最大の危機
え?なんで?どうして?
いつもの悠馬なら、チクショウ!いい雰囲気だったのに!とでも嘆いていたかも知れないが、今日はそうも言ってられない。
美月の親友、番犬の湊が帰ってきたと悟った悠馬は、慌てて美月へと視線を向ける。
「え…なんで?」
「わ、わからない!とにかく隠れて!」
湊が外へ出てから十数分程度。
まさかそんなごく短期間で戻ってくるなんて想像もしていなかった美月は、ギョッとした表情で悠馬を布団の中へと押しやり、力を込めて抱きしめる。
悠馬はバスローブのはだけた美月の生肌に押し当てられ、心臓を停止させた。
美月は冷や汗だらだらで、悠馬の顔には彼女の身体の汗が付着した。
「寝てるよね…」
(やばい、舐めてみたい!)
美月の冷や汗だらだらな胸元に押し当てられた悠馬は、魔が差したのか、それとも昂っていた感情を忘れ切れないのか、彼女の胸に舌を這わせた。
湊が近くにいるというのに、全く大した度胸だと思う。
「ひゃっ!?」
美月は悠馬に胸元を舐められ、身体をびくりと震わせて叫び声を上げた。
「美月!?」
「あ…んん…ごめん。帰ってきてたんだ…変な夢見てて…今目が覚めた…」
「大丈夫?電気つけよっか?」
「い、いや!やめて!ね、眠いから…」
変な夢を見たという苦し紛れの言い訳を心配をする湊は、電気のボタンに触れる直前で止められて手を下げる。
「そ、そんなことよりさ…南雲くんと夜デートじゃなかったの?」
こっちはこっちで悠馬と夜の営みの予定だったが、湊も湊で南雲とデートをすると意気込んでいたはずだ。
なぜ数十分にも満たずに帰ってきたのかわからない美月は、そのことについて訊ねる。
「うん、そのつもりだったんだけど…案外治安が悪くてさ…陽気な人たちに絡まれて…南雲そういうの嫌いなタイプだし、私が怪我したら責任取れないからって、なしになったの」
「へ、へぇ…」
なにしてんだよアメリカ人!南雲と湊のデートの援護してやれよ!
美月にしがみつく悠馬は、美月の胸元の汗を手で撫で回しながら毒づく。
ていうかもう、この状況じゃ抜け出そうにも抜け出せない。
湊が帰ってきた時点で身動きが取れなくなっている悠馬は、ただひたすらにバレないことだけを願って目を瞑る。
会話がひと段落したところで、美月は悠馬の頭に肘打ちをした。
「っ〜」
悠馬は必死に声を堪えたが、これは多分、さっきお胸をぺろぺろしたお返しというヤツだろう。
こっちが必死に隠してやってるのにお前死ぬ気なのかと美月はご立腹のご様子だ。
頭を手で抑える悠馬は、冷や汗だらだらの美月の華奢で滑らかな身体を抱きしめ、優しく背中を包んだ。
「んんっ…」
(声我慢してくれよ!)
