第33話 モビレア領軍衛生兵科長
第06節 聖女から天使へ〔1/6〕
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日付は少々遡る。
彼女が結婚した時。彼女は彼らに大きな影響を受けていたことに、気付かざるを得なかった。
彼女、ベルダは。モビレア領軍の領兵隊長と結婚した。元娼婦、というその経歴を気にせずに、ベルダを選んでくれた人だった。
けれど、いざ結婚。そうなったときに、いきなり破局の危機が訪れた。
ベルダは、新居に風呂が欲しいと言った。モビレアでは、毎日風呂に入るのは王侯貴族だけ、であるにもかかわらず、だ。
領兵隊長は、だからベルダを「貴族趣味」と非難した。特に彼は現場の人間だった為、行軍中は濡れタオルで身を清めることさえ出来ない環境が、数日間続いても当たり前だという生活をしている。だから平時でも、その身が埃塗れでも気にならない。
そんな彼にとって、元娼婦のベルダが、夜の営みに際してもまず風呂で身を清めることを求めるのは、ただの「貴族プレイ」でしかないと思っていた。これからの結婚生活、これからの日常で、少なくない費用をかけて、毎日そんな「プレイ」の相手をしなければならないというのなら。ベルダとの結婚も考え直す必要がある。そこまで思い詰めていたのだった。
もっとも、この問題は。彼のその後の任地が、温泉街であるウィルマーになったことで解決された。ウィルマーでは普通に公衆浴場があるし、中流以上の家庭には、源泉を引いて、沸かすのではなくむしろ冷水で適温に冷ます形の風呂場を持つのは、普通のことだったからだ。
軍宿舎にも、そういう自家用温泉が作られた。だから自宅で毎日風呂に入るという生活をするようになってからは、領兵隊長も清潔さに起因する快適さを自覚出来るようになり、配下の兵たちにも毎日の入浴を勧めるようになっていった。
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ベルダは、あの六人と行動を共にしていた間。
ミナとシズに、徹底的に叩き込まれたことがある。
それは、衛生管理と食事の栄養管理についてだった。
衛生管理は、自分の身体と生活環境の両方。この地方では、空気が乾いているから、むしろ床や壁を湿らせ、付着している埃を浮かせて拭うことを徹底させられた。
この埃の中に、病気の元凶になる毒(「細菌」、というらしい)があると言われたのだ。「人間、ある程度までなら耐えられるけど、その所為で他の〝毒〟に対する耐性が落ちて、結局病気になっちゃうかもしれないから。掃除するだけで予防出来る病気、掃除するだけで始末出来る〝毒〟があるんなら、掃除しちゃえばいいんだよ?」とはミナの弁。
また、人間の体液は、汗も唾も、血も小便も、精液も膣液も、〝毒〟になる、って言っていた。厳密には、人間の体液は栄養豊富だから、空気中の〝毒〟が繁殖するのに最適な環境になるって。だから、外気に触れていなければ問題はないけど、外気に触れた体液は、間違っても体に入れてはいけない。それは〝毒〟を取り込むことになるから、って。
でもこれに関しては、ベルダは反論した。「では男と〝行為〟をするということは、女にとって毒を取り込むという事なのか」、と。ところが、シズはそれに「そうだ」と肯定した。不潔な男性器は〝毒〟を纏っているものだし、精液それ自体は〝毒〟とは言わないが、外気に触れ雑菌を宿したそれは、〝毒〟になる、と。
外気に触れることなく射精された精液ならいざ知らず、外気に触れて雑菌を宿した精液を膣内に受け入れてしまうと、女の性器内で〝毒〟が繁殖してしまい、結果病気になる危険もあるのだとか。ましてや懐妊するタイミングで、或いは妊娠中に病気になる場合、最悪母体のみならず胎児も病気の影響を受ける。それは、ベルダの望むことではないでしょう? と、懇々と説教された。
