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夫との結婚生活に不満はなかった。
医療機器関係の営業マンで成績も良く、同年代の男と比べても稼ぎが悪いわけではない。
夫の会社はそこそこの規模で結婚2年目でマイホームも購入。
会社の業績も、夫個人の営業成績も好調。
月に何回かは名の知れた店で外食し、長期休暇で海外旅行に行くことも通例となっていた。
彼女は結婚しても退職せずに仕事を続けていたが、仕事と家庭両面で充実した生活を送っていた。
そんな彼女の生活を変えたのは、同僚が薦めた一つのアプリだった。
有名キャラクターを使ったパズルゲームで課金要素もあるものだ。
スコアを登録した友達同士で競わせることもでき、ダウンロード自体も無料、
何より同僚が皆やっていることから香苗は戸惑うことなくダウンロード。
それまでゲームと無縁だった彼女だが、気がつくとどっぷりとのめり込んでしまった。
最初は月3,000円ほどだった課金額は時間の経過と共に右肩上がりで増えていき、
やがて同僚のゲームに対する熱が冷めてからも、香苗は取り憑かれたようにゲームをプレイしていた。
仕事と両立していた生活にも徐々に不和が生じ始めた。
掃除をしなくなり、料理に手がつかなくなり、外出も減った。
メイクや服装にも無頓着になり、周囲から浮くようになっていったのは言うまでもない。
決定打は夫が見つけた香苗名義のクレジットカードの請求書。額を見て夫は絶句した。
それから離婚するまでは早かった。夫の両親からは泣いて罵倒された。
香苗の両親は夫側にただ頭を下げていた。夫の自分を見る目はもう近しい人間を見る目ではなくなっていた。
こんな状況ですら香苗はゲームのことで頭が一杯だったのだ。
香苗のあまりの変貌ぶりに彼女の両親は、北関東の山中にある、とある精神病院への入院を薦めた。
薦めたというよりかは半ば強制に近かった。
自然豊かな環境で1週間、最先端の治療を受けることで香苗の依存症をなくそうとしたのだ。
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一気に階段を1階まで下りた香苗は息を切らしながら、1階へと通じる扉に手を掛けた。
「開かない…なんで?」
ドアノブを回してもドアは頑なに開かなかった。上層階の階段を見上げる。あの男が追ってくる様子はないが、ここで追い詰められたら逃げ場はない。ふと見ると階段は地下へも伸びているが、心象的に地下には行きたくなかった。
左手を見る。カタツムリが潰れた痕が、臭いがまだ残っている。反射的に香苗は戻していた。
その場にうずくまり、嗚咽する。胃が痙攣するまで戻した。
階段は全フロア吹き抜けで嗚咽は響いたが、そんなことはおかまいなしだった。
力が抜けて立てない。暗闇でよく見えなかったが、あの男は異常だ。あの笑い方、吃音、ガリガリに痩せ細った体。
その男がなぜ自分を追い回すのか、そして病院の人間はどこに行ったのか。
あの男はなぜ自分の部屋から現れたのか。
一息ついて、香苗はポケットにスマホが入っていたことに気付いた。
時刻は午後9時57分。だがそれ以上に彼女の注意を引くものがある。
「電波が通じてる。」
彼女はそれを確認し、ロックを解除。電話で助けを呼ぼうと考えた。しかし電話帳を開く前に香苗は反射的に
例のゲームアプリを開いていた。
「ログインだけ、ログインだけ。こういう時こそ、平常心でいないと。」
今まで異常な男に追われていたことが一瞬だけ頭から離れていた。
スマホをいじる彼女の目はぎらぎらとしている。
「1回だけプレイしても…あいつは来ないよね。
あ、音出さないと気分出ないなあ。」
香苗はゲームをしたい欲を抑えきれなかった。