Healing Thursday
高石尚と弟カップルが過ごした、Thursdayのひととき
弟の片思いに気付いた瞬間を、俺は今でも忘れられない。
それが、一秒にも満たないくらいの“瞬間”であったにもかかわらず、だ。
驚いたように固まった彼の表情が、いつも飄々としている我が弟だからこそ余計に、脳裏に焼き付いている。
「お前には、葵がいるだろ?」
それは、めったにそういうからかいをしない俺が、思わずそう言い放った時だった。
***
“かりふぉるにあ・ふらっと”恒例、管理人・はらさん主催のBBQ大会。何年も前の話だ。まだ、俺とはなが付き合ってすらいなかった。大人たちが、冷えた缶ビールを片手に生ぬるい野外で談笑するなか、俺ははなと冷房のきいた「センター」に、ふたりきりでいた。ようやくふたりきりになれたと思った矢先だった。そこに、翔と、明らかに翔にむりやり引っ張られてきた感じの葵がやってきたのだった。
はなが大学生になってからなかなか会えなくなった中、久しぶりにふたりきりになれたこともあって、俺は突如あらわれた彼らを本気で追い出したかったのかもしれない。翔は、俺が聞きたくもないはなの大学生活での出会いを知りたがったし、それどころか、『いい男はいないのか』『誰かと付き合わないのか』とまで根ほり葉ほり聞きだそうとしたのだ。
「お前、いい加減にしろって。」
「何が?だって、兄貴だって知りたいだろ?はなちゃんが、大学生活を謳歌しているのかどうか、さ。」
企んだような瞳をした翔を、はなにはばれない程度に軽く睨む。勝手だけれども俺は、はなにその頃の自分には未知だった「大学生活」を「謳歌」なんてしてほしくなかった。
「だからって、一息にそんなに聞いてもはなも困るだろ。」
な?と、俺が自分のわがままを巧妙に隠した柔らかな笑みを浮かべれば、はなは、困ったように笑い返した。
「それに、他の女の恋愛事情なんて聞いたら、お前の彼女が困ってる。」
「はぁ?」
訝しげな顔をした翔に、俺が続けた言葉がそれだった。
「お前には、葵がいるだろ?」
葵は『またそれか、』というような呆れた表情をしていた気がする。俺でなくても、よほど言われなれているのだろうな、と思った記憶がうっすらとある。
当時はまだ中学生だった翔と葵は、確かによく一緒にいたし、気も合っていたように思う。もちろん、高校生の今ほどはめを外していない弟ではあったが、男女問わず誰とでもフランクに付き合うタイプだったため、葵のことはただの“気の合う幼馴染な友人”の域を出ないのかもしれない、とは思っていた。
だから、冗談のつもりだったのだ。
それなのに、翔は一瞬だけ、固まり、それから表情を隠すように下を向いてはっ、と笑った。
その笑いはやけに大人びていて、自嘲に満ちているようにも、苛立っているようにも、俺には思えた。はなも、葵も、何とも思っていないように見えたけれど、俺にはどうしてだかいつもと違う翔の感情が見えたのだった。
『ちょっと、翔もちゃんと否定してよ!』と、ばしり、と葵に背を叩かれた翔は、ようやく顔をあげて、こちらに皮肉っぽく笑って見せた。その視線は、いつもへらへらとした笑みで物事を華麗にかわす翔にしては珍しく、挑戦的ですらあった。
「そうだよ、俺はただのこいつの恋愛アドバイザー。いやぁ、できの悪いクライアントをもつと大変だよ、兄貴。」
それから、そもそも来たくなかったのであろう葵が、慌てて引っ張るようにして翔を立たせ、はなと俺に愛想笑いと邪魔をした謝罪の言葉を残し、2人で「センター」を出ていった。翔は、それっきりこちらをちらりとも見なかった。
いまだに、あの時の翔の固まった表情も、こちらに向けた挑戦的な瞳も忘れられない。それらの示した意味を、俺がすべて理解しているわけでもない。正直、俺に挑戦的になられても、葵と俺には洗濯仲間くらいの接点しかないわけで。実際に、それから翔に直接確かめたわけでもなかった。
けれども、こいつは葵を好きなんだ、と直感的に確信したのはあの時だった。勘違いの可能性を否定はできないけれども、勘違いでないとも決して思えない。あれ以来、翔の“彼女”をたくさん見てきたけれども、そういった“直感”を翔の隣にいる女に対して抱いたことは、1度もなかったからだ。
***
「すごい!翔くん、すごい分かりやすい!」
「そ?ならよかった。」
「うんっ。さすがー!」
ぱちぱち、と手をたたくささやかな音。
「すごぉく、助かる!ありがとうっ。」
