3
「いやあああああああああああああああ」
絶叫して後ずさる。腰が抜けて立てない。目の前の男は明らかに異常者だ。
表情は気味の悪い笑顔のままで、その表情が張り付いているようだった。
口元だけをもごもごと動かし、メスを目の前に構える。メスを持つ手も老人のように震えている。
「行こ、ね?行こ、ね?ね?」
男の顔が香苗に近づく。ひどい臭いがする。どぶのような臭いが鼻を突く。
香苗は自分が殺されるだろうと考えたが、男はにやにやと香苗を見ているだけだった。
男は香苗から顔を離すと、病衣のポケットから何かを取りだし、香苗に差し出した。
「これ、あげるから、ね?行こ、ね?む、む、迎えに、き、来たのですから。」
男が差し出したのはぐしゃぐしゃに潰れたカタツムリだった。それも手から溢れるほどの量の潰れたカタツムリが
男の掌の上で異臭を放っていた。
「あ、れ、れ?死んじゃった…で、でも、がん、がんばったんだ、吉澤、香苗さん、のために。」
香苗は恐怖のあまり動けなかった。
そんな香苗を見かねたのか、男はカタツムリがこびりついた手を香苗の手と合わせぎゅっと握った。
香苗はもう恐怖のせいで抵抗もできなかった。涙が出てきた。
男の手は生温かく、汗かカタツムリの体液かでぬるぬるしていた。
男は強く香苗の手を握った。カタツムリの死体が香苗の手の中でぐにゃりと踊る。
「あ…あああ…ああ」
男はさらにもう片方の手を添え、さらに強く香苗の手を握る。
時折、手の中で殻の破片が突き刺さり、死体が弾けた。
男は嬉しそうにうんうんと頷くと、手を握ったまま香苗を引きずり始めた。
「喜んでくれた、う、嬉しいなあ。」
「嫌だ、嫌だ、いやああああああああああ」
香苗は声の限り叫んだ。だがどれだけ叫んでも誰も助けに来ない。ただ男に引きずられていく。
ずるっと音がして、男が香苗の手を離してしまった。カタツムリで手が滑ったのだ。
手が離れる際、カタツムリの死体が糸を引く。
男は初めて表情を変えた。それまでの笑顔が嘘のように、顔が強張る。
香苗は握られた手を壁に何度も何度も付けてカタツムリを取り払った。
嗚咽が止まらないまま、彼女は叫んだ。
「嫌!誰か助けて!!誰か!!」
男はそんな香苗を悲しそうに見ている。見ながら手についたカタツムリを食べている。
男はメスを香苗に向けながら、またにやにやと笑い始めた。口元にはカタツムリがへばりついてる。
「カタツムリ、か、かわいいよ。」
半狂乱になった香苗は男が向けたメスを思わず振り払った。振り払われた手はメスごと男の体に向かっていった。
男は自分の左胸にメスが刺さったことに気付いた。
「ああ、ああ、ああああ」
香苗は男が固まっている隙に廊下を全速力で走った。突きあたりを曲がり、一番近い階段へと逃げる。
背後でそれまで聞いたことのない怒号と絶叫を耳にしながら、香苗はひたすら階下へと足を進めた。