狂者
「クスリの広がり具合はどうだ?」
寂れた古城の中、光体に包まれた存在は横で跪く女性に問いかける。
その姿は、つい先日日本支部の無人島に奇襲を仕掛けたあのお方と、全く同じだ。
「やはり、どこの支部でも飛ぶように取引されています」
「そうか…バカな奴らだ」
普通に考えて、注射を射つだけで強くなれるなんてクスリが、ノーリスクなわけがない。
しかし能力至上主義のこの世界では、誰もがリスクなど考えずに、手に入る力を手に入れようとするものだ。
例えば今、あのお方が世界中にばら撒き、とうとう各支部の異能島にまで行き届いた注射器。
あれは益田や神宮、バースが使って使徒になった注射器の成分を10分の1程度に薄めただけのものだ。
つまり、10回打てば使徒になる。
流石にそんなに使うバカはいないだろうが、あのクスリは成分を薄めるついでに、様々なギミックが発動するようになっている。
例えば、5本射てば周りの人間にも広めたくなる…とか。
限りなく催眠に近い何かを注射器の中に混ぜ込んでいるあのお方は、輝く顔で白い歯を見せる。
「8本打てば、死人であろうと生人であろうと妾の言いなりだ」
「はい」
注射器がノーリスクなわけないだろう。
自分が強くなっているようなつもりなのだろうが、結局注射器を使っている奴らは、あのお方の思い通りに動くしかない運命にある。
「…しかし、注射器の比にならないほど、こちらは戦力が減りました」
「なにを言っている?減ったのなら、増やせばいい。そうじゃないか?キング」
跪きながら進言する女に対して、あのお方は笑いかけた。
たしかに無人島襲撃では、ゲルナンにディセンバーという大きな戦力を失ってしまった。
しかしながら、あいつらは死人であって、生きている人間よりも異能に限度というものがあった。
注射器が異能島にまで進出した今、2人の替えはいくらでもいると考えていいだろう。
何しろ10本注射を射たせることに成功すれば、自在に操れる使徒の完成だ。
レベル10が注射器に手を伸ばせば、覚者と同程度の力が手に入るに違いない。
レベル10を使徒にさせる。
横にいるであろうキングへと視線を向けると、そこには廃人と化した人物の姿があった。
「可哀想に…妾はソナタが力を求める分だけ、それに応えようとしただけなのに…どうやらソナタは、器ではなかったようだ」
首元には注射器を打たれた跡がいくつもあり、そして腹部には魔法陣のようなものが展開されていた。
これがキングの成れの果てだ。
無人島を襲撃した際、悠馬にボコボコにやられて両足を失ったキングは、あのお方にさらなる力を求めた。
その結果として、キングは莫大な力を手に入れたわけだが…
器が耐えきれず、崩壊期を迎えようとしている。
「…このゴミの処分はどうしますか?」
「キングはまだ実験中だ。処分はしなくて良い」
「承知しました」
あのお方が声をかけても反応しない廃人を睨みながら、女は深々と頭を下げる。
あのお方から声をかけられるのは光栄なことなのだから、いくら廃人と言えど、返事くらいしろ。という感情が見え見えだ。
「控えよ。暫し1人にしてほしい」
「承知しました」
いつまで経っても席を開けようとしない女に、あのお方は語彙を強めて追い払う。
女が広間から出て行くと、そこには廃人と化したキングと、そしてあのお方だけが残った。
「最後の物語能力者は確定した…妾の戦力は、この世界にいくらでもあるし、負ける可能性はない」
注射器をばら撒いた時点で、向こうが同じ行動でも取っていない限り互角に渡り合うことはできないだろう。
「無人島の襲撃は、暇つぶしだ。別に勝とうが負けようが、妾には関係がない」
最初から勝つ気などなかったと言いたげなあのお方は、コツコツと足音を鳴らし、大きなステンドグラスの前で立ち止まった。
「……しかし…キングの報告にあった暁悠馬よ…ソナタは何者だ?」
全てが手のひらの上で回っているはずだった。
しかし数人、あのお方の予測から逸脱した人間たちがいる。
特に暁悠馬と悪羅百鬼は、予測がつかない。
警戒すべき存在が2人に増えたあのお方は、一抹の不安を抱きながら、ステンドグラスを叩いた。
***
「おい!もうねえのか!」
「ヒッ…!アイベル先輩、俺らが持ってるのはもうこれだけっすよ!そもそもこの注射器、それなりの値段がするんだ!」
イギリス支部の異能島、どこかの寮にて。
鋭い眼光でヤンキーチックな下級生たちを睨むガタイのいい男、アイベルは、怯える下級生たちの差し出す注射器を奪い取り、そして用済みになった生徒の1人を蹴る。
「クソ…!ようやく俺がクラス最強になった矢先に…アイツ…!」
注射器に頼り力を得たアイベルは優越感に浸っていたわけだが、それはつい昨日終わりを迎えてしまった。
暁悠馬という留学生のせいで、成績上位者のデバイスをへし折られ、そしてクラスメイトの前でバカにされたのだから、アイベルの立場というのは、地に落ちたと言ってもいいだろう。
今のアイベルは、クラスに居場所がない。
2年になってから突如として頭角を現し独裁をしてきたのだから、その人物の立場が弱まると、当然クラスメイトたちの革命も起こるわけだ。
他人よりも大きな野望、異能島最強を目指すアイベルにとっては、それは容認し難い行為だった。
「7本…か」
手にした注射器に視線を落とし本数を数えたアイベルは、その7本の注射器をポケットに突っ込む。
これだけあれば、留学生ごときワンパンできて、アイベルは元の立ち地位に返り咲くことができる。
人という存在は、自分が他人よりも上にいるという優越感を覚えてしまうと、人格が狂ってしまう。
