Tuesday Meeting
高石翔&水河葵のとあるTuesday
「あれ、珍しいじゃん。」
がちゃり、と家のドアを開けた瞬間に目が合ったのは、隣に住む水河葵だった。綺麗なストレートの黒髪は、同じ学校へと通った小中学校時代からずっと変わらない。
一瞬驚いたのちにいつも通り仏頂面になった葵に、一応『おはようさん』と声をかけ、ひらひらと手なんか振ってみる。
「おはよう。」
挨拶だけはきちんと返してくれたものの、表情は極めてそれにそぐわない。「なんでいるわけ?」という迷惑さを隠そうともしない所が、葵らしいといえば葵らしい。もしも会ったのが兄貴の尚だったとしたら、少しは嬉しそうにするのだろうが。
葵と俺は、これだけずっと同じ道を辿ってきた割に、同じクラスにだけはなったことがない。だからなのか、中学時代は、それなりの親しさで話していると「2人とも、接点なんてあったっけ?」と、クラスメートにちょくちょく尋ねられた。ご丁寧に“いわゆる近所の幼馴染”だと説明すると、勝手に親密なカップル扱いされてしまうことも多く、生真面目がすぎる葵にとって、そういう“からかい”の対象になることは、非常に不愉快だったらしい。俺も面倒な勘ぐりはうっとおしく、それゆえに、互いに必要以上に関与しないスーパー・ドライな関係がこれまでですでに出来上がっている。この適度な距離感に、俺も葵も満足しているつもりだ。
すでにさっさと俺に背を向け、バス停に向かって歩き出した葵の後を、必然的に俺は追う形になった。決してスト―キングしたいわけではなく、最寄駅へ行くための小さなバス停までは、同じ道を進むしかないのだ。“カリフォルニア”の解放感を出したいがために、管理人の“はらさん”は駅から適度に「遠い」ことは最低条件だったと自慢していた。ちなみに、「自慢にも売りにもならねぇだろ。」と絶対零度の冷静さで突っ込んだのは、もちろん俺の兄貴である。
それでも、駅前では決してこのフラットの澄んだ空気感や広々とした解放感はだせなかっただろう。ここが全体として、かなり緑豊かな地域なのは間違いない。確かに、利便性に優れたとは言い難いが、お年寄りにも配慮して、駅への巡回バスが20分に1本は走っている。「虹ばす」と呼ばれる丸っこくて小さな可愛らしいバスだ。それに、自転車で30分も飛ばせば駅には着く程度なのだから、俺としてはそれほど面倒に感じたこともなかった。
***
「何?」
隣へと腰掛けた俺を、葵が驚いたような面持ちで見つめてくるからそう聞いてやった。
「何って、どうしてここに座るの?」
「空いてたから。」
「他にも空いてる席があるのに!」
当たり前だ。空席だらけだ。こんな時間帯に出勤・登校しようなんて、ばかげているとしか言いようがない程早いのだ。実際、葵は部活の朝練があるわけでもないのに、恐ろしく朝が早い。おそらく、俺の登校時間とずらすという狙いも最初のうちはあったのだろうが、結局はそういう習慣が肌に合わなければ、続けられないわけで。
「今日は用があるんだよね、葵に。」
用でもなければ、こんな時間に登校しようとなんて、俺は夢にも思わない。葵にもそれは薄々分かっていたようで、次の瞬間には、さすがに座席ついての文句は出なかった。
「何、用って?」
「お前、赤の他人の方が、まだ親しげだぞ。」
「ご用件は?」
変らないトーンの葵に、苦笑がもれる。
「兄貴の最新恋愛スクープを教えてやろうってのに、いいのかよ。そんな態度で。」
それまで、表情をちっとも変えなかった葵は、いともあっさりと戸惑った様子を見せ、漆黒のビー玉見たいな瞳を揺らした。分かりやすさだけは、昔から筋金入りなのだ。
中学校の時から、こいつは兄貴へと片思いをしている。当時は、それなりに恋愛相談にものっていた。というか、俺が早々に彼女の恋心に気がついて、勝手にアドバイスをしていた。そのかい虚しく兄貴ははなちゃんと付き合い始めたわけだが、俺らがしきりに「付き合っている」と勘ぐられた原因は、そうやって話す機会が多かったことにもあったのだと思う。
「兄貴、別れたよ。昨日。」