このミナとシズの教えに従って、軍宿舎も徹底的に掃除した。兵士の細君や姉妹に声をかけ、宿舎を掃除し、衣服や寝具を洗濯し、また傷病兵が収容される看護施設も清潔を心掛けた。「血が毒になる」というシズの教えを前提に考えると、あちらこちらに血が飛び散る看護施設は、毒の中と言えるから。
更に、夫である隊長を経由して将軍に具申して、兵同士の衆道を軍紀で禁じた。人体で最も〝毒〟の多い菊門に、人体で最も繊細な性器を入れる。ミナとシズから学んだ知識を前提に考えれば、それは自殺行為に他ならないから。
ただ、衆道を禁じる代償として。昔の娼婦仲間に声をかけ、彼女らに兵の相手をしてもらうことをお願いした。但し、行為前に身を清めることを厳命したけど。
娼婦が、行為前に身を清める。これは、娼婦たちにとっても意外な効果を発揮した。
これまでは、一晩で十人・二十人の相手をすることもあった街娼が、行為前に身を清めるということは。一晩に、多くても5人程度しか相手が出来ないということになる。けどその分濃厚なサービスを実施出来(身を清める為の水浴びもプレイの一環として、男と一緒にすることもあった)、結果街娼時代より少ない客数で実入りは増えたのだった。
そして、食事の栄養について。
「柑橘類を定期的に摂取すると、船乗りは壊血病に罹らない」。これは、陸で生活するベルダたちにも、一般教養的な知識として知られている。けれどこれは、船乗りだけの問題じゃないってことを、シズから学んだ。例えば、大規模迷宮を探索する、冒険者。或いは、長距離を遠征する、兵士。
一般的な下級兵に対する糧食は、芋を蒸してから干したり、穀物を砕いて粉にしたものを水で練り固めて焼いたりしたものだ。けど、それだけだと病気になる。肉と穀物と野菜と果物。そして塩と糖分。これらをバランスよく摂取することで、むしろ病気に対しても耐性を持ちうるのだ、と。
ベルダは結婚後、夫の指揮する軍を視察して、それが事実だと理解した。穀物だけの糧食をしか与えられない下級兵は顔色も悪くまた体格も弱々しい。糧食に肉が付く上級兵は、しっかりした体格を持つ。そして糧食に果物が付く指揮官や騎士たちは、顔色が良い。なら、下級兵に至るまで、栄養バランスを考えた糧食を提供すれば、精強な軍隊になるのではないだろうか?
とはいえ、肉や果物は、値が張る。万単位の兵たち全員に、毎食提供することを考えたら、どれだけコストが嵩むかわからない。また行軍中は、その輸送コストも考えなければならない。
なら、必要最小限度の摂取量を計算し、且つ毎食ではなく日によって、時間によって摂取する栄養素を変えることで、トータルのバランスを保つことを考えた。これは簡単なことではなかったけれど、例えばクズ野菜や骨ガラなどを長時間煮込んでブイヨンを作り、これを更に煮詰めたものを現地で希釈してスープにする、などの工夫を行った。それは無味乾燥な戦闘糧食にバリエーションが出来るということで、兵たちからは好評だった。もっとも、それでもコストが嵩むことには変わりないので、「隊長」からはあまりいい顔をされなかったが。
そんな折。モビレア領軍は、アルバニーへの出兵が命じられ、ベルダは娼婦と掃除婦・飯炊き女で組織された「衛生兵科」を指揮して軍に同行することになったのだった。
(2,850文字:2019/03/07初稿 2020/01/31投稿予約 2020/03/05 03:00掲載予定ですが、なろうシステムメンテナンスの影響で何時になるか不明)
【注:「ウィルス」と「細菌」そして「真菌」は別物です。が、微生物に対する知識のないこの世界で区別すること自体意味がない為、総称しています。いずれ顕微鏡が普及し、病理学や微生物学が生まれたら、自然に分化されるでしょう】
・ 「兵長」ではなく「兵科長」なところがミソ。ベルダさんはもう、剣を持ちません。
