漆黒
「終わった…やっと終わった…」
その場にしゃがみ込み、使徒の最後の一体の死を見届ける。
辺り一面銀世界、夕日に染まり、オレンジ色で彩られる世界に映るのは、夥しい数の死だった。
数にして、ざっと数千体の使徒。
最後の方は剣技だけでなく、異能まで使って応戦した悠馬は、夕暮れに染まる使徒たちの亡骸を見て、小さな声を上げた。
「っしゃぁ!」
ここまでの達成感は、今まで感じたことがない。
そもそも、使徒を数百、いや、数千を相手するなんてことはなかったし、こんなに長時間剣を振ったのだっておそらく人生で初めてのことだ。
かれこれ5時間近く戦闘を行っていた悠馬は、バトルスーツの至る所にヒビや傷が入り、額からは血が流れている。
「腹が減った…」
なんだかんだ、飲まず食わずなのが1番堪えたかもしれない。
少しの食料を食べる余裕も、飲み水を飲む余裕もなかった悠馬は、背後を振り返り、そして絶望する。
「潜水艦が見えねえ…」
随分と先に進んでしまったからなのか、それとも吹雪で凍り付いてしまったのか。
あたり一面雪景色ということもあって、どこに潜水艦を置いてきたのかなんてもうわからないし、電波も拾えない。
戦いの最中、知らず知らずの内に潜水艦から離れていたことを知った悠馬は、バトルスーツの隙間に忍ばせて置いた食べ物を取り出す。
飲み物はごく少量だ。
バトルスーツの隙間に入る程度の、数十ミリリットルの水。
ようやく水が飲める。
嬉しそうに水を見た悠馬は、その表情を一瞬強張らせ、雪原の中にボトルを捨てる。
「凍って飲めねえよ…」
この調子だと、食料もカチカチに凍っていることだろう。
ようやく一度目の戦いが終わったというのに、これでは餓死、脱水症状で死んでしまう。
渋々歩き始めた悠馬は、使徒の亡骸を踏みつけながら汚れていない雪原を探す。
ここは人も踏み荒らすことのない大雪原。
当然のことだが、この数年間吹雪続けている雪たちのおかげで、他の異物は混ざることなく、純度の高い氷のままだ。
赤く染まっていない、真っ白な雪を発見した悠馬は、右手から炎の異能を発動させ、それで地面に触れた。
地下に行けば行くほど氷は硬くなるだろうが、幸い、上に降り積もっている白雪はまだまだ柔らかい。
覚者の異能といえど、流石に降る雪を溶かすことはできた悠馬は、その溶けた雪水を口に含み、そして息を吐いた。
不味くない、ただの水だ。
これで脱水症状で死ぬことはなくなっただろう。
これで不味かったらこのまま死ぬんじゃないか?と悲観的になっていたかもしれないが、神はまだまだ見放していないらしい。
唯一の難点は、喉が乾くたびに炎の異能を使用し、体力を消耗してしまうこと。
もうすぐ夜だ。
雪国の夜というのは、大自然の猛威であり、出歩く人間は大抵死ぬと聞く。
車の中でだって死ぬような環境の中に1人立っている悠馬は、当たり前だが寝具なんて何一つ持ってないし、防寒対策のできた空間を作ることはできない。
日が沈む前に、この雪の中を少しでも進む必要がある。
この場で立ち止まっていても死ぬと判断した悠馬は、歩き始める。
日が沈む前に、雪がないところまでたどり着いておきたい。
そうすれば凍死することはないし、無駄な体力を使う必要もない。
大雪原の中を歩き始めた悠馬は、歩き始めてすぐに、地面が突き上がるような縦振動に襲われ、膝をついた。
「地震!?」
日本支部ではよくある地震だが、まさかロシア支部のシベリアで地震に遭うなんて思いもしなかった。
しかも揺れはかなり強く、日本支部でもあまり感じないような揺れだ。
揺れが大きすぎてその場から動けなくなった悠馬は、下から突き上げてくる何かを察知する。
それは地震などではなく、膨大な力のような何か。
自身の危機察知能力が全力で訴えかけてくるような、地震とはまた別の恐怖を感じる。
揺れがさらに大きくなるにつれて、地面が崩れていくような轟音が響く。
下を向いた悠馬は、冷や汗を流しながら鳴神を纏い、そして飛躍した。
これは地震なんかじゃない。
下から誰か、何かが地面に穴を開けたんだ。