その優越感は誰かに追い抜かれると徐々に焦燥感へと変わり、そして憎しみに変わって行く。
他人をどうやって蹴落として自分が上に行くか、どうやって他人を見下すか…
最終的には、そんなクソみたいな考えしかできなくなる。
最初はクラスメイトたちから褒められて、チヤホヤされるのが嬉しかった。
注射器を一本使っただけで周りよりも頭が1つ飛び抜けて異能を使えるようになった。
周りからも天才だと言われて、その日の帰り道は、今までにないほど綺麗な景色に見えた。
しかしそれも、長くは続かなかった。
アイベルの実力がみんなに認知されてしまえば、それは当然のこととして見られるようになって、チヤホヤされることも、褒められることもなくなる。
みんなから徐々に忘れ去られ、実力も当然のこととして見られる。
アイベルは他人に褒められ、チヤホヤされる喜びを知ってしまっただけに、それが許せなかった。
だから2本目を使った。
2本目を使うと、1本目の時よりもはるかに力がみなぎった気がした。
その時からだと思う。
体育のデバイスを使った授業で周りを圧倒したアイベルに向けられる視線は、徐々に羨望ではなく、恐れに近いものに変わっていった。
当然だ。今まで同じ程度のレベルだった人間が、ある日を境に急激に成長して行く。
取り残された人間にとっては、最初は嬉しかったり、羨ましかったりする。
だって、自分と同じ程度の実力だった人間が、実力をつけるのは自分のことのように嬉しいから。
自分もいつかあんな風に…って憧れる。
でもそこから先は違う。
相手が進むごとに、自分との距離は開いていき、いつしかそれは、別の世界の住民だったように、最初から住む世界が違かったのだと思い知らされる。
その時にはもう、羨望なんて眼差しは向けられない。
アイツは最初から住む世界が違かったんだ。
何をされるかわからない。
人は自分たちよりもレベルの高い人間を見ると、異端者を見つけたように距離を置く。
アイベルはそんな彼らの視線を見て、心地いいと感じてしまった。
羨望なんて、実力がちょっとしか変わらないから向けられるものだ。
実力が程遠ければ、向けられる視線はきっと、恐れや敬いといった、絶対的なものが向けられるに違いない。
周りからの羨望の眼差しよりも、恐れの方が好きだったアイベルは、その日を境に狂い始める。
反論をしてきたクラスメイトを殴り飛ばし、裏で愚痴をこぼすクラスメイトを体育の時間に圧倒する。
絶対的な優越感、圧倒的なまでの実力を手にしたアイベルは、いつしかそれが快感に変わっていった。
このクラスの頂点に立って、独裁をするのは素晴らしく楽しい。
クラスの仲良しごっこをするよりも、自分が圧政して、周りのクラスメイトたちが奴隷のように動き回っているのを見るのが気持ちがいい。
注射器さえあれば、この世界はどうとでもなる。
注射器の本当の恐怖など知らないアイベルは、過去のことを思い返しながら、小さな部屋を後にした。
これだけの本数があれば、きっと以前のようにクラスのトップに立てて、独裁ができる。
この世界の王様になったかのように振る舞える。
絶対的な根拠のない自信を持つアイベルは、上機嫌に日の下を歩き始めた。
室内に取り残された下級生たちは、不平不満を露わにした表情を浮かべる。
「チッ、誰だよ…あんなゴリラに注射器を与えた奴は」
「そうだ。せっかく、俺たちが異能祭の時に使おうと思って大金叩いて買ったのに…」
あの注射器は、無料で手に入るわけじゃない。
一本数万円の値段で取引され、しかも機会を逃すともう二度と買えないかもしれない。
学生にとっては、普通そんな金額は高すぎて買えないような値段だが、みんな必死こいて、奮発して注射器を買う。
それは異能祭が目前に控えているから。
下克上が可能な異能祭で目立つことは、自支部で有名になる大チャンスだ。
注射器が大流行している1年生たちの大半は、それぞれ1本の注射器を購入して、異能祭当日に使うつもりで大切にしていた。
まぁ、家宝のようなものだ。
いざという時に使って、それ以外の時は無闇矢鱈に使わない。
たった一度しか使えない、そして数万の値が張るものなのだから、尚更だ。
そんな大切なものを奪われた1年生たちにとっては、アイベルの行動はかなり不満だろう。
端的に言えば、1年生たちは楽してレベルアップできる機会を失ってしまったというわけなのだから。
注射器の中身を知っていれば、アイベルのおかげで救われたようなものなのだが、中身なんて知らない1年生達はかなりショックを受けているようだ。
「クソ…あのゴリラ、調子に乗りやがって…」
「フレディ先輩にボコられればいいんだよ」
「異能祭前に退学になってくんねえかな」
恫喝まがいのことをして、窃盗に限りなく近いことを行い去っていったアイベル。
彼に命を救われたことなど知らない下級生たちは、壁を叩きながら罵り合う。
「そう言えば、あの注射器って誰から買ったんだ?」
「…?お前、覚えてるか?」
「いや…俺はお前からもらったし…」
「俺覚えてるぜ!えーっと確か…あれ?」
「思い出せねえ…」
「どういうことだよ?」
誰から注射器を買ったのか。
そのことを知っている人間は、誰1人として存在していなかった。
いつ、何時に買ったのかはなんとなく覚えているものの、どういう服装の人間に、どんな声の人間から買ったのかは、全く思い出せない。
「誰から買ったんだろうな…」
まるで夢の中で購入したような、そんな奇妙な感覚に囚われてしまう。
答えを見つけ出せない1年生たちは、互いに見つめ合い、そして首を傾げた。




