そして日常は崩れ去る
時刻は19時を回り、外の雨も降り止んだ頃。
寮の中で座っていた茶髪の男子生徒は、気まずそうな表情で、キッチンで料理を作っている少女を見ていた。
いつも通りなら、料理の途中でも呑気な会話をして微笑み合う程度の仲だと思っていたのだが、今日の夕夏は少し違かった。
その原因は、質問責めにあったからなのか、連太郎が話していた異変が起こってしまったからなのか。クラス内に居た時よりも機嫌が悪そうな夕夏を見ていた悠馬は、完全にかける言葉を失っていた。
明らかにムスッとしている夕夏。調理中の食器はガシャンガシャンと音を立てているし、包丁で野菜を切る音も、リズミカルな音ではなく、刃物を叩きつけているような音だ。
「えっと…美哉坂?」
「なに?」
「大丈夫?機嫌悪い?」
「別に?」
絶対に怒ってるよ。不安に思ってちょっとした質問をしてみた悠馬だが、明らかに言動がいつもと違うことを知り、焦りを感じ始めていた。
いつもなら、「なにかな?」「ううん、全然!」というような返事が返ってくるのに、今日はその余裕すら無いようだ。
彼女の冷たい対応を目の当たりにして、背筋が凍るような感覚に襲われた悠馬は、携帯端末を取り出し、女子が機嫌悪い時の対応と調べ、検索結果をまじまじと見つめた。
ほほう、今の俺にできるのはひたすら褒めるくらいか。
検索結果を見た悠馬は、自分にできることが1つしかないことに気づき、料理を作ってくれている夕夏を、ひたすら褒めることを決意する。
恐る恐る、様子を伺ってから口を開く。
「美哉坂はいいお嫁さんになるよ」
「別に結婚したいわけじゃないしどうでもいい」
これなら絶対喜んでくれる!
絶対の自信を持って、彼女なら喜んでくれるだろうと思って発言した言葉は、あえなく玉砕した。
悠馬は魂が抜けたような表情でベッドに倒れこんだ。
思ってたよりずっと深刻な状況のようだ。だからと言って、いきなり話を切り出す訳にもいかない。もし仮に悠馬が「美哉坂、結界使えなくなったりしてない?」と訊ね、それが図星だった場合、なんでわかったの?すごいね!などではなく、犯罪者の仲間だと勘違いされることだろう。
それに、結界が奪われてなかった場合でも、後日結界が使えなくなっていればアイツのせいだと思われるかもしれない。
つい先ほどまで、夕夏にありのままを聞こうとしていた悠馬だったが、連太郎から「デリカシーのない奴だって知られたら縁切られるかもな!ハハッ」などと言われたから、どうしても聞きづらい。
一体自分がどうすれば正解なのかもわからないまま頭を抱えた悠馬は、笑みさえ浮かべない夕夏を見て、少しだけしょんぼりとした。
俺が思っていたような日常は、こんな簡単に崩れ去ってしまうのか。
手にしていた幸せの形は、不意な出来事で崩れ去る。それを知っているつもりだった悠馬だが、3年前とは違った形で消え去ろうとしている彼女を見て、まるで子供のように顔を埋めた。
どう質問すれば正解なんだろうか?どう聞けば、夕夏はきちんと話してくれる?
そもそも俺はこの件を聞き出すのに適任なのか?もっと適した人間がいるんじゃないのか?