今のはわざとじゃないし、ふざけたわけでもない。
ただ純粋に、バレないようにするために美月にくっついただけだし、何一つとして変なことはしていない。
「美月…やっぱりなんか…」
「ち、違うの!…寝る前に悠馬の妄想してて…その…熱って…」
「え、ナニソレ」
めちゃくちゃ苦しい嘘が出た。
悠馬は自分の行動が間違いだったと悟り、申し訳ない気持ちに苛まれる。
布団の中に押し込まれている悠馬は、残念なことに自分が美月のどこを触っているのかわかっていないし、外の状況もわからない。
けど確実に言えることは、胸やそういったところは触ってないということだ。舐めたけど。
ドン引きしたような声を上げた湊は、グレーの髪をかき上げながら美月の横のベッドに座った。
「寝ないなら、少しお話ししない?」
「え…?あ、うん」
電気は付けず、真っ暗なまま湊が提案する。
修学旅行の醍醐味と言えば、腹を割って話すことだろう。
集団で集まって話したり、トランプをしたりして夜更かしするのもいいが、本物の親友同士が思い出話や過去の話に触れるのも、また一興。
湊は無表情のまま、鋭利な質問を口にした。
「美月、あの事件以前から暁に惚れてたよね?馴れ初めとか…あるの?」
美月は身体を震わせた。
いや、反射的に震えたというべきか。
彼女は入学前、入学試験で悠馬に助けられてから少しずつ好意を寄せるようになった。
明確に恋だと気づいたのは、結界事件前。
この恋を話すのに避けて通れないのは、自分が過去にイジメられていて、そして悠馬に助けられたという事実だ。
親友の湊にすら隠し続けてきたことを、ここに来て話すのか、それとも有耶無耶にしてしまうのか。
鼓動を早くする悠馬は、布団の中で美月の顔を見上げようとした。
残念なことに、彼女の表情は見ることができなかった。
「私ね…中学時代は虐められてたの」
悠馬の不安とは裏腹に、美月はありのままの事実を告げた。
高校に入学してから2年間、最も近くで寄り添ってくれていた湊に隠していたこと。
美月は今年の合宿で桜と対峙して、過去の弱い自分を切り捨てた。
だからこの話をしたからといって、前の弱い美月に戻るわけじゃないし、話す覚悟もできている。
悠馬の知らない間に成長を続けていた美月は、布団の中の黒髪を優しく撫でながら話を始めた。
「え…?」
湊はわけがわからないときにあげるような声で小さな声を漏らした。
「…毎日暴力振るわれて…殴られるのは日常茶飯事だったし、やめてって言ってもやめる人はいないし助けてくれる人もいなかった。私、そんな3年間を過ごした」
湊の知らない話。
美月のことを全部知っているつもりだった湊は、驚きを隠せないようだった。
しかし不思議と、「なんで話してくれなかったの!?」という怒りや不満は湧いてこなかった。
それは湊自身もわかっているからだろう。
この話をすることによって今の関係が崩れてしまうかもしれないと。
この話をするハードルの高さを。
誰だって、自己紹介で中学時代はイジメられてました!なんて言う奴はいないし、仮に親友ができたとしてもそんなこと打ち明けてくれるのはごく稀だ。
「そして入試の日も、私は暴力を振るわれてた」
「な…」
理解できないだろう。わざわざ異能島でイジメられる理由が。
普通に、真っ当に生きていれば、そんな話理解できなくて当然だ。
「ほんと、運がなくてさ。私は異能島に入学すればイジメから逃れるって思ってて。でも違くて…」
イジメは簡単に終わらない。
特に異能島の入試は、美月が嘘をついて受けに来ていた為尚更だった。
「そんなとき、悠馬に出会った」
美月に手を差し出してくれたのは、悠馬だった。
それが同情なのか、それとも気まぐれなのかはわからなかった。
でも、ただ1つだけ安心したことがあった。はじめて会話を交わして、契約を交わしてから思ったことが。
「悠馬は私の惨めな姿を見ても、対等な関係でいてくれた」
協力者という対等な関係で結んでくれた。
本来ならイジメられていたことを脅しの材料にして奴隷みたいに扱うこともできたはずだが、悠馬は美月とちょっと変わった対等な関係を結んだのだ。
「…それで…何回か連絡とか交わして…実際に寮で会っていく中で彼に惹かれたの」
「そう…だったんだ」
「ごめんね。ずっと隠してて」
「あ…いや…いいの。流石に…自分の傷を話すのは怖いし…」
湊は親友を亡くした話しをしたが、それはあくまで親友の話であって自分の話じゃない。
自分の重荷を減らすために湊は美月にこの話を打ち明けたわけだが、美月は当人の話だ。
親友が死んだなどではなく、自分がいじめられていたという惨めでみっともない話。
そんな話、誰にも打ち明けたくないだろう?