とろけるような甘ったるい声だった。語尾にハートマークが踊っているような気さえする。
どこのバカップルだ。俺は、ため息をついて、映画雑誌を閉じた。専門書でなくても、集中できない。振り返って睨めば、「センター」のダイニングテーブルに、腰掛けるカップルがひと組。その男の方は、弟だった。翔は背中を俺に向けているが、彼に向かい合う”彼女”の表情はよく見えた。
見た目だけ見れば、ストレートな黒髪と色白な肌。すっとした鼻筋に涼しげな瞳。知的なクールビューティーだ。どこか葵に似ている、と思ったのも無理はない。けれども、先ほどから翔が勉強を教えている様子を伺えば、葵とはまったく違う。葵は、甘えたような声は絶対ださないし、常に冷静だし、まず第一に、同級生に勉強なんて教わらない。教わったとしても、翔は絶対に選択肢に入らない。
俺は、彼女と視線が交わる前に、さっさと入口に向かって背をむけようとした。
「あ、お義兄さん!」
けれども、彼女は空気も読めないらしい。お前の兄ではない、と突っ込みたくなったが、時間の無駄だ。
「どうも。」
無愛想な声に、一応の愛想笑いを添える。
「いいって、兄貴のことは放っておいて。」
振り返りもしない翔の声に、ひとりの時間を邪魔されたいらいらが再燃する。
「だったら、自室で勉強しろよ、翔。公共の場じゃなくって。」
「元カノジョとここでいちゃこら勉強してたのは誰だよ。」
一気に険悪ムードに突入しそうになった空気に割り込んだのは、授業中に挙手するかのように、まっすぐと天井に向けて挙げた、細くて長い彼女の腕だった。
「あの、すみませんっ。」
手を挙げて俺ら兄弟を制した彼女の、どこまでもまじめにやっている感じなのが、そのクールな外見とは似つかわないとぼけた印象を与えた。甘ったるい声だな、とうんざりしていたその声は、意外なほどよく通る。
「私、物理がとっても苦手で、それでどうしてもって、無理やり翔くんに教えてもらってるんです。本当は翔くん、今日はここではちょっと、って気乗りしてなかったところを、本当にもうむ・り・や・り!」
「瀬尾、いいから。別に、お前のせいじゃない。」
軽くため息をつきながら、ようやくイスをずらして翔はこちらを向いた。
もう午後7時を回った頃で、部活のあとすぐにここへ来たのだろう。ネクタイをゆるめ、朝にはナチュラルにセットしていく髪型も、計算されたラフさよりも少しばかり無造作にはねている。
「それと、ずーっと気になってたんですけど、質問いいですか?」
「は?俺に?」
こくり、と彼女はうなずく。その黒々した瞳は、好奇心旺盛で無邪気な彼女の性格を表しているようだった。葵のような“クールビューティー”の印象が、どんどんと崩れていくのを感じる。機嫌の悪かった翔も、不思議そうに彼女を見ている。
「やっぱり“かりふぉるにあ・ふらっと”だけあって、カリフォルニア好きの方が多いんですね?」
「は?」
『瀬尾』と呼ばれた彼女は、俺の体を指さしてにこにこしている。
「だって、そのパーカー。カリフォルニアにある有名大学のじゃないですか。」
そう言われて俺は、そういえば、と気がついた。
今着ているのは、カリフォルニアを一人旅をした大学2年生の時に、手に入れたものだった。向こうの大学では、大学名称や校章が入ったグッズが――それこそ筆記用具にとどまらず、タンブラー、パーカーにスウェット、時にハンドクリームやリップなんて化粧品まで――幅広く販売されていた。
このパーカーは、普段着には少し高かったが奮発して、お土産として買ってきたものだった。さすがにサイズはでかいが、ゆるく着るのには手軽でよく使っている。
「まぁ、そうかもね。普通よりは、多少興味がある人が多いかな。管理人も管理人だし。」
はらさんは、カリフォルニア“かぶれ”を自称しながら、なんだかんだ、カリフォルニアの良さを広めるのに余念がない。この前も、旅行のお土産、といっては、カリフォルニア産のワインをばらまいていた。
それにしても、“瀬尾”さんは、よく気が付いたな、と思う。実際、大学名自体は聞きなれたものであるが、どこにあるのかまで知っている人は少ないように思えた。
「実は、前に翔くんが着てるのを見たことがあって、」
俺の思考を読んだのか、彼女は、そう説明してくれる。
確か、翔にも違うデザインのパーカーを買って帰ったのだった。そう言われてみれば、時々、学ランの下に着ているのを見たことがあった気がする。