そんな不安が頭をよぎり、泥沼の中に沈んでいくような息苦しさと、恐怖を感じる。
「できた」
いつもとは違うトーンで話す夕夏は、ナポリタンをテーブルへと持って来た。機嫌が悪いとはいえ、さすがは夕夏。見栄え的にはかなり綺麗だし、美味しい匂いも漂ってきた。
その匂い釣られてベッドから起き上がった悠馬は、少しだけ不安そうな表情をしながら椅子に座った。
いつもは笑みがこぼれる食卓も、今日は違う。無表情の夕夏と、それを不安そうに見つめる悠馬。
「いただきます」
彼女がそう告げると同時に、慌てて手を合わせた悠馬は夕夏に遅れて「いただきます」と告げると、食事を摂り始めた。
「美味しい」
夕夏にはなにを作らせても上手い。別に悠馬から何が食べたいというワガママを言ったことはなかったのだが、彼女が毎晩作るご飯でハズレを知らない悠馬は、ふとそんな声が漏れていた。
ほんのりと香るバターの香りと、甘い玉ねぎの食感が口に残り、思わず頬が緩んでしまうほどだ。
「なぁ、美哉坂」
「なに?」
「何かあったなら…相談してほしい。ほら、俺、こうして毎日夜ご飯食べさせてもらってるし。手伝えることがあったらなんでも…」
悠馬が夕夏に向けて、一歩踏み出した。連太郎の言っていた事件。彼女がほぼ確実に巻き込まれていることを知ってしまった悠馬は、彼女からの返事を期待していた。
「うるさい!少し黙ってよ!」
「え…?」
悠馬が全てを告げる前に帰ってきた返事は、酷く冷たいものだった。
ガシャン!という音が寮内に響き渡り、夕夏が食べていたナポリタンが床に落ちる。机に置いてあったテレビのリモコンや、書類も一緒にだ。
音を立てて割れる皿を見ていた悠馬は、何かが崩れ去っていくのを感じていた。
「貴方に話すことなんて何もない!レベルも学力も大したことないくせに、偉そうなこと言わないでよ!私を手伝う!?なにを!?暁くん今まで私のこと手伝ってくれた!?ないよね!一回も!私と君は住む世界が違うんだよ!最初から何もかも違うの!わかったら私に話しかけないでよ!そういうの一番うざい!」
夕夏は涙を流しながら怒鳴る。その様子を見ている悠馬は、無言になってシュンとしていた。
2人の間に起こった静寂を空気を読まずにぶち壊したのは、夕夏が机を荒らした影響で落ちた、テレビのリモコンだった。
テレビの音だけが、室内に響き渡る。
「っぁ…ごめん…なさい…」
ふと我にかえったのか、夕夏は自分がなにをしたのか、悠馬に向かってどんな毒を吐いたのか、今どういう状況なのかを理解したようで、一度目を見開いて逃げるようにして去っていった。
「待…」
悠馬が呼び止めようとした頃には、もう遅かった。バタン!と勢いよく閉まった脱衣所の扉を見た悠馬は、荒れた床を見ながら、しょんぼりとした瞳でテレビを見つめた。
完全にやってしまった。彼女の精神状態も何も考えずに無神経な発言をしてしまった悠馬は、流れている映像を見ながら、沈んだ心で何度も自分を恨む。
「は?」
テレビに映し出された異能島の中学校の入試内容。国立の入試内容しか知らなかった悠馬は、あることに気づいた。何かがおかしい。
***
「うっ…ひっぐ…うわぁぁぁん…」
寮の中。悠馬と同じ作りの寮。違うことがあるとするなら、少し女っぽいところと、悠馬の寮の家具と全てが向き合う形になっていることくらいだ。
そんな中、薄暗い電気を点けた状態でベッドの横に座り込んだ少女は、子供のように号泣していた。
「ごめん…ごめんなさい」
本当はあんなこと思ってない。思ってないのに!
