Blue Monday
高石尚のとあるBlueなMonday
かつ、かつかつ、かつ、と机をペンでたたく音が不規則に響く。
真っ暗やみのガラス越しに見える雨音とそれは重なって、いらいらを加速させる。
開いた課題の専門書のページの上を、さっきから俺の視線はすべっているだけだ。
ちっとも、頭に入らない。
明日は深夜までバイトが入っているから課題にとれる時間は少ないし、ゼミの課題の締め切りはその翌日の1限までだ。必然、今晩のうちに終わらせることがベターになる。
誰もいない夜の「センター」のラウンジ。ここにあるのは、ソファや図書スペースだけではない。4人掛けのダイニングテーブルがあり、住人の中に受験生がいる時なんかは、よく自習スペースとして利用される。俺の時も、弟の翔の時も、隣に住む水河姉妹も、みんなここを使ってきた。机の上には落書きがあるものの、誰が書いたかが丸わかりで、匿名性などまるでない。そんなところも予備校なんかとは違って、面白いところなのかもしれないが。
上原はなも、ここでずっと勉強してきた。
彼女のトレードマークである簡単なお花の落書きを見つける。その下には、目標までご丁寧に丸っこい字で書いてある。『合格して、尚と一緒に遠くまで出かける!』その上を指でそっとなぞると、なぜだか胸がいたくなった。いつまでもこの文字が残ってしまうことなんて、それをどんな思いで俺が見つめ続けるのかなんて、きっとあの時の彼女は考えなかったに違いない。
「あぁ、やめやめ。」
ひとりでつぶやくと、小声でもやけに響いてますます虚しい。けれども、これ以上はどうしても集中できる気がしない。俺はそそくさと専門書と筆記用具を片付け、愛用のリュックに雑に押し込む。そして、図書スペースに移動し、ラックから一冊の映画雑誌を取った。すぐ横にあるソファに腰掛ける。
ぼんやりと、窓ガラス越しに外を見つめると、相変わらず一定の間隔で雨粒が落ちる音がした。窓ガラスについた水滴が次から次へと流れる様がまるで、誰かが声もあげずに泣いているようで、そんなことを思う「らしくない自分」に苦笑する。管理人の“はらさん”にいつもフラット運営について文句を吹っかけては、「血も涙もない」と嘆かれる自分とは、到底思えない。あぁ、あほらし。そう思って開いた雑誌の特集は、幾度か結婚と離婚を繰り返し、男女のズレを描くのに抜群に長けた監督の名作で。なんだか、今夜の予習をしている気分になってまた苦笑いが漏れた。
***
まぶしい車のライトとエンジン音を感じたのは、もうそろそろでPM9:30を回るところだった。そこまで遅くもないし、電車だって十分に拾える時間だろう。けれども、そんなことを、口に出すのは野暮なことくらい、分かっているつもりだ。いつもの先輩の車は、雨の中でより一層黒光りし、走ってくるはなのさす真赤な傘はひどく大人びて見える。ちりん、と来客を告げるいつもの「センター」入口の鈴の音も、今日はどこかほの暗く響くように思えた。
「ごめんね、遅くなっちゃった。」
急いで駆けてきたはなの息は、少し上がっていた。
「全然いいよ。課題やってたし、読んでない雑誌もあったし。」
すぐにはなは、ほっとした笑みを浮かべる。やっとこちらに近づいてくると、俺が開いている雑誌を覗きこんだ。
「あ、この映画、一緒に見たよね。」
懐かしさも手伝ってか、少しだけ声のトーンが上がる。
「お前、寝てたよな。」
「それはちょっとだけだよ。だって、この監督ってただのエロいおじさんなんだもん。」
その言い方があの時、俺の横にいた“女の子”にそっくりで、俺は、思わず笑ってしまう。
「なによ?」
少し訝しげにするはなは、言い方も声の感じも昔からちっとも変らない。“女の子”だ。けれども、いつの頃からか綺麗に化粧をして、華奢なパンプスもはきこなし、見上げると首が痛くなるような高いビルで働くにふさわしい“オンナノヒト”になっていて。その不思議な違和感に俺の心は板挟みになっては、ひそかに混乱した。
彼女の髪から水が滴り落ちて頬にあたった冷たさで、ようやく我に帰る。
「わぁ、ごめん!これじゃあ、尚が濡れちゃうね。」
「これくらい、平気。」
ぐい、とパーカーの袖で水滴をぬぐう。わたわたとハンドタオルを取り出すはなは、いつも一足遅いのだ。これでしっかり働けているのか、という心配をしたことは何度となくあるが、思えばもうそろそろ会社に入って3年目になる。
「いいから、とりあえず座れば?」
そういって、ハンドタオルを受け取りながら、彼女のためにソファのスペースを空ける。
「うん。」
大人しく座ったはなの頭を、もらったハンドタオルでわしゃわしゃと拭いてやった。
「わぁ、もう髪がぐっしゃぐしゃ」
「いいじゃん、どうせ帰るだけなんだし。」
「そりゃそうだけど。」
「濡れてると風邪ひくでしょうが。」
「それでももっと丁寧にしてよっ」
