初めては苦味と共に3
オレンジ色に染まる教室から抜け出し、廊下へと出る。
教室と同じようにオレンジ色に染まった廊下は、この島に来て初めて見るものだったのに、何故か懐かしいような、心地のいいような気分になる。
それはきっと、小学校から幾度となく、こんな光景を目にして来たからだろう。
ついさっきまでは不安や緊張で、今すぐ逃げ出したい気持ちでいっぱいだった私、美哉坂夕夏は、ある男子生徒のアドバイスで、ほんの少しだけ余裕ができていた。
きっと誰にも相談できていなかったら、廊下の景色を見て懐かしむ余裕なんてなかっただろう。
誰もいなくなった廊下を、コツコツと自分の上靴の音だけが響き渡り、それが少しだけ気分が良かった。
1人の時間というのは心地がいい。変に気を使わなくてもいいし、何も考えずに、ありのままの自分でいられるから。
周りは私の異能が六大属性の炎と雷、そして聖だと知ると、態度を改めたり、私に媚を売って来たりする。別にそれが悪いことだとは思わない。私だって、自分より上の立場の人がいたら、同じような事をすると思うから。
でも、それって本当の友達だって言えるのかな?私は不安だ。いつかみんなに捨てられるんじゃないかって。ずっと不安だった。
だからこそ、ここに入学して、彼と出会った事が、私にとっては運命のように感じた。彼は私の異能とレベルを知っても、何も変わらず接してくれる。ちゃんと向き合ってくれてる気がした。3日前だってそうだ。私が作ったご飯で泣いてくれるなんて思いもしなかった。温かいって言ってもらえて本当に嬉しかった。
みんなは私の事を欲しいものを全て手にしているっていうけど、それは正しくない。
私は実家では上手くいっていなかった。日本支部の総帥という仕事をしていたお父さんは、いつも帰りが遅くて、お母さんとはあまり会話をしない。
家事は全部お母さん任せだし、帰って来ても私の許嫁を取り決めようとするばかり。
正直言って、退屈だった。私の発言権は何もない。ただの言いなり。道具。お父さんからはそう思われてるんだろうって。薄々勘付いてた。だからこそ、私はこの異能島に逃げ出したんだ。
お父さんの手の届かない場所。私の手にしたかった理想があると思ったから。
だから彼、暁悠馬くんと夜ご飯を一緒に食べるっていうのは、私にとって至福の時間でもあった。
まるで弟を持ったような、そんな気持ちで、心が癒された。きっと私は逃げ場を探していたんだと思う。
そして行き着いた先が彼だった。そこが私の居場所になった。
彼が私との食事に温かみを感じているように、私も彼との食事で、癒しを求めている。
男子の好意の視線ではなく、ただの友達として見てくれている、彼だからこそ。
廊下を歩き終え、階段を見上げた夕夏は、真っ白だった壁が濃いオレンジ色になっているのを眺めながら、少しだけ微笑む。
ああ、憂鬱だ。
話を戻そう。今日、私に手紙を送ってきた相手について。私は彼のことが、お世辞を踏まえても好きとは言えなかった。控えめに言ったら嫌いなタイプ。
何しろ、入学前の実技試験の時に、私に女は女らしく、男に媚を売っておけばいいと発言してきた男子なのだ。
そんな男子のことを、好感度そのままに、好きになんてなれるわけがない。だから、告白されるとわかった時点で断ることは決まっていた。
コツコツと一段、また一段と階段を登りながら、夕夏はため息を吐く。
そもそも、彼はあれだけの事を言っておいてどうして私を好きになったんだろうか?