つい先ほど、悠馬の寮で起こしてしまった出来事を思い出した夕夏は、大泣きしながら何度も何度もベッドを叩いた。
「なんで!なんで私なの?」
昨日の出来事が起きてから、夕夏の精神状態は不安定なものになっていた。
刃物で知らない人たちに切りつけられ、警察に詳しく事情聴取をされ、学校でも興味本位の生徒たちから何度も話しかけられた。
刃物で襲われた恐怖や怯えといった感情を隠すように努力した夕夏だったが、野次馬や警察の事情聴取というのはかなりストレスの溜まるものだった。
限界に近かった精神状態にトドメを刺したのは、結界が使えなくなったこと。
夕夏はいつも、ふとした時に結界の契約をしている天照大神の声が聞こえるのだ。それが聞こえなくなった夕夏は、悠馬の寮に行く前に結界を使おうとした。
いつも落ち込んでいる時に励ましてくれた神様。ずっと、死ぬまで側に寄り添ってくれるんだと思っていた神様の力が使えなくなるのは、あまりにショックだった。
そしてつい先ほどの出来事に繋がるというわけだ。悠馬の話のその全てに苛立ってしまった夕夏は、ベッドを叩くのをやめ、頭を抱えてシーツに項垂れた。
「どうしてよ…私たち、ずっと一緒にいるって約束したじゃん…」
夕夏が何故、天照大神に執着しているのか。それには理由があった。
それは小学校に入学して、間もない頃。
当初、夕夏は引っ込み思案で、あまり友達ができなかった。周りは社長の娘や、政治家の娘。
温厚な夕夏にとっては、その毎日いがみ合っている彼女たちを見る生活が凄く嫌いだった。
みんながみんな、自分が上だと、自分が偉いんだと主張して纏まりがない。友達なんて、出来なくていいんじゃないかと思いすらした。
そんなある日、夕夏は自身が覚えている中で一番最初のプレゼントを両親から貰った。
それが天照大神の神器だ。初めて貰った両親からのプレゼント。初めて出来た友達。夕夏は歓喜した。
最初はいらないんじゃないかと思っていた友達も、天照大神の説得によって友達は増え、中学に上がる頃には、学校の生徒の殆どが友達になっていた。
両親が忙しい時も、ずっと側にいてくれた。両親との繋がりを、一番思い出させてくれたのが、天照大神だった。
だから、今、この瞬間のこの状況が夕夏は納得出来なかったし、理解したくもなかった。
ずっと側にいてくれた人が居なくなった。
考えもしなかった出来事が起こった夕夏は、立ち上がると、寮の中を荒らしてまわった。
お気に入りだった花瓶を叩き割り、壁に飾ってあった絵を床に叩きつけ、テレビを強引になぎ倒す。
「なんで私ばっかり!なんでよ!!」
テーブルの上に置いてあった書類の全てを撒き散らした夕夏は、荒く呼吸をしながら、その場にへたり込んだ。
「私を1人にしないでよ…」
夕夏の悲痛な叫びが、今にも消えそうな声が、小さく寮の中に響いた。
***
「え?うん。出来ると思うけど」
夕夏や悠馬の寮と比べると、半分程度の大きさしかない寮の中。
部屋を真っ暗にして、ベッドに腰掛け足をピンと伸ばしている銀髪の少女は、携帯端末を耳に当て、通話をしながら髪の毛をクネクネといじっていた。
「うん、わかった。じゃあ、今日のうちにお願いしてみる」
そう締め括って、会話が終わったのか携帯端末を耳から離した美月は、カーテンの隙間から見える月明かりを浴びて、額に手を当てた。
数秒の間、月を見上げて居た美月は、携帯端末をベッドの上にポンと投げると、学校が支給しているものではない、自身の所持しているスマホを片手に、ベッドから立ち上がった。
小さな寮の中を、何度も行き来しながらスマホをいじる。
何度か画面に触れた美月は、電話を掛けたのかスマホを耳に当てると、姿見の前で立ち止まり、少し緊張した表情を浮かべながら相手の応答を待った。
「もしもし。お父さん。ちょっとお願いがあって」
通話が繋がったのか、美月は少しだけ安心した表情を浮かべると、お父さんにお願い事を始めた。
「将来の為に、理事会の中とか見てみたいんだけど。うん、見学とかって、お父さんの権限でなんとか出来ない?…出来れば明日がいい。わかった。ありがとうお父さん」
通話が満足のいく結果に終わったのか、ホッとした表情でスマホを耳から離した美月は、ベッドに駆け寄ると、嬉しそうに携帯端末である人物へとメッセージを飛ばした。
「ふふっ、任せてね、悠馬」
月明かりが照らす寮の中。銀髪の髪を揺らしながら、可愛らしい笑顔を見せた美月は、枕に顔を埋めながら、何かを叫んだ。




