第16話 道と術
第04節 Cランクの日常〔2/4〕
◇◆◇ 雫 ◆◇◆
最近の、あたしたちの日常は、だいたいこんな感じ。
朝6時、起床。
以前は〔倉庫〕で寝起きして、外界では24時間活動していたけれど、宿『青い鈴』の居心地が良い所為か、或いは盗聴だのを気にしないで良い所為か、宿で布団を敷いて寝起きしている。今のあたしたちの収入なら、全員個室でも大丈夫だけど、何となく貸し切り・一部屋で過ごしている。勿論エリスちゃんも一緒だ。毎晩飯塚の布団に潜り込みたがるエリスちゃんを、あたしと美奈の二人で食い止めるのが、既に日課。なおそれでも3日に1日は、朝起きたら飯塚の布団の中にいるが。
朝7時、美奈が作ったサンドイッチ系の朝食を食べ、鍛錬。
ソニアさんは朝食作りに協力したいみたいだけど、宿の厨房を借りる事が出来ないので、〔倉庫〕内で調理する関係上、美奈の独擅場。あたしでさえ手を出せない。
そしてその鍛錬は、「杖道」の基礎。これまでは、それぞれの武具に合わせて「戦槌の使い方」だとか「槍の使い方」だとかを修練していたけど、ここは基本に立ち返り、杖道。
杖道、その元となる杖術は、「刀が折れた」・「(槍や薙刀の)穂先が砕けた」・「(弓の)弦が切れた」などという状況下で、なお戦闘力を維持し続ける為に編み出された武術だ。その為日本の武芸の全てに共通する、或いはその基礎となる技術がそこにある。またそういった術理であることから、他の流派・異なる武具との対戦を前提に型が組み立てられている。結果、道具を使わないはずの武道である柔道や空手道、合気道でありながら、杖道の業とその対処法を取り込んでいる流派も少なくない。
そして、「武道」。実際に武道を嗜んでいない、或いはちょっと齧った程度の武芸者が、「近代武道と古流武術、どちらが強いか?」などという議論をすることがあるという。「近代武道の方が強い」と主張する人は「数百年の研鑽を重ねた武道の方が強いに決まっている。古流が強いというのは、単なる懐古主義」と言い、「古流武術の方が強い」というのは、「ルールで安全が約束された近代武道など、ただのお遊戯。死線の上で刃を交える緊張感の中から生き残った古流武術は、無敵だ」と言う。
だけど、どちらも精神論。「打たれても死ぬことがないから己の未熟を学べ、更に研鑽を積むことが出来る」近代武道の精神を以て練習し、「死線の上で刃を交える」古流武術の緊張感で実戦に向かえば、それが最強という事だろう。だからあたしは、敢えて「武道」を皆に指導する。
ただ殴るだけなら、誰でも出来る。けど、型に沿って武具を振り下ろすのは、鍛錬しなければ出来ない。そして、型を身に着ければ、それにこだわらない打ち込みも出来るようになる。
型を学べば、型通り打ち込むのは条件反射で出来るが、型を学ばなければ、型に似通った打ち込みはただの偶然という事になる。そして型とは、力のベクトルと質量移動の慣性を最適化された動きという事が出来る。型通り打ち込めるのなら、それが最強なのだ。
だから、「道」を教える。「道」を知る者が「術」を使うのは簡単だけど、「術」しか知らない者が「道」を見出すことは出来ないから。
ソニアさんは、「杖術」として業を学んでいた。けど、その根源は「杖道」。だから、その違いに関しても、砂が水を吸うが如くどんどん吸収していった。
他の武道より、「杖道」と「杖術」の違いは思想に拠る。「殺傷することが目的なら刃があった方が良い。にもかかわらず、刃無き杖で戦う意味は、どこにある?」その答えは、哲学に帰着するのだから。
9時。鍛錬が終わったら、ギルドへ。
銅札の依頼は、請けられるものが限定されている。けど、鉄札や木札のクエストは変わらず請けられる。また受件出来るクエストが制限されている代償として、5日ごとに「約定依頼報酬」を受け取れる。はっきり言って何もしないでも貰えるおカネだから、有難味はないけど美味しい。