考えてもキリがないのに、自分のどこが良かったのかが気になってしまう。
ラブレターをポケットから取り出して、紙を広げる。
美哉坂 夕夏さん
今日の放課後、17時に西側校舎の屋上でお待ちしております。
大切な話ですので、1人で来てください。
誰よりもあなたの事が好きな神宮仁より。
これは私にでもわかる、わかりやすい告白だった。人生で初めて貰ったラブレター。小中と女子校で生活して来た私は、車で通学させられていたし、男の人と会うのは家の中でしかなかった。
初めて外の世界で知った男子に告白されたとあって少しだけ浮ついた気持ちになった夕夏だったが、名前を見て緊張と不安しかなくなった。
それが今日の朝のことだ。思った事をきちんと伝えて、彼には理解してもらおう。
3階の階段を登り終え、4階へと差し掛かる。4階の上が屋上だ。
しかし、教室を出る時までは少し余裕があった夕夏も、あと少しで屋上にたどり着くとなると、不安でいっぱいになっていた。
震える手を掴み、後ろに隠す。口は開くと、震えているのか、カチカチと歯が当たる音が聞こえるため、きちんと閉じる。
屋上まであと少しのところで、オレンジ色の壁に寄りかかっ夕夏は、そのまま一度目を瞑って、鼻で大きく息を吸った。
落ち着け。私。いつも通りの私で、暁くんに言われた通り、なんで付き合えないのかを説明すればいい。それだけでいつもの生活に戻れる。
そう自分に言い聞かせ、最後の数段を駆け足で上がった夕夏は、屋上の分厚い扉に手をかけ、勢いよく扉を開いた。
扉を開くと同時に視界に入るオレンジ色の夕焼けに、彼女はほんの少しだけ目を細める。
「わぁ…!」
一瞬だけ目を細めた夕夏は、初めて入った屋上の景色を見て感嘆の声を上げた。
西校舎単体の廊下の長さは120メートル。当然、その屋上が小さいはずもなく、廊下、教室を掛け合わせた大きさの屋上がそこには広がっていた。
床には赤いレンガが丁寧にはめ込まれ、見る限りではひび割れひとつ入っているものすらない。
そして周りには、高さは50センチほどの、こちらも赤いレンガで作られた花壇の中に、綺麗な花々が並べられていた。
流石は国立高校、流石は日本でも入試難易度がトップクラスと言われるだけのことはある。
誰もが行きたがるような、誰もが憧れるような光景が、そこには広がっていた。
その光景に目を奪われた夕夏は、花壇に駆け寄り、花を見つめる。きちんと水やりがされている様子で、痛んでいるものなどひとつもない、凛として咲き誇る綺麗な花々だ。
ほんの少し先を見ると、そこには校舎外側にあった東屋の小さくなったバージョン、そしてベンチが並べられていた。
まだほんの少し寒くて、屋上に行く生徒は殆どいないが、夏が近づくにつれて人の出入りも増えることだろう。
直後、学校のチャイムの音が響き渡る。これは17時を告げるチャイムの音だ。ゆっくりと立ち上がった夕夏は、危うく忘れかけていた今日ここに来た理由を思い出すと、辺りを見回した。
「いない…?」
もしかしたら、私をバカにした遊びだったりするのかな?まぁ、それならそれで全然いいんだけど。…というより、正直そっちの方が気持ちが楽でいいかもしれない。
そんな期待をした夕夏だったが、その期待はすぐに裏切られることとなった。屋上へ入る出入り口から最も離れた屋上の端。
そこに佇む人影を目にした夕夏は、心臓が締め付けられるような緊張を感じつつ、ゆっくりと近づいて行く。綺麗に整備された花々の横を過ぎ、風に乗って鼻をくすぐる甘い香りがほんの少しだけ緊張を和らげてくれる。
あと40メートルほど。そこでようやく、姿が捉えられるようになった夕夏は、忘れもしない、やはり入試の時に自分のことをバカにして来た人物だったのだと、理解する。
神宮も、足音に気づいたのか、屋上の手すりに肘をつき黄昏ていた様子だったが、ゆっくりと振り返った。
あと10メートルほどで辿り着く。
コツコツコツと夕夏の足音が屋上の床を鳴らし、彼女は神宮から数メートル離れた距離で立ち止まってから、一度会釈をした。
すると神宮は、待ってましたと言わんばかりに笑みを浮かべ、一度丁寧にお辞儀をしてみせた。
何よ、入試の時のあの態度とは大違いじゃん。私は神宮くんの態度の変わり様に、ほんの少しだけ苛立った。
聖異能力者は、怒らないとよく言われるが、そんな事はない。なにしろ、聖能力を保有しているというところ以外は、他の人間と変わらないのだから。だけど、少しは事実も混ざっている。確かに、聖異能力者の人格を集計して見たところ、九割九分の人が通常の人間よりも穏やかな性格であるということが証明されている。
