阪田三吉
以上のような、アホを大切にする精神は何も京大に限った事ではないのかもしれない。代表的な関西人は結構アホ――これまた中島らもによると「アホ」は関西人にとって「ユーモアがある」「憎めないやつ」といったホメ言葉であるという。私も首肯するところである――なことをして、それが愛されるということがあるからだ。
関西で愛されている人の代表として棋士・阪田三吉が挙げられる。彼の「アホ」は何といっても、当時大阪最強の棋士・阪田三吉対14世名人木村義男との「南禅寺の決戦」であろう。先手の木村が、初手「▲7六歩」と角道を開けると、阪田は驚いたことに「2手目△9四歩」と、飛車の右上の歩を前に進めたのである。もちろん飛車は前後左右にしか進めない。いったいこの手にどんな意味があるのか?鈴木 宏彦『イメージと読みの将棋観』日本将棋連盟刊、では、羽生善治、谷川浩司、渡辺明、佐藤康光、森内俊之、藤井猛といった錚々たる棋士たちが解説を試みているが、これと言って結論は出ていない。結局のところ、この端歩の謎はいまだに解けていないのである。もっともこの手が非常に非合理な手であることは確かで、この対局はあまり優れてはいないと言われており、木村名人の勝ちで終わる。
ただ、私の考えでは、阪田の「理解不能な一手」は実に関西人らしい行動形態のように思われる。つまり「訳が分からないし、とにかく負けてしまうのだが、おもろい」のだ。この「2手目△9四歩」が「アホ」の神髄だ。だから、今になっても、将棋界の天才たちがこの手の分析を試みて、きちんと記事になっているのである。それに対して、木村義雄の方は私の見るところでは不人気なように見える。手近にいる古老代表たるオレの親父に「阪田三吉と木村義雄どっちが有名かねえ?」と聞いたら「木村義雄って誰だ?」という驚愕の答えが返ってきた。私は、子供の頃よく親父と将棋を指していたし、親父は阪田三吉はもちろん大山康晴や中原誠、舛田幸三も知っている。決して将棋に無知なのではない。だが、木村義雄は知らないのである。坂口安吾は、将棋の対局に文章を寄せて、「彼(木村)は十年不敗の名人であり、大成会の統領で、名実ともに一人ぬきんでた棋界の名士で、常に東奔西走、多忙であつた。明日の対局に今夜つくはおろかなこと、夜行でその朝大阪へついて対局し、すぐ又所用で東へ走り西へ廻るといふ忙しさであつた」と木村を形容していたという。現に木村も定跡の研究に力を尽くし、彼の信条は「勝ち将棋を勝て」だった。ちなみに、木村は今の慶応義塾大学を卒業していて高学歴なのも特徴である。
だが、それにしても、私が木村を知っているのに親父が知らないというのは面白い。私としては、「そういうこともあるな」という気がする。今でも通天閣の下は将棋屋が繁盛していて将棋を指す人でにぎわっているし、彼を顕彰した王将碑も著名。「通天閣将棋まつり」では、通天閣本通りで「世界一ながーい!大縁台将棋大会」が開催されている。現に、多くの人が上手も下手もなく、老人から小学生まで将棋を指しているのである。
この差はどこから来るのだろうか?意外な人が答えを出していると私は思う。升田幸三はその著書『名人に香を引いた男』中公文庫の中で、プロになって初めて勝ったときに母にその勝利を報告したところ、舛田の母は、
「負けた人が気の毒やねえ」
と一言返したという。そうなのだ、勝つ者がいれば、負ける者がいる。当たり前ではないか。世人、何かと勝ちたがるものだ。「さあ、やるぞ、必ず勝つ」などというたわけた文句が新聞に載ることがあるが、壮絶な勘違いをしていないか?そもそも負ける者もあるとして居るからこそ勝利に勝ちがある。あらかじめ必ず勝つとわかっているなら、それを勝負と認識すること自体不可能である。
ちなみに、私が『名人に香を引いた男』を読んでみようと思ったのは、一度だけ酒席を共にしたことのある亀本洋現明治大学教授(当時は京大教授)がHPで「学生におすすめの本」ということで、読んでみようと思ったからである。「変な本を紹介するなア」とは思った。何しろ香は後ろに行けないし、思いっきり趣味の本である。だが、このような本から思いもよらぬことを学ぶものだから、これこそムダの効用といったわけで、京大吉田寮の会議と通底するものがないか?亀本先生にも少々「アホ」の要素が入っているように見えるし(断わっておくが、先生は法哲学者としては優れた業績を上げている)、升田の「香を引く」という表現も「アホ」成分が多い。香はまっすぐ前にしか行けないではないか。
勝負事の話に戻る。そもそも負けがあるから価値があるのだから、負けることの大切さを本当の勝負師は知っていたし、「絶対勝つ」の野蛮も知っていた。麻雀文学で有名な阿佐田哲也は様々なギャンブルから得た人生観を相撲の星取りに例えて「9勝6敗を狙え。8勝7敗では寂しい。10勝を狙うと無理がでる」と言っていたという。最低限勝ち越せてプラスアルファがあれば十分なのだ。