湊は美月の謝罪を聞いてから、彼女の隠していた気持ちが理解できていた。
だからこれ以上は踏み込まない。
「…でも、意外だな…」
「え…?」
「こんなに可愛くて愛くるしい美月が虐められてたなんて…」
「あはは…」
「どこの学校にも…救えないヤツはいるんだね」
湊の声を聞いて、悠馬は声を必死に堪えた。
彼女の闇を垣間見た気がしたからだ。
美月は以前から湊の闇を知っていたのかもしれないが、悠馬は彼女本人から親友の自殺を聞いたわけじゃない。
だから今、湊の声がとんでもなく低くて、いつも男子を怒っているときなんかと比較にならないほどの狂気を感じた。
「…ごめんね。美月。私さ。自分だけが楽になりたくて…無理やり私の秘密強要させてさ…美月の気持ち、考えてなかったのかもしれない」
湊は自分の傷を1人で背負えなかったから、美月に秘密を打ち明け、気を楽にした。
しかし美月はどうだっただろうか?
自分の秘密は言えず、無理やり傷を強要されて、きっと彼女の負担になっていたはずだ。
ベッドから立ち上がった湊は、美月へと手を伸ばし、優しく頭を撫でる。
「言いたくないこと、言ってくれてありがとう。美月の過去になにがあったって、私は友達だから」
その声はとても優しかった。
美月は顔を上げ、夜景の中に見えた湊が苦しそうに笑っているのを見て、どうしようもない後悔の気持ちに苛まれた。
(私じゃ彼女を救えない。救えていない)
悠馬が自分にしてくれたように、自分も湊を救えるかもしれない。そんな気持ちがなかったと言えば嘘になる。
現に湊は、今の今まで救われていたはずだ。
しかし美月が過去を打ち明けて、湊は後ろめたい気持ちを持ってしまっただろう。
「私はどうして自分のことばかりで、美月に何もかも押し付けたのだろう」と。
「いいの…湊が秘密を教えてくれたから…私も安心してそばにいれたの…似たような境遇にあった、湊だから…」
3年間、嘘の噂でいじめられ続けた美月と、親友の自殺を止められなかった、気づいてあげられなかった湊。
全く異なった境遇に聞こえるだろうが、傷は同じだ。
(ねぇ?悠馬。どう言うの?どうすることが正解なの?)
いつだって悠馬が欲しい言葉を掛けてくれて、美月はそれに甘えるだけでよかった。
でも今は違う。美月が湊の欲しい言葉をかけてあげないと、彼女の罪悪感が上回る。
正義感の強い、几帳面な湊はきっと、自分だけが重荷を、足枷を他人に強要していたことが許せないはずだ。
「私は…湊が好き」
悠馬はベッドの中で、2人の言葉を聞いて目を閉じた。
多分ここで美月が何を言おうが、其の場凌ぎにはなるし湊の気持ちを楽にすることはできるだろうが、彼女は本質的に救われはしない。
だって親友が自殺してるんだ。
3年経とうが、何年経とうがそれは忘れられることじゃないし、湊ならば尚更、自分を責めていたはずだ。
しかしそれは、美月と親友を重ね合わせることによって緩和されてきた。
生きていると錯覚させて、自分を楽にできた。
でも、だけど、美月が過去を打ち明けた今はどうだ?
きっと湊は親友を思い出しこう思っているはずだ。また気づいてあげられなかったと。
自分が気づかないうちに酷い仕打ちに遭い、自殺した親友。
自分が楽になるためだけに一方的に過去を押し付けて、親友になった美月。
これだけ近くにいたのに、湊は2年間、過去に美月がイジメられていたことになんて気づきもしなかった。
少し中学時代の話をすればすぐに異変は察知できたにも関わらず、だ。
「もう、寝るね」
湊は美月から手を離すと、逃げるようにしてベッドの中に入った。
「うん、おやすみ」
美月はそれでも、いつも通りに振る舞った。
過去は受け入れてもらえた。
いや、きっと湊は入学当初でも受け入れてくれたはずだ。
…でも、ただ…溝ができた。
2人の間に初めて出来た、小さな溝。
それは些細で大きな、自分ばかり甘えてしまった湊の罪悪感と共に大きな亀裂に変わっていくのかもしれない。
修学旅行初日の夜。
大きな発展からの大きな後退。
湊が全てから解放される日は、来るのだろうか?
そんな不安が美月の脳内で渦巻き、頭の中をぐちゃぐちゃにする。




