第33話 伝統と歴史
第07節 兄さんが遺したモノ〔4/4〕
◇◆◇ 雫 ◆◇◆
三百年と七百年で一千年。想像を絶する歴史だ。
あたしの家も、江戸時代から造り酒屋を始めているけれど、天保年間の創業だから、まだ200年も経っていない。そして酒造りは、意外に思われるかもしれないけれど、自動車メーカーと同じで「最新が最高」だ。伝統は墨守すべきだけどこだわってはならない。昔と同じやり方では、昔の酒を超える事が出来ないから。
だから、歴史の浅い醸造所でも、老舗の酒蔵より良い酒を造るなんてザラにある。伝統ある味を守ることと、より高みを目指すこと。老舗と呼ばれる酒蔵が、新参の酒屋に勝るのは、ただこの点を両立出来るという一事のみなのだから。
そしてこの、銀渓苑。
日本文化とスイザリアの文化が、違和感なく和合している。それが凄い。
多分、創成期には権力による強制もあったのだろう。シロー・ウィルマーと言えば、当時の最高権力者の一人なのだから。
だけど、その後妥協と変化を繰り返し、変わるべきモノを変え、受け入れられないモノを排除し、でも残せるモノを残した結果が、七百年後の今の姿という訳だ。後世の人間が「残したい」と思った精髄。それが、柏木から見て寛永年間から伝わる、銀渓苑の〝精髄〟そのものだというのは、確かに柏木にしか理解出来ない感動だろう。
あたしらにとっても。
この、異郷・異世界でしかないこの地にあって、懐かしささえ心に抱けるこの宿は、「感動」という言葉では言い表せない。
あぁ、そうか。
だから、〝魔王〟は、この宿の更に最上の部屋であるこの『銀渓庵』を、通年借り切ったんだ。既にこの世界の人間として生まれ転わっている〝魔王〟をして、郷愁に浸る場所として。
◇◆◇ ◆◇◆
最高の湯、最高の食事、最高のサービス。
さすがに風呂は混浴する気にはなれず、男子は内湯に放り込んだけど。でも朝湯は男子と入れ替えで、男子が露天、女子が内湯に入ったけど。でもまさか、こんな優雅な一日をこの世界で過ごせるなんて思わなかった。
お湯を、どうにかして〔倉庫〕に持って行ければ中でも温泉に入れるかも? とも思ったけど、やっぱり温泉はかけ流しが最高。それに、また銀渓苑に来たらこの湯を堪能出来るんだから、それで充分。
ソニアさんは、温泉の作法を知っていた。聞くと、魔王国には普通に公衆浴場があるのだそうだ。また、温泉地も各地にあり、だけど銀渓苑ほどサービスが充実している施設はないそうで、風呂そのものより食事やその他のサービスの方が目新しかったというのが本音みたい。
エリスは、全てが吃驚の連続で、むしろあたしたちが反省した。エリスには、色々なことを体験させてあげなきゃいけなかったんだ。食事も風呂も、人との交流も。今後はたくさん、色々なことを体験させよう。
そして朝、あたしたちは出発する。
「有り難うございました。この世界に来て、こんな素敵な思い出を作る事が出来るなんて、思ってもみませんでした」
「こちらこそ、有り難うございます。皆様のご指導で、当館の歩んで来た道が間違いではなかったということがわかりました。これからも精進させていただきます」
女将さんが、あたしたちに頭を下げた。
ここの人たちの所作は、やはり日本の礼法から派生した作法。だけど、柏木自身がそうであったように、その意味の多くは既に失伝していた。あたしがやったのは、僭越ながらその意味を伝えることだけ。けれど当然、変わっていったモノの中には「ここではその方が良い」と思えるものも少なくなかった。
七百年。この世界の文明は二十一世紀の日本より数百年遅れているはずなのに、ここの文化は二十八世紀の日本。異文化に曝されて変わって行った、その結果。あたしとて伝統を承継することを期待される家に育った身。〝未来〟を学ぶことは自分にとっても益になる。
「ですが、カシワギ様。一つ謝罪しなければならないことがあります。
この銀渓苑には、始祖シローさまが遺したものがありました。あの掛け軸もそうですが、シローさまがお使いになった鞄に〔状態保存〕の魔法をかけて、この時代まで保管されていたのです。
けれど、今。あの鞄はここにはありません。
カシワギ様と同じく、彼の世界からの来訪者でいらっしゃった、ドレイク王アドルフさま。あの方に、鞄をお渡ししてしまっております。シローさまの手記と共に」
「そうですか、わかりました。ならもしかしたら、アドルフ陛下の偉業を陰で支えたのは、史郎兄さんの鞄の中身だったのかもしれませんね」
入間史郎の鞄。確かに、〝魔王〟アドルフが転生者なら、異世界の遺物を持っているはずがない。けど、「記憶」ではなく「記録」や「資料」に頼ったと思えるものが、彼の国の文化には多くある。だとしたら、その源泉は、史郎氏の鞄だったのかもしれない。
「でも、手記には興味があります。
いずれ、陛下にお会いする日が来たら、是非一度読ませていただけるようお願いしてみるつもりです。その存在を教えてくださって、有り難うございます」
柏木は、女将に感謝の言葉を告げ、女将の謝罪を聞き流した。当然だ。女将の立場からして、転生者アドルフと監査役カシワギが同時代に銀渓苑にやって来るなんて、想像出来なかっただろうから。それは責めることでも謝罪されることでもない。
そして、あたしたちの目的も、〝転生者アドルフ〟に会いに行くことである以上、その時交渉すれば良いだけのことだし。
◇◆◇ ◆◇◆
あたしたちは、この町(入間氏の名を取って、「ウィルマー」というのだそうだ)から北のカラン王国(南東ベルナンド地方)に至る林道を女将に教えてもらい、そちらに歩を進めた。この道は、その先にあった猫獣人の集落に続いているのだそうだ。とはいえその集落は10年以上前、『フェルマール戦争』の後に離散し、今では廃墟となっているという。
言い換えると。10年以上も人が通わぬ獣道。もう足跡も残っていない。
だから事実上、以前のベスタ山脈横断と同じ苦労を強いられることになる。とは言っても、あの時はマキア王党派に追い立てられていたけれど、今回はあたしらを追う者はいない。そう考えると、ちょっとしたピクニック気分だ。勿論、小鬼の伏兵は警戒する必要があるけれど。
そして、進んで行ったその先に、廃墟となった集落が見えた。ここがおそらく、かつて猫獣人が暮らしていた集落なんだろう。おそらくは、フェルマール王国との交易で糧を得ていた猫獣人たちは、王国の崩壊と共に新体制から取り残されて、商人たちの往来もなくなり、結果生きる為に町に下りて行ったに違いない。
そんな廃墟となった集落の真ん中に、一体の大鬼が仁王立ちしていた。
あぁそうか、つまり、「裏口の門番」、という事か。
(2,909文字:2018/02/28初稿 2018/09/30投稿予約 2018/11/27 03:00掲載予定)
【注:「最新が最高」は、ドイツの自動車メーカー「ポルシェ社」の創業者の言葉(正しくは「最新のポルシェが最高のポルシェ」)であり、同社のキャッチフレーズになっているそうです】
・ 念の為。この世界(東大陸西部と西大陸)の作法に、「立礼する」(立ったまま頭を下げる)という所作はありません。だから、西大陸で「女使用人に対して頭を下げた」(第一章)ら変に思われたのです。




