ボクの想い
「ぁ…ぅ…」
真っ赤に染まった空間で、人と呼んでいいのかわからない愚鈍な肉塊が、呻き声を上げる。
顔は血に染まり、鼻は潰れ、かなり殴られているのか目元も潰れている。死人のように真っ白だった肌は、至るところが腫れ上がり、青痣になっていた。
いや、顔だけならまだマシな方だ。
確かに鼻は折れ、皮膚は剥ぎ取られ、見るに無残な姿なのかもしれないが、首から下に比べれば、顔の方が幾分かマシ。
彼女の首から下は、肋骨も剥き出しで、臓物も引き摺り出されている。
まるで中途半端に爆発に巻き込まれた哀れな少女のように、ぐちゃぐちゃであられもない姿。
両手だって変な方向に曲がっていて、それでいて指先も、丁寧に一本ずつ逆方向に曲げられている。
もし仮にこの姿を目にする人が居たとするなら、おそらく最初は人間と認識せず、グロテスクな人を模したオブジェだと判断することだろう。
「ま、完全屈服ってところかな?」
肉塊の横に立っている男性は、1人呟く。
肉塊はすでに、まともな声帯すら残っていないのか、ピクリと反応こそしたものの、声を発することはない。
もうお分かりだと思うが、この肉塊はルクスだ。
ぐちゃぐちゃになっているルクスを見下ろす混沌は、優しげな笑みを一度浮かべると、ルクスの顔を踏みつける。
「これでこの身体は完全に俺のモノだ。お前はもう時期くる死を待つのみ。ご苦労さん」
ルクスの身体を奪った混沌だが、彼はハナから、ルクスと共存するつもりなどなかった。
最初からルクスの身体は都合のいい依代で、思い通りに動かないならこの身体の元の主人の精神を破壊して廃人にするだけ。
ようやく自由自在にルクスの身体を扱えるようになった混沌は、1人で拍手をしながら満足そうな表情を浮かべた。
「邪魔は消えた。次の段階に行こう」
ルクスはもう抵抗する力すら残っていないし、次の段階に移ったところで邪魔者はいない。
右手を伸ばし、そこに天使の輪のようなモノを生成した混沌は、彼女の精神世界が徐々にひび割れていくのに気づいた。
「死んだね。安心しなよ。お前の体は、俺が使ってやるからさ」
ルクスの自我が完全に無くなったと悟った混沌は、崩れ落ちる空を見上げ、指を鳴らした。
「さよなら」
***
「ふぅ…」
混沌が意識を外へと向けると、そこには誰もいなかった。
精神世界にいる間、悠馬や他の異能力者に攻撃される可能性も視野に入れていたが、どうやら杞憂に終わったらしい。
混沌は安堵すると同時に、落胆しながら空を飛ぶ使徒を見上げた。
「さてと。神格を得るか…儀式の間はまだ残ってるのか?」
ここは日本支部の異能島。
異能王の文献に記されたことが正しければ、300年前、初代異能王と混沌が最後に戦ったのも、ここ日本支部。
ここには誰も知らない、儀式の間という空間が存在していた。
ではなぜ、そんな分かりやすそうな儀式の間が、300年間一度も発見されなかったのか。
その原因は、第4学区、つまり旧都市の中に儀式の間があるからだ。
第4学区は他の学区と違い、300年前から封鎖されたままだ。
その原因は、第4学区の中に足を踏み入れようとすると、体調不良を起こす者が続出し、何人たりとも入ることができなかったからだ。
高レベルの人ほど旧都市の奥の方に進むことができるが、レベル10ですら、数百メートル入ったところで嘔吐するようなオーラが漂っている。
そのため、数百年間、監視カメラも付けられず、工事を進めることもできず、放置され続けたのが第4学区。
混沌の手にしたいものは、そこにある。
「怠惰と嫉妬が死んだか。まぁいい。どうせ聖魔の仕業だろう」
自身の配下の反応が消滅したことに気づき、混沌は呟く。
ルクスの長い髪を払い除けながら落ち着いた様子で話す混沌は、聖魔のことを一切危険視していなかった。
する必要がないのだ。
