混沌に沈む
「はぁ…はぁ…」
オレンジ色のライトが照らすシンプルな寮内で、セレスは息を切らし、額に汗を浮かべていた。
力なくベッドに突っ伏す彼女を見つめる黒髪の少年、暁悠馬は、翠色の彼女の髪を優しく撫でて上体を起こす。
「ありがとう、ローゼ。もう大丈夫だ」
セカイを3割近く奪われ動けなくなっていた悠馬は、セレスの治癒によりなんとか動ける状態にまで戻っていた。
まだ身体は鉛のように重いし、これで戦えと言われたら正直無理だと即答してやりたいくらいだが、彼女が頑張ってくれた以上、こちらも誠意というものを見せたい。
まだ完治には程遠いが、まるで完治したように振る舞う悠馬は、セレスに優しげな笑顔を見せる。
「いえ…まだ…」
「ううん、このくらい余裕だよ。…それよりセレスの体力が心配だ」
悠馬はシヴァの結界のおかげで毒や麻痺なんかをある程度低減できる恩恵があるにもかかわらず、今回は反動で身体を動かせなくなっていた。
それはつまり、シヴァという神の力ですら悠馬の身体に生じた反動を治療するのが難しかったわけだ。
なのにセレスは、悠馬の身体の反動をある程度低減させてみせた。
それは控えめに言って、人の治癒の領域を逸脱している。
結界の領域以上の治癒を施して見せたセレスの体力が不安な悠馬は、ベッドから降り、疲れ果てている彼女を抱き寄せてベッドに寝かせた。
「悠馬さま、私はまだ動けます!最後まで治癒を!」
「ありがとう。その言葉だけで充分だよ」
彼女に尽くされているということは痛いほどわかるし、彼女の気持ちも理解できる。
一途で従順なセレスは、自身の身体がどうなろうが最愛の人、悠馬のために最後まで異能を使う覚悟なのだろう。
しかしそれは、悠馬が求めているものではない。
セレスに大きな代償を払わせたくない悠馬は、彼女の額の翠髪を優しく払うと、額にキスをして見せた。
「星屑、行くぞ」
「おっけー…と言っても、何できるかわかんねえぞ?」
セレスに背を向け、歩き始める。
そんな悠馬の背後を追いかける星屑は、自分ができることを考えていた。
未来を変えることすら許されなかった、人に触れることすら許されなかった星屑ができることは、かなり限定的になってくる。
「見えなくなってるなら、干渉できるんじゃないのか?」
「…なるほど…!確かに…」
星屑は現在、未来が見えないと話していた。
それはルクスが混沌になるという未来を変えるために無理に干渉した結果なのだろうが、悠馬はその結果に疑問を抱いていた。
悠馬が別の世界、つまり暁悠馬が悪羅百鬼になる世界線で出会った星屑は、そもそも周囲に存在すら認識されていなかった。
つまり干渉しすぎた結果、彼の身に起こるのは未来を見れなくなるなどという生易しいものではなく、周囲から認識されなくなるというもののはず。
しかし今こちらの世界の星屑は、悠馬やセレス、聖魔も認識できている。
なんの偶然なのかは知らないが、動けなくなった悠馬を背負って逃走できるくらいの干渉ができるなら、今の星屑はそれなりのことができるはずだ。
異能を使えなくなった代わりに干渉ができるようになっている状態の星屑は、悠馬の意見を聞いて納得したように深く頷いた。
「悠馬くん!」
玄関に差し掛かったあたりで、背後から少女の真剣な声が聞こえてくる。
靴を履こうとしていた悠馬は、声の主を瞬時に理解し、レッドパープルの瞳で背後を振り返った。
「夕夏…」
亜麻色の髪を揺らし、真剣な眼差しで立っている少女。
彼女の背後には茶髪ショートボブの、半泣きの少女が立っていた。
「美沙?」
「ゆ、悠馬…八神が赤い髪の大男に襲われて…私は逃げたんだけど、八神が!」
「……アイツか…!」
声を震わせながら話す美沙を見る限り、ただ事ではない。
赤髪の大男と言われすぐに憤怒を思い浮かべた悠馬は、彼女の発言を聞いてから外に向かうべく扉を開いた。
「待って!私も行くよ!」
「夕夏…ダメだ」
「今の悠馬くん、かなり疲れてる。…それに私だって、ほとんどの人には負けないよ。私もついていく」
長年そばに居たからだろうか?
