカイを手にしている悠馬にこの力が渡れば、反動は計り知れない。悠馬がこれを取り込めば、悠馬はセカイを17割…つまり170%体内に保有することになる。
最高神ですら、セカイは100%でしか使ったことがないのに、それの1.7倍ともなると未知の領域だ。神格を得ていない悠馬の身体では、とてもじゃないが耐え切れるものではない。
「崩…」
黒咲は混沌の保有していたセカイを崩壊するべく異能を振るったが、光輝くセカイは黒咲の異能が放たれる寸前でクラミツハの体内へと入っていった。
「がっ…」
「暁!」
まるで体内の細胞が内側から弾けたような痛みが全身を駆け抜け、脳が溶解しているような熱さが頭の中に広がっていく。
一周回って心地良いような激痛が全身を駆け抜ける中、クラミツハは口から血を吐き出し、その場に項垂れる。
「おい暁!」
クラミツハは突如として体内に入ってきたエネルギーに耐え切れることができずに、そのまま意識を失った。