聖魔は元々、混沌と敵対していた側の人間だ。
しかし聖魔の実力は凄まじく、混沌は彼の死を惜しんだ。
彼の力があれば、エルドラなど恐るに足りないと考えたのだ。
だから大罪異能を付与する際に、聖魔や大罪異能の持ち主たちには、特殊な異能を付与している。
それは絶対に主人を攻撃できないという制約だ。
彼らは大罪異能持ち同士で殺し合うことはできるが、主人を背後から殺すことはできない。
つまり混沌を唯一殺せるであろうシャドウ・レイを保持する聖魔も、混沌に一撃を浴びせることができないということだ。
そのため、聖魔を危険視する必要は一切ない。
別にこれから何人大罪異能持ちが殺されようが、いくら使徒を殺されようが、それら全ては誘導であって、混沌が神格を得るまでの時間稼ぎ。
怠惰たちには自分を復活させてくれたことこそ感謝しているものの、彼らを助けるつもりなど微塵もない混沌は、目の前に黒い渦のようなものを展開させて、躊躇いなくその中へと入った。
「懐かしい空気だ」
どんよりとした空気。
湿気が多いような、息を吸うだけで体が重くなるような空間へと立ち入った混沌は、両手を広げてその懐かしい空気に黄昏る。
ここは第4学区、通称旧都市。
まるで紛争地帯のようにひび割れ崩れた建物と、道路に広がる倒壊した建物の破片と生茂る草。
真っ暗だというのに、若干赤みがかって見えるその空間は、混沌にとっては懐かしい空間だ。
真正面に見える旧セントラルタワーに一直線で迎えるよう設計された大通りを通る混沌は、人おろか虫、使徒すら立ち入れないこの空間を、堂々と歩いていく。
この空間は、最低でもレベル50以上の力がないとまともに立ち入ることすらできない。
だからこれまで、総帥になった寺坂や夕夏の父である総一郎ですら、旧都市の探索が出来なかったわけだ。
毒素が多いと言っても過言ではない空間は、誰も立ち寄ることがない。
4月ということもあり、まだまだ寒い中を歩く混沌は、黒衣の軍服を揺らしながら、ふと思った。
「そういや俺は、どうして神になろうと思ったんだ?」
どうしても思い出せない。
明確な理由をもって、明確なビジョンを持って実行に移したはずなのに、今ではもう、神になって支配するということしか考えられない。
顎に手を当て、ふと浮かんだ疑問に首を傾げた混沌は、その疑問が不安に変わる前に、首を振って脳内から振り払う。
「どうでもいい。神格を得ればわかるはずだ」
神になれば、過去の自分が何を考えていたのかなんて余裕でわかるはずだ。そう言い聞かせ、混沌は第4学区の奥へと進んでいく。
***
もう自我なんてほとんど残っていない。
まるでこの世の大気の中で浮かんでいるかのように、なんの目的があるわけでも、自由に動けるわけでもなく漂うルクスは、ぼんやりとした空間の中にいた。
何ができるわけでもない。
彼女の身体は完全に混沌に支配され、ルクスができることは、何一つとして残っていない。
呼吸をする権利も、体を動かす自由も、考えるだけの思考力も何一つ残されず、その姿は、植物状態に等しいのかもしれない。
ただ、彼女が見ているのは温かな夢のみ。
死ぬ寸前、人が見るという走馬灯のようなものを、ルクスはぼんやりと眺める。
不思議と、恐怖は湧いてこなかった。
いや、もうすでにそう言った感情を失い始め、魂が消えゆく寸前なのかもしれない。
自分が死ぬというのに、抗うわけでもなく消滅を待つルクスの表情は、穏やかに見えた。
これまでの人生で、沢山の出来事が起こった。
ルクスは思考力も何も残っていないが、不思議と流れ込んでくる自身の記憶の世界に浸る。
ルクス・アーデライト・夜空という少女の人生は、周囲の人間からして見ると異常で、哀れみの視線を向けられるような生き様だったのかもしれない。
彼女はロシア支部の貧しい家庭で生まれ、程なくして教会に預けられた。