「わたし、その時片思いしてたから、必死で調べたんですよ。」
「…何を?」
「パーカーに書かれている文字を。」
頑張る方向が間違ってないか、それ?純粋な疑問が、すぐさま頭の中に浮かび上がったが、言わないでおく。翔がおかしそうに、けれどもどこか幸せそうに笑っていたからだ。よく“彼女”といる時に見せるごまかしたような笑みでなく、純粋な笑いだった。彼にしては珍しい、と思う。
「それで、恋を成就させるのに役だったんだ?」
「いえ、ちっとも。」
きっぱりと、無駄に自信をもって彼女は言った。そうでしょうとも。
『でも、』と、にこりと笑って彼女は続ける。
「今、役に立ちましたよ。」
得意げに、きらりと瞳を輝かせた彼女は、世話のし甲斐のある子犬のようだった。そういえば、葵の恋愛相談にも、かつては頻繁にのっていた翔は、結局のところ、手のかかるタイプに弱いのかもしれない。
それに、確かに瀬尾さんのいったとおり、俺と翔の険悪だったムードは、とおにどこかへ消えてしまっていた。突拍子もない彼女の話術のおかげで。
「恋愛は直球で、正直に『すきすき!』っていうことにしたんです。」
初めからそうすればよかったんじゃ…と苦笑はしたものの、その素直で正直で真っすぐな姿勢があまりにまぶしくて、目がくらみそうな思いがしたのも確かだった。
「ま、あとはバカップル2人でご自由に。」
そういって、さっきよりは少しだけ愛想のよい声音と笑みを残し、今度こそここを去ることにする。瀬尾さんは、『はい、今日はすみません。ありがとうございました!』と大きな笑顔を浮かべ、尚は、すでに俺には背中をむけて、ひらひらと手だけを振ってよこした。
***
月曜日と同じく、俺は、翔のまだ残る「センター」を横目に見ながら帰ることになった。
はなと別れた月曜日とは違い、雨も降っていないし、どちらかと言えば春を思わせる心地よい夜風を今日は楽しむことができた。翔の姿は、もう、いつかの俺のことを思い起こさせはしなかった。むしろ、俺と翔の“違い”をいっそう浮き立たせるようだった。
俺は、いつのころからか、はなが生きる場所での“幸せ”を願うことができなかった。思えばそれは、はなと付き合う前からそうだったのだ。自分の片思いを成就させることに必死なくせに、はなが先へ先へと進んで行ってしまうことに、取り乱して焦りたくなんてなかった。だから、「追いつく努力」をして、それらは、総じて上手くいったといえる。
それでも、どんなに思惑通りにいったところで、その「努力」の土台にひどい焦りが存在したことに変わりはなかった。
認めればよかったのだろうか。自分のコントロールできない部分が、大人になることができない部分が、不安なのだと。ひどく、怖いのだと。それを、もっとちゃんと、正直に、うまく伝えることができたなら。それでも、はなのことがひどく好きで、幸せでいてほしいのだと。はながどう答えてくれたのかは、今となってはもう分からないことだった。結局、俺ははなを押しとどめて、はなの出たかった「ここ」から遠のいていかないようにと、そればかりを考えていた。
外から「センター」を眺めても、翔の背中しか見えなかったけれども、瀬尾さんのくるくると変わる表情はよく見えた。彼女が、翔を透明の「片思い」から救い出してくれたことに、どこか俺も救われた気がした。それは、無理をしてでも「片思い」を叶えた俺の苦しみも、無理をしてでも「片思い」を押し殺した翔の苦しみも、どこか通じるものがあるように勝手に思ったからで。彼女のあっけらかんとした“正直さ”がそれらを幾分かでも和らげてくれたことに、純粋によかった、と思えた。
翔は、長い間「片思い」から逃れようと四苦八苦してきたけれども、―――その結果が、この高校の”とっかえひっかえ”の2年間なのだろう――ようやく“居場所”を見つけたのかもしれない。そうも思った。
「俺も見つけないと。」
それは、『新たな相手を見つける』というよりはまずは、一人で始めていくための新たな“居場所”を、という意味で。そこを整えるには、今まで見ないふりをして隠してきた自分の思いを、素直に正直に受け入れるしかなさそうだった。
それはきっと辛いのだろうし、これから先、また後悔や痛みに苛まれることもあるのかもしれない。
それでも。
今夜は、週初めからずっと癒えなかった傷にようやく薄い膜ができて、すこしだけ痛みを和らげてくれるかのような、そんな心地でいることができた。