葵は、これ以上見たことがないほど俺をまじまじと見つめる。間抜けに口まで半開きで、いつもより幼い表情に場違いにも笑いそうになった。
「うそだ。」
「ほんと。」
「うそ。はなちゃんと尚が別れるなんて、そんなはずない。」
「ほんと。嘘のようなマジの話。」
それから葵は、相変わらずまぬけな顔をして数秒ほど俺の顔を眺めたかと思えば、そのまま視線をそらして、ぼんやりとしている。
「どうする?チャンス到来じゃない?」
「チャンスとか、そんなんじゃないから。」
「そんなこと言ってぼんやりしてるから、いつまでたっても片思いが実らないわけで、」
本格的に俺が説教モードになりはじめたのを察知したのか、葵は、再び視線をこちらに戻し、じとり、と睨んでくる。
「別に、私はもう、中学の頃とは、」
変ったとでも言うのか。
「同じだろ。むしろ、変らなすぎでしょ。」
つい畳みかけるように俺は葵をさえぎった。『日曜日の朝に心当たりは?』と続ければ、葵はうまい言い訳すら口に出せずに、憮然とした表情をする。“日曜日の朝”なんて、本来ならばもっと艶っぽく響いてもいいのではないかと思う。それなのに、こいつと兄貴のSunday Morningとやらは清々しいほどなんにもない、洗濯という名の家の手伝いだ。そうだとしても、毎週ひそかに、心弾ませてこいつがランドリーにかけていく足音を俺は、よく知っていた。
「お前と兄貴が、洗濯場で交流し始めて、もう、何年だ?数年くらいか?」
確か、俺らが中学生に、兄貴が高校生になりたての頃だった。よくよく思い返せば、はなちゃんと兄貴が付き合い始めてすらいない頃だ。改めて、その恐ろしいほど長い葵の片思いが不憫でならない。ひとつの長寿カップルが付き合う前から、終わるまでの片思いだなんて、
「どこまでも不憫だな。」
図らずも、口に出てしまった。ごんっ、と情け容赦なく葵が俺の二の腕に拳を飛ばす。華奢なほっそい腕をしているくせに、それなりに効く。
「いてぇよ。」
「うるさい。」
窓の外へ視線を向けた葵のなびかせた綺麗な髪から、微かな香りが舞う。窓ガラスに映った葵の表情は、化粧っ気のない綺麗なあどけなさで、つい妹をいじめてしまったかのような決まりの悪さを感じる。
「で、まぁ、ここからが本題なんだけど。まじな話で兄貴が落ち込んでんだよね。」
めったなことでは風邪も引かず、その生真面目な性格もあってか常にどこでも皆勤賞の兄貴が、珍しく体調を崩すほどには。今日は、いつも早起きのくせに朝食の席にいなかった。ベッドから、バイトの代打の打診どうしよ、と珍しく気弱な声がして『相当だな、これは。』と思った。
「どうすればいいと思う?」
「どうすればって、失恋をいやすために、ってこと?」
「そう。」
正直なところ、目に余る落ち込みっぷりを見せる兄貴に、失恋経験のない俺は、どう対処すればいいのかが全くわからなかったのだ。男兄弟だから、あんまり心配してるそぶりを見せるわけでも、互いに干渉し合うわけでもないが、少しばかり気がかりではある。
「分かんないけど、えーと、ご飯をしっかり食べる?」
「お前は、母親か?」
「何よ、そっちが聞いてきたくせに。」
「新しい恋、とかでしょ。ふつうは。」
「それが効くのは、ころころ相手が変わる翔だけだよ。ふつうは、そんなにすぐさま切り替えられないと思う。だって、すっごくすっごく好きだったじゃない。尚は、はなちゃんのことが。」
確かに。
「きっと今も好きだし。」
だが、それはどうだろう。内心、俺は首をかしげる。
兄貴とはなちゃんはどう見てもお似合いだったことに、異論はない。年上の割に、のんびりしたそそっかしいところがあるはなちゃんと、面倒見のよすぎるきらいのある兄貴。これでしっくりこない方がおかしい。それでも、正直なところ、はなちゃんが社会人2年目に突入したあたりから、俺は、2人の雲行きが怪しくなってきたのを感じていた。それが、これまで兄貴が無理していたものが露呈してきたにすぎないのだとすれば、破たんの兆しはずいぶん前からあったのではないか、と踏んでいる。
