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香苗は軽いパニックに陥った。最後にはっきりとアナウンスは自分の名前を呼んだのだ。
そしてその声は自分の名前を呼ぶ際、笑った気がした。気持ち悪い猫なで声で。
アナウンスはそれきり聞こえなくなった。部屋は相変わらず暗いまま。時計の秒針だけが聞こえる。
電気が落ちているにも関わらず香苗はナースコールを何回も押した。電話でナースステーションに何回も呼び掛けた。
だがそれらが繋がることはなかった。
少しして香苗はいくらか落ち着きを取り戻した。
声の主は自分をどうするつもりなのだろう。病院のアナウンスができ、なおかつ自分の名前を知っているのは医師以外にありえない。まずこの部屋に自分がいることもわかっているに違いない。
香苗は背筋が凍った。
「この部屋、危ない…」
はっとして彼女はアナウンスが聞こえるまで試そうとしていたことを思い出した。ドアが開くかどうかを。
ドアを開ける前に彼女はドアに耳をぴったりつけて、外の様子を伺おうとした。そもそもこのドアにどれほど
防音性があるかはわからないが、一応試してみた。
すると彼女の頭に一つの疑問が浮かんだ。
停電が起きてドアのロックが外れているなら、誰かしら他の部屋の者が廊下に出て、自分と同じように
パニックになっているないしは、何かしらの行動を起こしているのではないか、という疑問が。
だがドアの防音性が非常に高く、廊下の様子がわからないこともあり得る。どちらにしろドアを開けるしかないのだが、彼女の第六感はドアを開けてはいけないと警鐘を鳴らしている。
あの声の主が自分の部屋を知っているならもうこの部屋に来てもおかしくない。
何をされるかわからない。部屋にいるのもまた危険なことのように思えた。
もしドアが施錠されているのなら部屋に籠ることも選択肢に入る。
香苗は意を決してドアを引いた。
「………」
ドアは抵抗なく開いた。
「何…これ…」
廊下も真っ暗で、先が見えない。だが他の部屋の扉は全て閉じたままだ。
この期に及んで香苗は事態の異常さに気付いた。
人の気配が全くない。
この部屋に入る時はまだ時間が早かったとはいえ、人はいたはずだ。
それが今ではまるで廃墟のように何もいる気配がない。
動くことがためらわれた。廊下の先は完全な暗闇で何も見えない。
まだ来たばかりでこの病院の造りが把握しきれていない今、闇雲には動けない。
息を殺し、足音を立てずに香苗は廊下の様子を伺った。
だがこの暗闇では何もわからなかった。
もしこのまま動かなければ、アナウンスした医師と鉢合わせになるだろう。
香苗は少し考えを変えた。
この非常事態で恐怖心が芽生えているが、あのアナウンスは自分を助けるためのものではないか、と。
よく考えれば他の患者はもう寝ていることも考えられる。
自分は入院初日で病院についてなにもわからない。だからあんな放送をしたのではないか。
声のニュアンスは自分の思い違いということもあり得る。
香苗は一回深呼吸した。
なんだかんだ言いながらもこの環境に自分は鋭敏になっているのだ。
部屋に戻ろうか、あるいはこれから来るだろう医師に、自分は大丈夫ですと伝えた方がいいだろうか。
そう考えると気持ちが楽になった。香苗は廊下で医師を待つことにした。
すると足音と共に声が聞こえてきた。あの野太い声はアナウンスのものだ。
姿は見えない。香苗は声がどこから聞こえるのか意識を集中した。
足音は大きくなり、声もまた大きくなっていく。
「吉澤、香苗、さん。」
野太い声は抑揚なく自分の名を呼ぶ。
だが様子がおかしい。
声は一定の間隔で抑揚なくただ自分の名を呼んでいる。
「吉澤、香苗、さん。吉澤、香苗、さん。吉澤、香苗、さん。」
香苗は声がどこから聞こえるかようやくわかった。だがわかった直後、自分の考えが甘すぎたこと、アナウンスの主が異常者だと改めて実感した。
声は自分のいた部屋から聞こえていた。声の主とはドア1枚だけを隔てて隣合っていたのだ。
香苗は背後のドアが開く音に飛びのいた。
そして声の主の姿を見て動けなくなってしまった。
「吉澤、香苗、さん。迎えに、来ましたあ。」
それは医師などではなかった。自分と同じ入院患者だろう。
暗くてよくわからないが、薄っぺらい病衣から伸びる枯木のような手足。
痙攣したかのように口元がひくひくと動いている。そして目だけがぎらぎらと輝いていて、ずっと笑っていた。
目だけが開き、痙攣した口元は歪につりあがり、ちぐはぐで気味の悪い笑顔で香苗を見下ろしていた。
だが香苗の目を引いたのはそれが手に持っているものだった。
暗闇でもわかるその形。銀色に光る小さなナイフのようなもの。
それはメスだった。