悠馬が疲弊していることに気づいていた夕夏は、自分も付いていくと申し出て、廊下へと走る。
「美沙は待ってて。外は危険だから」
「う、うん…」
夕夏の視線を見て、美沙は素直に頷いた。
いくらレベルが高い国立高校生の美沙といえど、流石に自分が出しゃばっていい場面ではないと判断したようだ。
八神のことが気になるのだろうが、グッと堪えて夕夏のお願いを受け入れた美沙を見て、悠馬は寮の外へと出た。
「…星屑」
「なに?」
「夕夏は…」
「大丈夫。今の混沌に、残りの物語能力は必要ない。つまり美哉坂夕夏という人間は、混沌の眼中にないよ」
夕夏に聞こえないよう小さな声で尋ねた悠馬は、願った通りの答えが返ってきて安堵する。
悠馬のセカイで残りの物語能力を代用している混沌には、セカイの劣化版である残りの物語能力なんて価値すらないだろう。
真っ暗な異能島の道路へと出た悠馬、夕夏、星屑の3人は、周囲に落ちていた大量の生命体を見て動きを止めた。
「……聖魔だな」
夥しい数の、使徒の残骸。
血こそ出ていないものの、生命活動を行えず絶命しているであろう使徒の大群は、足の踏み場を探すのが難しいほどに広がっていて、悠馬でも気持ち悪いと感じるほどだ。
おそらく美沙はこんなカオスな道を突き抜けて助けを求めに来たのだから、かなり精神的な負担を負っているだろう。
ケアはセレスに任せても問題ないと思うが、少し心配だ。
ひとまずこちらは、美沙の心配している八神を探しに行くのが賢明な判断だろう。
実力的にも、八神は使徒程度ならば倒せるだろうし、相手が憤怒やその他の大罪異能持ち、もしくは混沌本人でなければ負けはしない。
そう考える悠馬は、八神を自身の寮に置いて、美沙やセレスの安全を確保することを最優先に動く。
「悠馬。来るよ」
悠馬が一歩踏み出すと同時に、暗闇に星屑の声だけが響く。
その声に即座に反応した悠馬は、その場に踏み留まり、強力なオーラが急接近していることを感じ取った。
「っ!?結界…クラミツハ」
「天照…」
全身の血の気が失せていくようなオーラ。
殺気を向けられた訳でも、敵意を向けられた訳でもないのに死を錯覚するほどの絶望的なオーラに、悠馬と夕夏は本能的に結界を発動させた。
それは凡人ならば死を錯覚するだけでは済まず、もし仮にここにいるのが争いも知らない無垢な少年少女だったなら、その場で絶命していたほどだろう。
それほどに、接近してくるオーラは圧倒的だった。
ドスン!という地響きとともに、悠馬たちの前へと何かが降り立つ。
「やぁ盗人。俺の肩慣らし手伝ってくれよ」
「は?お前が俺から異能盗んだんだろ敗北者」
「ル…」
真っ黒な髪に、死人のような真っ白な肌。
黒衣の軍服に身を包んだ少女を目撃した夕夏は、呆気にとられたような声で彼女の名前を呼ぼうとした。
しかし夕夏も、彼女がルクスでないことはすぐに悟ったらしく、名前を呼ばずに踏みとどまる。
「美哉坂夕夏…俺と同じ物語能力者か。お前は眼中にないな」
絶対的強者というポジションで、自身がセカイを手にしているからか、以前のような気性の荒い発言ではなく、落ち着いた口調で話す混沌。
悠馬の煽りに反応することもなく、冷静に夕夏の異能の確認を終えた混沌は、人差し指を突き出してにっこりと微笑んだ。
「消し飛べ」
「させねえよ」
混沌の指先に展開された闇を見た悠馬は、クラミツハの神器を取り出し夕夏の前へと割って入る。
一瞬の駆け引き。
瞬きする間もなく放出された闇の一閃に、悠馬は居合の体勢で構える。
「…」
次の瞬間、悠馬は神器を抜刀したまま立っていた。
夕夏も星屑も瞬きすらしていないはずなのに、悠馬が何をしたのか、どう動いたのかは一切わからず、ただわかるのは、悠馬が混沌の初撃を相殺したという事実のみ。
混沌は自身の異能を相殺して見せた悠馬を見て、ニヤリと笑みを浮かべた。
それはルクスが浮かべないような歪んだ笑顔で、彼の表情を見た夕夏は、怯えたように一歩後ずさる。
「へぇ…レベル、下がってるはずなのに俺の異能を相殺できるんだ。凄いね」
「まぁな」
危なかった。ギリギリだった。
辛うじて混沌の初撃を相殺することのできた悠馬だが、今のはかなりギリギリだった。
混沌的には様子見で放った一撃なのかもしれないが、セカイを3割も奪われている悠馬にとって、混沌の攻撃は一撃一撃がかなり重い。