兄貴の「好き」とは、一体何なのか。常々俺は疑問に思ってきた。兄貴こそ、葵に負けず劣らず長年の片思いニストだった。中学時代には、理系が苦手なはなちゃんの勉強まで見られるように、何学年も飛び越えた内容を軽々とこなしてみせた。晴れてはなちゃんと付き合い始めた高校時代には、進学校では珍しく早々にバイトを始め、学業とも両立して先生や親をも黙らせ、貯めたお金でバイクの免許をとったかと思えば、大学まで迎えに行ってデートに出かけた。
何年も積み重ねた、そのあまりにも強い過去の想いのまやかしに、兄貴は捕らわれているだけなのではないか。ここ最近の彼らのすれ違いに、何度もそう尋ねそうになった。
「翔?」
少し考え込んでしまった俺を、不思議そうに葵は見つめてくる。
「だとすれば、お前に頼むのは、酷か。」
兄貴と葵はあまりにも似ていた。もし、葵の片思いが仮に叶ったとして、これまでの強い葵の気持ちだって、いつかは同じ結末を運んでくるような気がする。
「どういう、意味?」
「いや、こっちの話。」
***
次は~、終点、○○駅前でございます。お降りの際は、お忘れ物のないよう…
電子的な女性の声が、ようやくそう告げた。
あれから、俺は「まあ、なんとか立ち直るわな。」とお茶を濁して、会話の矛先を兄貴から変えてしまった。
「あのさ、」
最寄り駅近くのドーナツ・ショップが見え始めてから、葵はそう切り出した。
「ん?」
「この前の日曜日ね。わたし、尚とはなちゃんのことを話したの。」
「ふーん、」
別れ話の前日か。
「『はなちゃん、引っ越すんだってねー』って。『寂しくなるね』って。」
「うん。」
「尚は、『そうか?』って、笑ってた。わたしは、まぁ、尚はいつでも会えるからいいのか、って思ったの。引っ越しても、付き合い続けるんだって思ってたから。」
「まぁ、そうだよな」
葵は、話し続ける。
「あのさ、尚ってさ、すごく“小学生”みたいだって思う。からかうし、馬鹿にしてくるし、結構、小さいことでいつまでも笑ってるし。だけど、はなちゃんのことをしゃべる尚は、すごく大人なの。昔からいつも。だから、その時だけは、私、尚がすっごく遠い人みたいだなって、思ってた。あぁ、絶対手が届かないって。絶対叶わないって。尚は、はなちゃんだから、こんなに頑張るんだって。」
「あぁ。」
「でも、尚は本当は、少しだけ、無理してたのかな?わたしなんかじゃ、とても気が付けないような、上手な“無理”なのかもしれないけど。」
最後にそうぽつり、とこぼすと、迷いのない瞳で俺のことを見つめる。
きっとそれこそが、尚なのだろう。根は小学生のように純粋で、バカで、寂しがり屋なくせに、有能で生真面目であるがために彼には、器用な“無理”ができてしまうのだ。
「そうだと、したら?」
「分からないけど、尚が、ちゃんと伝えられたらいいのに、って思う。」
我慢してきたことの、すべてを。
認めて、受け入れて、そして伝えることができたらいいのに。
中学の頃の葵からしてみればやけに大人びた発言がほほえましく思えて、俺はついつい笑みを浮かべていたようだった。
「何、なにかおかしなこと言った?」
ついつい語ってしまった自分に気付いてか、少しだけ顔を赤らめている。
「いやいや、成長したなと思ってさ。大人になったってこと。」
「同い年のあんたに言われても、」
苦笑されつつ、運転手さんに会釈をしながら、停車したバスを二人して降りる。
「あ、あと瀬尾さん。」
「は?」
突然、自分の彼女の名前が飛び出し、思考がしばし追いつかない。
「いい子だよね、瀬尾さん。」
「あぁ、まぁ。」
「うまくいくと思うよ、今度は。」
他人の方が、よく見えることもあるのだろうか。家族は、またか、と呆れてものも言わないが、葵の方がよく分かっているらしい。
「それは、どうも。」
にこり、と笑って答える。
「じゃ、同じ車両には乗りませんから。」
改札口で、そう言うと、葵はひらひらと俺に手をふった。どうせ、友人に見つかりたくないのだろう。
「はいはい、じゃあな。」
俺の振り返した手のひらも見ずに、葵は、さっさと改札を通りすぎていった。
どこまでも、葵らしく軽やかに。