・ 衆道の禁止は、髙月美奈さんや松村雫さんに教わったことではなく、教わった知識からベルダさんが独自に結論付けた事です。
・ ベルダさんは娼婦を軍に編入させるにあたって、ベルダさん自身が娼館主として娼館主ギルドに登録する形で筋を通しています。
・ 娼婦と領兵の縁戚で構成される軍属娼婦は、他の街娼や通常の娼館付きの娼婦と区分する為に「衛生科慰安部所属娼婦」(略して「衛生科慰安婦」或いは単に「慰安婦」)と称されています。一般の街娼のように、客が取れなかったり代金を踏み倒されたりする恐れもなく、収入はほぼ一定なうえに、顧客も固定されている為暴力や病気のリスクも(一般の街娼より)低いことから、希望者(未経験者含む)も少なくなかったようです。但し、二年以上その立場にいる者は滅多におらず、ほとんどは一年以内に領兵と結婚して衛生科看護部に転属するようになったとか。けれど意外に良好な結婚相手が見つけられるというのも、志願者が多い理由だと謂われています。
・ 衛生兵科に所属する慰安婦は、事実上の固定給(日給制・ノルマあり)。なら、数を熟すより、予約のあった兵の全員を悦ばせるサービスの方が、彼女らにとっての負担は小さく、また利用する領兵の満足度は高くなるでしょう。
・ ベルダさんの夫の「領兵隊長」は、正しくは中隊長。つまり、叙爵されていません。
・ この夫婦。現時点では、お世辞にも上手くいっているとは言えません。旦那は女房の軍に対する口出し(しかも予算を割かなければいけないものばかり)を苦々しく思っておりますし、女房は旦那のことよりも部隊の待遇改善に気持ちが傾いていますし。しかも奥方の希望を領主様や王子様が気軽に認めてしまっている分(奥方の前職時に培った信用――ミナとシズから直接教えを享けたという立場――ゆえ)、旦那は余計に面白くないのです。
・ 肉が高価なら、屑肉まで使えばいいじゃない。今までは捨てていた臓物も、手の入れ方次第で美味しくなることは『エトの峠の戦い』の後の宴会でミナが証明してくれました。骨とそれにこびり付いたくず肉だって、灰汁取りしながら骨が砕けるくらいドロドロに煮込めば栄養として摂取出来ますから。
・ 「長時間煮込む」のには、薪より炭の方が適しています。炭の製法は、かつては鍛冶師ギルドの秘儀でしたが、既にそれは解除されています。と言っても積極的にそれを公開しようとする鍛冶師(炭焼き職人)はいなかったので、あまり普及していませんでしたが、ウィルマーの町では普通に炭焼き窯が普及しており、一般市民も廉価でそれを購入出来るようになっています。
・ この世界に於ける、「フリーズドライ食品」の開発者は、公的にはベルダさんです。ドレイク王国の軍事糧食ではそれが使用されていましたが、その技術は公開されていませんでした。技術(魔法技術)的には難しいものがありましたが、彼女には魔法学に関して世界最先端の知識を有するアドバイザーが知人にいましたから。……何気に気化冷却に基づく〔冷凍魔法〕を習得している?
・ 小骨を焼いて砕いて味付けて、サラダに振り掛けたりスープに入れたりする「ふりかけ」。廉価且つ簡便な栄養補給法として、これもベルダさんが糧食に導入しました。粗食にバリエーションが付くということもあり、あっという間に民間でもブームとなり、子供たちに食べさせる親が増えたとか。
・ この後、スイザリアの一般家庭の常識となる「お残し禁止」は、ここから生まれました。ベルダが必要栄養素を計算して配膳する給食に対し、好き嫌いを言って食べないでいたら、必要栄養素を摂取出来なくなるから。ちなみに貴族は「残すのが礼儀」(完食すると、「もしかしたら足りなかったかも」とホストに思われる――足りない、すなわち「充分な量の食事を提供出来ないほど貧相である」という評価――を避ける為)です。