別に捨て子などという両親との悲しい別れではなかったが、自分たちの生活で手一杯だった彼女の両親は、ルクスを教会に預けるべきだと判断したのだ。
近隣に住む大人たちからは捨て子でもないのに教会に預けられて、かわいそうな子だと哀れみや同情の視線を向けられた。
しかしルクスは、自分の生い立ちを決して哀れだと感じたことはなかった。
なぜなら彼女には、生まれつき選ばれた異能が備わっていたからだ。
彼女は物心が付いた時から、聖異能を自由自在に操ることができた。純粋な聖異能のスペックだけでいえば、ルクスはこの時点で閃光の名を冠するルーカスを上回るほどだった。
聖人だった彼女は、他人を恨む、自分自身を哀れむと言った感情を持つこともなく、ただただ、教会のために従事した。
それが若干5歳での出来事。
教会で働くにしてはあまりに幼く、世間を知るにはあまりに早すぎる。
ルクスの教会での働きを見ていた近隣の大人たちは、彼女の生き様を見て、より一層、哀れむようになっていった。
人というのは身勝手な生き物で、自分の幸福は、他人と同じだと思っている。例えばほら、結婚することこそ幸福だと考える人間もいれば、結婚せずに1人で暮らすことこそ幸福だと考える人間もいる。
人の幸福とは、人によって違うのに、人間は幸福を周囲に強要し、自分と違う者がいれば、それは不幸だと断定する。
ルクスは決して不幸ではなかったが、周囲は幼い頃から教会で働く彼女を見て、不幸だと哀れんでいたのだ。
それから数年。ルクスが7歳になった頃、当時ロシア支部総帥だったオクトーバー・ランタンが現れた。
教会での生活に完全に慣れ、仕事も生活の一部として余裕を持って熟せるようになってから訪れたら転機。
しかしそれは、ルクスの運命を大きく変える選択でもあった。
オクトーバーの目的は、この先訪れる終末、つまりティナが全人類を滅ぼす結末を予見し、その結末に唯一抗えるであろうルクスを闇堕ちさせようと考えたのだ。
ルクスはそれを、躊躇いなく受け入れた。
聖人は誰でも助ける善人というイメージが強いだろうが、行きすぎた聖人というのは、普通の聖人とは似て非なる者となる。
ルクスやルーカスのような聖人は、全員救うという選択肢がない場合、どれだけ効率良くほぼ全員を救えるのか?という判断に至る。
つまりルクスはこの時、オクトーバーから終末が来ると伝えられ、周囲の人間を切り捨てた。
それでも彼女は、不幸だと感じなかった。
育ててくれた教会の神父、同じく教会で育った子供たち、よくご飯を持ってきてくれた叔母さん、ルクスを産んだ両親。
それら全てが死んだというのに、ルクスは不幸だと感じることもなく、復讐心も絶望も感じることなく、自らの意思で闇堕ちを選択した。
感情が昂ることもなく、稀有な反転。
復讐心で反転した悠馬、絶望で反転した美月や朱理と違い、ルクスは世界で初めて、自分の意思で、冷静な意思を保ったまま反転をした。
それから先は、特に何もなかった。
空白の期間と言ってもいいほど、学校に通うわけでもなく、誰かを助けるでもなく、毎日1人で教会にお祈りしにいくだけ。
哀れだろう。
最初から何も持っていなかったのに、手にしたものは全て消え去り、残ったのは己が身のみ。
復讐も絶望もできず、ただただ、祈り続けることしかできない少女。
しかし彼女は、そんな自分の人生を哀れだと感じることすらできなかった。…そう。きっと彼女は、最初から感情が麻痺していたのだ。
自分が他人と違いこの生活を不幸と感じていないのではなく、自分が不幸かどうかわからなかっただけ。
絶望しているかどうかわからなかっただけ。復讐したいのかわからなかっただけ。
ルクス・アーデライト・夜空は実に哀れな少女だった。
シベリアの地下、メトロで暁悠馬に会うまでは。




