大学の凋落
またまた話を戻して、「負けの美学」というと、なんといっても『平家物語』を措いて敗者の美を描き切った古典文学はほかにないだろう。源氏の勝利を持って新時代の幕開けとみなす「カシコい」日本史観はつまらない。華麗に散りゆく平家の公達たちのあわれを味わうところに源平の盛衰物語の本質がある。敦盛の最期と戦の空しさに出家する熊谷次郎直実。壇ノ浦における知盛の「見るべきものは見つ」という栄枯盛衰をしみじみ感じさせる言葉。最後、我が子安徳天皇を含む平家一門すべてを喪い、『灌頂巻』で自らを語る様は、無という仏教的極地と簡素を極めた美が融合した優れたものとなっている。希代の棋士が「凡局」とする先ほどの述べた「南禅寺の決戦」の端歩突きも関西出身の作家織田作之助は、新聞で読んで知ったときに「阪田はやったぞ。阪田はやったぞ」とつぶやき、喜んだという。勝ち負けを離れると違った見方もできるわけだ。
さて、何かと「勝とう」「勝とう」という昔ながらの人の心であるが、そんなに勝つことは大事なのだろうか?最近のニュースで、元マイクロソフト社長ビル・ゲイツ、投資家ウォーレン・バフェット、Amazon社長ジェフ・ペゾスの3人の資産が、アメリカ合衆国の下位半分の総資産を上回ったという記事が載った。もはや、働かなくても一生遊んで暮らせるだけの資産を持つ人は世に一定数居る。あくせくと働く「グローバルエリート」が本当に「エリート」なのかは妙に怪しい。そこそこに働いて、あとは好きなことをして、市民としての役割も果たし、善い人生を送りたいものだなとおもう。そのためには勝ち続けるのは土台無理な話であるし、勝とう、勝とうが過ぎるのは愚かである。
わざわざに負ける必要もないだろうが、勝つことだけにこだわるのは木村義雄のように空しい。人間必要以上の勝利を得ようとするは所詮貪り。中庸を最上とし、「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」というのは真に優れた処世訓ではないか?
だから、アホの効用を忘れた最近の京大の凋落は著しい。私が院生になって数年たって、けしからぬことが起きる。なんと、学生が講義に出席し始めたのだ。1995年刊『AERAムック 社会学が分かる』にはきちんと以下のように書かれている。とある他大学から教えに来られている方ではあったが「私が担当している、文化人類学ゼミナールⅢには3000人が登録しています」。これが京大流であったのだ。だが、今もって不思議なのだが、AERAの方も「ゼミに3000人」に違和感を覚えなかったのだろうか?京大というのは、というより大学というのはえてして不思議な見られ方をするところである。本当の理由は「単位取得条件:レポート2枚程度」だったのだが。
かほどに大学に来ない、というより、狭い建築になっているので、来たくても収容できない大学に来てなにをしようというのか。自閉症スペクトラムの私には理解不能である。
最近では、この「病気」がさらに進んでいるようで、友人の教員に話を聞いてみると、みんな真面目にやるようになっていて、教員は、雑多な仕事に追われているので、研究をするヒマがないという。入学直後、あまりの講義の手抜きぶりに感動し、「教員はこうやって研究をする時間を取っているのか。さすが京大は違うなー」と、真実を一部だけ含む勘違いをしていた私としては驚くよりほかない。
こんなことをしていては、京大の足を引っ張っていた--もとい、京大の原動力であった、京大リビドーとさえいえる「アホぢから」が無くなってしまうではないか。THEの大学ランキングなどクソくらえ、とも思うが、ためしにのぞいてみると、やっぱり見事な下降ぶりである。まあ、下がったというより、財界人や自民党、経産省や財務省の横やりを受けた弱小文科省当たりが下げたのだから、下がったのだろう。予定調和的である。「アホの美学」「負けの美学」を忘れた代償は重い。