鳴神で数メートル飛躍した悠馬は、先ほどまで自分が立っていた場所を見て、息を呑んだ。
ゴボッという沈むような音と共に、氷で覆われたシベリアにぽっかりと空いた、大きな穴。
それは地獄への道のような、雪原の中にただ一つ空いた、奈落への穴のように見える。
「落ちる…!」
何かを感じ、上空へとジャンプをした悠馬だが、それは長くは続かない。飛行の異能を持たない悠馬は、奈落に真っ逆さまだ。
数百メートルはあるだろう、ぽっかりと空いた穴への墜落を回避する術を持っていない悠馬は、手を伸ばす。
「うわぁあああ!」
数秒の滞空の後にやってくる、心臓や身体が縮こまっていくような墜落感。
吹雪く大地へと必死に手を伸ばす悠馬だったが、奈落の穴の規模はあまりにも大きく、伸ばした手は白銀の大地へは届かなかった。
「っ!雷切!」
この高さから落ちては、まず助からない。
いや、正確には助かるだろうが、何時間、いや何日間意識を失うのかもわからないし、地上へ這い上がってこれるのかもわからない。
そもそも深さも何もかもわからないし、ただ一つ言えることは、この穴の底が見えないということだけだ。
とりあえず奈落の端へと近づきたい悠馬は、神器で雷切を2発放つと、その風圧を利用して穴の壁面へと近づいていく。
とりあえずこれで、穴のど真ん中に墜落することは避けれたわけだ。
次は減速をしなければならない。
この地球に重力がある以上、地面に落下する際は速度が増していく。
それは高ければ高いほど速度を増すわけで、この穴の底が見えないということはつまり、マンションやセントラルタワーの屋上から墜落するようなものだ。
水色の大氷壁、奈落の壁面を見た悠馬は、クラミツハの神器を壁に突き刺そうと、剣先を突き出す。
「っ!」
ガキン!という金属音と共に、火花が散る。
「まじかよ…!」
フェスタの時も痛感したが、覚者クラスになると、異能というスペックだけでも神器を上回るらしい。
神器の一撃を弾かれた悠馬は、慌てて神器を鞘に納め、両手に炎の異能を発生させる。
神器がダメなら、炎の異能しかない。
少しでも減速がしたい悠馬は、両手に炎を纏わせ、思い切って氷壁に触れる。
ジュッと言う氷の溶けるような音と共に、悠馬は時速数十キロで墜落していく。
「ぐぅぅぅああああ!」
硬い氷壁と柔らかな人間の皮膚。
すぐに装着していた手袋が摩擦で消え、素手で氷壁を擦る形になった悠馬は、摩擦によって削られていく両手の痛みで思わず悲鳴をあげる。
痛いなんてものじゃない。
両手がなくなったような、そんな感覚だ。わかりやすく言うなら、大根おろしで手のひらを削っているような感じ。
覚者の氷と、そうでない者の炎。
そもそものレベルが違うわけで、氷壁を溶かすに至らない悠馬の手は、まるでクレヨンでお絵かきをしているように、氷壁に一直線上の赤線を描いていく。
もちろんこれは全て血液だ。
摩擦で抉られた両手から、大量の血液と皮膚、そして肉が削られていく感覚。
いつもの悠馬ならシヴァの結界の恩恵で再生することができるが、こういう場合、手を離さなければ再生は起こらない。
しかし手を離せば、落下速度は早まる。
痛みに耐えるか、そのまま手を離して墜落するか。
どちらにせよ痛みの伴う選択だが、手を離さないと決めた悠馬は、険しい表情で火力を上げた。
「溶けろぉ!」
せめて手で掴める程度の窪みが作れればいい。
しかし冠位の氷は、そう簡単に溶けない。
悠馬は左手を離すと、摩擦で削れてなくなった指のことなど無視して氷の槍を生成する。
炎でダメなら、氷でやるしかない。
生成した氷の槍を氷壁に打ち付けた悠馬は、そこから一気に異能を解放して、氷の槍を氷壁と一体化させた。
「はぁ…はぁ…」
氷と氷では相性が悪いと思ったが、何も溶かさずとも、くっつければレベルの違いは関係ない。
たしかにオリヴィアの氷壁なんかよりは強度がないだろうが、それでも落下から逃れることができた悠馬は、足先を氷壁に打ち付けて足場を作る。
「…とりあえず…だな」
200メートルほど降下しただろうか?