あまり争いを好まないし、発言も穏やかなため、一部地域からは信仰されるほどだ。
けど喜怒哀楽がなくなったわけじゃない。私は都合のいい人間になんてなりたくない。
ムッとした夕夏に気がついていないのか、それともその表情も彼女の1つの姿と捉えているのか。ニッコリと笑みを浮かべた神宮は、口を開いた。
「よかった。来てくれたんだね、美哉坂さん。嬉しいよ」
まるでもう自分の告白が受け入れられたかのように、両手を広げて夕夏を迎え入れようとする神宮を見た夕夏は、一歩後ずさると、作り笑いを浮かべて再び会釈をした。
「はい。私、返事はきちんとしたかったので」
振るにしろ、受け入れるにしろ、結論を濁すという選択をしたくなかった夕夏は、凛とした表情で神宮の方を見る。
「あはは…照れるな。じゃあ、改めて言わせてもらうよ。美哉坂さん」
神宮は勝ち誇った笑みを浮かべていた。返事をしたいと言われたら100パーセントオッケーと言わんばかりの表情だ。
夕夏と神宮の間に、数秒の沈黙が流れる。その間に聞こえるのは、風の音だけだ。
ちょっとだけ寒いその風に身を震わせた夕夏は、深々と頭を下げた神宮を見ていた。
「美哉坂夕夏さん。俺と付き合おう。君は僕にこそ相応しい」
その光景をじっと見つめる夕夏。漫画でしか見たことのなかったその光景。見ている分は胸がキュンキュンとして、ベッドの上で足をバタバタさせたり、何度も転がりながらきゃーきゃー言っていた。男が振られた時は、何で付き合わないのこの主人公は!男の人が可哀想よ!などと思っていたが、今はひたすら無であった。
きっと、漫画や小説の主人公たちも、今の私と同じ気持ちなんだ。自分の好きでもない人に告白されても、あまり何も感じなかった。何も心に響かなかった。そもそも、僕にこそ相応しいって何よ。それじゃあ私、まるで道具みたいじゃん。
初めて告白された時は、すごく甘くてまるでチョコレートみたいだった、なーんて聞いたことがあったが、それが嘘であることが証明された瞬間でもあった。
手を伸ばした神宮を見ていた夕夏は、ほんの少しだけ申し訳ない気持ちになりながら一度頭を下げた。まぁ、頭を下げている神宮からすれば、夕夏の謝罪など見えていないのだろうが。
頭を上げずにお辞儀をして手を伸ばす黒髪の男子を見た夕夏は、思い切って口を開いた。
「ごめんなさい。神宮くんとは付き合えないです」
「え?」
夕夏の返事を書いて、神宮は情けない声をあげながら顔を上げた。彼の黒い瞳には、驚きを隠せないといった感情が丸見えだ。先ほどまでの余裕のあった表情は一瞬にして崩れ去り、焦った様子で話し始める。
「ど、どうして?だってほら、俺って普通にカッコイイし…そうか、遠慮してるんだよな?安心してくれよ、俺が彼氏になったら、嫉妬する女なんて全員ボコボコにしてやるから」
遠慮なんてしていないんだけど。心の中でそう呟く夕夏。そもそも、女をボコボコにするって、そんな酷いことを告白中に平気で言えるような男となんて付き合いたくない。それが夕夏の本音だ。
「神宮くん。貴方、入試の時に私に言った言葉覚えてるかな?私は少なくとも、あんなことを言う人とは付き合えません。だからごめんなさい」
そう言って夕夏はもう一度頭を下げて、そのあと回れ右をしてから、その場から去ろうとする。
「ま、待ってくれ!可笑しいだろ!そんな小さなことを根に持ってるのか?そのくらいのこと水に流せよ!」
去り際の夕夏を見ていた神宮は、背後から夕夏の肩を掴むと、強引に振り向かせる。
彼女の表情が痛みで歪んだことなど無視して、自分の意見を押し通すように。
「離してください!神宮くんと話すことはもうありません!何を言われても付き合いません!」
「っ!ちょっと顔がいいからって気にかけてやったのに…!なんだよその態度!こっちが下手に出てやったら調子に乗りやがって!前総帥の娘?レベル10?笑わせんなよ、そんな肩書きだけ並べたようなメスは男の横でヘコヘコとケツ振ってる方がお似合いなんだよ!くたばれブス!」
「っ…!さようなら。もう二度と話しかけないでください」
手のひらを返したように、暴言を吐き始めた神宮。夕夏が唇を強く噛み締めると、ほんの少しだけ唇から血が流れ始める。
「俺を振ったこと。絶対に後悔させてやるからな…覚えとけよ美哉坂」
去り際に放たれたセリフ。夕夏は返事もせずに、その場から駆け出した。瞳には涙を溜め、唇を噛み締めながら。
思ってたのと全然違った。あんなに見下されてるとは思わなかった。あんな風に思われてるとは知らなかった。初めてだったのに。人生で初めてされた告白だったのに…!