勿論、依頼がない訳でもない。ある時に、スイザリア・リングダッド・アザリア三国の国境付近で水害が発生し、甚大な被害が生じる事件が起こった。その時はあたしらに出動命令が下り、現場に行って支援物資の提供を行った。
その際、復興事業にあたしらの〔倉庫〕に放置されていた攻城櫓を活用することも出来、また商人ギルドが用意した支援物資では足りなかったので、マキア出征時に〔倉庫〕に備蓄した兵糧等も放出した。
これらに関しては、隠し持っていたことを窘められるかと思ったけど、「死者の持ち物を受け継ぐのは冒険者のマナー」という考え方から、お咎めはなく、むしろあたしらの所有していた物資の放出及びレンタルに関しては、適価で報酬に上乗せされた。
銅札のクエストを受注出来ない場合は、鉄札や木札のクエストを受注する。それが町中で完結する場合は、この時点でパーティは解散となり、それぞれの依頼主の許に向かう。
そして午後。
何故か、あたしたちは「通商貴族」と謂われるスカルパ男爵夫人の下で、礼儀作法を学ぶことになった。
これは、ギルマスと貴族との関係改善策の一環であり、またあたしたちの銀札昇格の為の必須教養なのだという。
「あたしらはまだ銅札に昇格したばかりだ」と抗弁したが、聞き入れてもらえなかった。ちなみにソニアさんは、鉄札からいきなり銀札に昇格したのだそうだ。メイドとしての修行過程に、礼法等は必修科目だった為改めて学ぶ必要はなかったのだとか。
それが、銅札と銀札の違い。「一人前」と称される冒険者の大半が銅札なのは、多くの冒険者は礼法を学ぶ機会がないからでしかないという事だ。
そして。「高ランクの冒険者は、戦闘力も高い」と謂われる。けど、銀札までは、それは事実無根。町の人の信用を得られれば木札冒険者は鉄札に昇格出来、町の外でも最低限の活動が出来るだけの戦闘力があれば銅札に昇格出来る。そして貴族を前にして失礼のない作法を身に着けていれば、銀札になれるけど、この先は戦闘力がモノを言う。
「その冒険者がこの町にいれば、この町は大丈夫」というレベルの強さがあって、初めて金札と認められ、「どんな魔物、どんな脅威からも、この冒険者がいれば大丈夫」というレベルの強さが認められて、白金札の認定がされるのだから。
逆に言えば。あたしらにとっては、銀札まで行けば、それ以上を求める必要はない、という事でもある。
貴族相手は正直面倒臭いけど、取り敢えず頑張りましょう。
(2,895文字:2018/02/12初稿 2018/09/01投稿予約 2018/10/24 03:00掲載予定)
・ 災害派遣の依頼時は、ソニアさんは同行していません。
・ ここで問われる「杖術」と「杖道」の違いは、実は「剣禅一如」「弓禅一如」の考えと同じです。そして武道の昇段試験には、これが問われるそうですが、問われて答える事が出来る程度の理解を、禅では「不識」と呼びます。知識として知っていても、理解しているとは言い難い。理解して、それが行動(日常生活)に再現されて、初めて「識っている」といえるのです。「知っていても、識っていない」。識って、初めて「剣禅一如」や「弓禅一如」、そして「術と道」の違いを理解出来るようになるのでしょう。
・ 魔王国の一般教養には貴族の礼儀作法もあります。だから魔王国の国民でありながら銅札冒険者、という事は、義務教育課程で単位を落としているか、それとも帰化し市民権を得て間もないという証左だったりします。
・ 金札・白金札の冒険者は少ないというのは、戦闘力と教養を併せ持つのなら、騎士なり武装商人なり、或いは行政直下の外交官なりといった正職に転職する人が多いから。逆に言うと、「白金札の冒険者」は、それだけの戦闘力と教養を持ちながら、正職に就かなかった(就けなかった?)平民、という事になります。ちなみに、戦闘力の無い金札以上もいます。一国の王になりながら、某国で冒険者としての身分が残っていたり公然と自国で冒険者活動したりしている魔王もいますが。