うっすらと見える上空の光からそれくらいの距離だと断定した悠馬は、深いため息をつく。
帰ったらオリヴィアに文句を言いたいところだ。
ここから脱出するためには、まず一つ目は氷の異能を発動させていき上の陸まで戻る、もしくは下へと降りて道を探す、という2択だ。
前者は現実的ではない。
先ほどの使徒との戦闘において、体力の4割ほどを消耗している悠馬がこれを登るとなると、さらに体力の4割近くを使う羽目になるだろう。
そして残り2割の体力で地上に戻っても、地上は夜の氷点下になるはず。
つまり炎の異能を絶やさず使わないと凍死するだろうし、残りの2割で地上では生きていけないということだ。
そう判断した悠馬は、下を見下ろしながら携帯食料を口に運ぶ。
「冷え…」
干し肉のような、よくわからない塩味のものを食べる悠馬は、もぐもぐと口を動かしながら小さな氷を手にする。
小さいといっても、ソフトボールほどの大きさだ。
地上に戻ってからの移動が現実的じゃない以上、下に行くのが最適解なのかもしれない。
なぜこの雪原に突如として穴が空いたのか、かなり不安のようなものを感じるが、それでも下に道があるというのなら、寒さだって凌げる筈だ。
手にしている氷を下へと落とした悠馬。
音が帰ってくるまでには、約4秒の時間があった。
そこまで重い氷を落としたわけではないから、おそらく100メートル以内に地面があると考えていいだろう。
ならば登るよりも、降りた方が早いかもしれない。
最悪一晩ここで過ごせば寒さも凌げるだろうし、明日の朝には体力も回復しているはずだ。
そんな甘い認識で飛び降りた悠馬は、この決断が大きな間違いであることを知ることとなる。
***
飛び降りてからわずか数秒。
先ほどまで下に降りるか、上に登るか迷っていたのがアホらしく思えるほど何もない地面にたどり着いた悠馬は、ズレた道化の仮面を付け直し、周囲を確認する。
地面には線路があるため、地下鉄なのだろうか?
随分と古びてはいるものの、氷の侵食もなく、線路の形状を見るからに地下鉄であることは間違いないだろう。
シベリアは第5次世界大戦から放棄されているため、これがどこへつながっているのかはわからないが、この線路を辿っていけばどこかへ出ることはできるだろう。
外よりは寒くなく、雪風もない真っ暗な空間。
道標となる線路もあることに安堵する悠馬は、壁際に寄り歩き始める。
「どこなんだ?ここは」
「メトロ12。キミはここが初めてかな?死神クン」
悠馬の疑問に答えるように帰ってきた女性の声。
どこからともなく聞こえてくるその声は、コツコツという足音を立てながら近づいてくる。
真っ黒な服装、いや、これは聖職者の服装なのだろうか?修道服?
見覚えのある格好、一度だけ目にしたことのある人物を発見した悠馬。
真っ黒な修道服に身を包んだ女を見つけた悠馬は、一歩後ずさる。
向かってきたというよりも、歩み寄ってきたという言葉が相応しいかもしれない。
まるで戦う気がないような、勝敗でも決しているような。
否、決しているようなというのは誤りだ。最初から、勝敗は決していたのだ。
悠馬はそう直感した。
彼女が現れてから、全身から流れる冷や汗が、震えが…本能的に直感している。
こいつには勝てない。逃げるべきだと。
「…漆黒。ルクスでいいんだよな?」
「酷いなぁ…キミは。何度も顔を合わせておいて、ボクのことを忘れたのかい?その通りだよ。ボクはルクス。そしてキミは…これ以上先には進めないし、戻れもしない」
これに…こんな化け物に勝たなくちゃいけないのか。
さっき、オリヴィアとディセンバーの氷に穴が空いたのは、自然現象などではなく彼女が原因のはずだ。
コイツに勝つだって?
「キツイな…」
ルクスから放たれるオーラ、佇まい。
彼女の絶対的なオーラを前にして圧倒される悠馬は、冷や汗をダラダラと流しながら、一歩踏み出した。
「どうせ戦うんだろ?」
「ああ…ボクは今、邪魔をされるわけにはいかないんだ」
「なら燃えろよ!ムスプルヘイム!」
先手必勝と言わんばかりに放たれる炎の最上位異能、ムスプルヘイム。
メトロ内を燃やすようにして広がった炎は、真っ黒な修道服を着るルクスへと突き進み、そして真っ赤な炎で包み込んだ。