次攻撃が来たら、うまく相殺できるかどうかすらわからないだろう。
なんとか防ぎ切れているものの、これ以上の攻撃がくればどうなるのか怪しい。
「ま、そうこなくっちゃあね」
「っ!?」
悠馬が意識を混沌から逸らし脳を回転させる最中、真っ黒な長髪を揺らした混沌は、一瞬にして悠馬の目の前まで距離を詰め、悠馬の顔面を掴む。
悠馬は顔を掴まれ、浮遊感を感じながら背面に鈍い衝撃を受けた。
ルクスのか細い腕から放たれたとは思えない、強烈な一撃。
悠馬を片手で持ち上げ地面に叩きつけた混沌は、勢いよくコンクリートにめり込んだ悠馬を見て、満足そうに微笑む。
速い。あまりにも速すぎる。
聖魔のおかげである程度の速度、チャンの鳴神以上の速度で動く相手に対しても、遅れを取らない程度にまではなっていた。
今は悠馬自身、身体も万全な状態じゃないため、力比べや異能比べなら負ける可能性は考えていたが、まさか根本的に、目で追うことすらできないなんて考えていなかった。
疲労云々の問題ではなく、反応すらできなかった混沌の攻撃に、悠馬は後頭部から血を流しながら鳴神を纏った。
「やる気になった?」
「その手を離せよ」
横に落ちていた神器を手に取り、彼の腕を斬り落とそうとする。
鳴神の使用により速度が格段に上昇した悠馬の一閃は、確実に混沌の腕を捉えていた。
「っ…」
「はは…そういうことか…」
「悠馬くん!」
混沌の腕を斬り落とす、その寸前。
悠馬の中には躊躇いがあった。
そう。彼の身体は、彼女の身体であるということ。
混沌はルクスの身体を利用している訳で、混沌に攻撃をするということはつまり、ルクスに攻撃をするということだ。
ルクスは身体も華奢だし、悠馬が神器を振れば容易く腕など吹き飛ぶ。
だから攻撃ができない。
これまで半年以上共に過ごしてきた少女の身体に危害を加えることができない悠馬は、神器が混沌の肌に触れる直前で動きを止め、歯を食いしばった。
コイツは殺さなくちゃいけない。でも殺したくない。
ルクスの笑顔を、前を向いて必死に生きていこうとする彼女を、そのキッカケを与えた悠馬が殺すことだけはあってはならない。
悠馬の動きが躊躇いにより停止したことを知った混沌は、勝ち誇ったように笑みを浮かべ、拳を奮おうとした。
「物語…座標反転…!」
混沌が拳を振り上げると、夕夏の髪色は亜麻色から桜色へと変わり、茶色だった瞳はピンクへと変わる。
赤眼にも近い濃い桜色の瞳で座標反転の異能を発動させた夕夏は、自身の着ていた制服に付いていた名札と、悠馬の座標を反転させた。
「…ありがとう」
「悠馬くん、アレは…」
夕夏に背中を支えられ、小さく囁く。
夕夏はまだ状況を飲み込めていないのか、ボロボロになった悠馬の背中を支えながら、不安そうに呟いた。
「…ルクスの身体が乗っ取られた。…アレは混沌だ」
「そんな…」
本能的にはアレがルクスじゃないと知っていたのだろうが、信じたくなかったのだろう。
悠馬の口からハッキリとルクスじゃないと告げられた夕夏は、絶望の色を濃くさせ、悠馬の服をギュッと握り締める。
「話、終わった?」
夕夏と悠馬の会話が聞こえていたのか、余裕のある混沌は、粉々に砕いた名札を確認しながら問いかける。
星屑は3人の会話など無視して、自身の記憶に残っているこの先のことを思い出していた。
現状、悠馬と夕夏が協力したところで勝ち目はないし、ここで2人が死ねば、それこそ混沌の支配する世界が完成してしまう。
誰も混沌に歯向かえない、混沌が神として君臨する世界が確定しかけているこの現状で、この絶望的な状況を打破できる可能性があるのは、たった1人。
星屑は悠馬の方を一度確認すると、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
この選択をすれば、悠馬は間違いなく怒る。
いや、怒るだけで済めばまだマシな方だ。
脳内に1つの選択を浮かべた星屑は、その人物が現れることを願うように瞳を閉じた。
「何やってんの?痴話喧嘩?」
圧倒的不利な状況で、不意に聞こえてきた声。
その人物の声を聞いた瞬間、星屑は口元を緩め、悠馬は大きく目を見開いた。
「か…れんちゃん…」