想像もしていなかった暴言を吐かれた夕夏は、限界がきたのか涙を流しながら階段を下っていく。涙で視界が狭まっていた夕夏は、階段を登ってきた男子生徒に気づかずに、激突する。
「ご、ごめんなさ」
「美哉坂」
泣いている夕夏の背中を持ち、倒れそうになった彼女を支えてあげる。
女の子ってこんなに軽いんだ。そんな感想が頭によぎった悠馬だったが、彼女が涙を流していた為に、自分が余計なことを言ってしまったせいで取り返しのつかないことになったんじゃないかと、バツの悪そうな表情をした。
「どうして…暁くんが」
夕夏からすれば、訳がわからなかった。あの時アドバイスをしてくれた悠馬はすでに帰っていたと思っていたから、なぜこの場にいるのかがわからない。理由がない。
「あー…っと。美哉坂カバン忘れてたからさ。ほら、持ってきたんだよ。鏡花先生から教室の鍵閉めるって言われてさ。それとごめん。俺のアドバイス、役に立たなかったみたいで」
夕夏のバッグを見せた悠馬は、彼女にそれを受け取らせると、背中に回していた手を解き、一緒に階段を降りながら会話を始めた。
あれだけ頼りにしてくれた夕夏に、間違ったアドバイスをして泣かせてしまったと思っているのだ。
実際は悠馬の不手際ではなく、神宮の自己中っぷりが招いた事態なのだが、それを知らない悠馬は罪悪感で押し潰されそうになる。
「ううん。暁くんのせいじゃないの。相手の性格が凄く悪くて…断ったら悪口言われたの」
「そ、そっか。酷い奴も居るな」
当然といえば当然の結果なのかもしれない。この島の国立高校に通っている生徒たちの中で、世界が自分を中心に回って居ると思い込んで居る生徒は少なくない。何しろ、小中と自分の思い通りになってきた生徒が多いのだ。それが高校に入ったら突然、周りが同レベルかそれ以上が殆どで、自分の思い通りに行かなくなる。八つ当たりをされるのも当然だった。
「そうだ、今日は俺がご飯作るよ!いつも美哉坂にばっかり作らせるのは悪いしな!」
「暁くんご飯作れるの?」
「うっ…米は炊ける…かな」
凹んで居る夕夏を励まそうと名案を思い浮かべた悠馬だったが、それは夕夏の質問により一蹴された。
「あはは、無理に気を使わなくてもいいよ。こうして誰かに話せたから、少し気が楽になったかも。今日はいつもより頑張って作るから!期待してて!」
「え?わかった。じゃあめっちゃ期待しとく」
「そ、そんなに期待されるとハードル上がるからやめてください」
悠馬が期待の眼差しを向けると、夕夏は恥ずかしそうに顔をうつ向け、ゴニョゴニョと呟いた。
うん、私はこれで良かったんだ。
悠馬と笑い合いながら昇降口へとたどり着いた悠馬は、ほんの少し苦い初体験を思い出しながら、心の中でそう呟いた。
だって今の私は、こんなにも幸せな気持ちになってるんだから。