こちらを見つめるはなは、はしゃいだ声を出すのに、その瞳に宿る光はまるで迷子の子犬のそれみたいだ。不安そうで、迷っている。もう、決心はとうについているくせに、だ。
「で、話ってなんなの。」
俺は、笑顔を崩さないまま、なんでもない風に尋ねた。途端、はなは口ごもる。
「あぁ、うん、えっと」
俺は、わざと言いにくそうなはなの真似をする。
「あぁ、うん、えっと、何?」
***
雨はまだ止まない。
相変わらず、俺はラウンジに一人っきりでいて、暖房の音が静かに重く鳴り響いている。
はながここを去ってから、もうだいぶ経つ気がするのに、時計を見る気すら起きなかった。
「ここを、“ふらっと”を出ていくことにしたの。というか、出ていきたいの。」「一人暮らしがどうしてもしたくて、とにかく、家族から離れて暮らしてみたいの。」「もう、決めたの。母親も説得して、」「今月中には、出ていくことになった。」
「一から、自分の力で、暮らしてみたいの。」「ごめんね、尚、だから、」
『だからもう、尚とは付き合えない。』そう続くことは明白なのに、はっきりとした別れの言葉で俺を傷つけてくれないのが、はならしいずるさだと思った。
実際俺にとってはなが引越すという話は、もう2カ月も前に自分の母親から伝え聞いていたものだ。すっかり話は付いているものだと思われたらしい。それなのに今日まで、その話を俺ははなに確かめることも、はなが切り出すこともなかった。気を使ったわけでもなく、ただ単に、確かめるのが怖かったという理由で。互いに忙しい振りをして、次第に会わなくなっている、俺たちの「これから」について。
はながいつも一人娘であることを重荷に感じていることは、よく知っていた。「いつか絶対、一人暮らしをするの」と、「“ふらっと”を出ていくの」と、覚悟をきめた目で常々語っていたものだ。たしかに、ずいぶんと過保護なはなの母親を俺は誰よりも知っていたし、一人息子になったことのない俺には、わからない辛さがきっとあるのだろう、と納得していたつもりだった。
それでも、心の奥底では、いつも怯えていた気がする。「ここ」で育ち、「ここ」で出会い、「ここ」で過ごした思い出が重荷であるのならば、そこには俺すらも含まれてしまうのではないのか。キラキラと語るはなのその“夢”は、俺をもはなから切り離してしまうのではないのか、と。
はなが出ていくことを知ってから、日に日にその悪い予感が確信へと変わる。この2カ月の間というもの、仕事の話に、聞きたくもないはなの先輩の話、俺のゼミのバカ騒ぎの話に、弟の女癖の悪さというゴシップ。それら全ての日常にかき消されて、一向に肝心の話題にはどちらも触れることがなかったからだ。引越しまで一週間をきって、珍しく「夜にラウンジで」なんてようやく呼び出され、そして、彼女の口からはっきりと告げられるこの日まで。
「ずるいよな、はなは。」「平然とたわいない話ばかりして、あと1週間で綺麗に消え去ってしまうなんて。」「まるで、これまでのここでの暮らしに、何一つ未練なんてないみたいに。」
心がはちきれそうになるほど叫んでいるのに、ひとつも口には出せなかった。十分に女々しいのに、まだそれを露呈したくない変なプライドが俺を押しとどめている。
「どうして今まで言えなかったのか。」自分のことも棚に上げて、俺がそう問うと、はなは答えた。「分からない。言わなきゃ、と思えば思うほど、怖くなって。尚のこと、嫌いになったわけじゃない。今でも、すごく大事だと思う。でも、どうしても、一人で生きていけるって確かめてみたいの。」
ここまで言われても俺は、つい言い募りたくなる。
それならば、いつまでもワカラナイままでいなよ。そうだよ、俺のことが“嫌いじゃない”なら大丈夫だよ。
でも、そう言って、思いっきり抱きよせて、強引にごまかして、どこかへ連れ込んで抱き合えば。これは、いつか忘れてくれる気の迷いなのだろうか。感情なのだろうか。どこまでも永遠にごまかしていける想いなのだろうか?
疑問と答え、それに次ぐ反論と新たな疑問。そのすべてが俺の脳内を瞬時に駆け巡り、
できないよ
という、小さな悲鳴のような自分の声を聞いてしまう。はなが社会にでてから、知らぬ間に俺の中に小さく小さく積み重ねられてきた尖ったガラス片が一気に押し寄せる様が、目に見えるような気がした。自分の中でとめどなく流れている血すらも見えるようで、それは、俺が自分を長い間ひどく痛めつけ、知らぬふりをしてきた結果だった。きっと、もう、耐え続けることはできないのだ。
「別れよう、はな。」
口にしてしまえば、なんてあっけない言葉なんだろう。
はなは、一瞬、驚いた顔をして、それからひどく納得のいったような、安心したような表情へとそれは変わった。こくり、と小さくうなづいて、一回だけ、恐る恐る俺を抱きしめた。弟をなぐさめるような、それはひどく痛くてやさしい抱擁だった。
始めるのにも、終わるのにも、必死だったのは、俺だけだったのか。去っていくはなの後ろ姿は、それくらいひどく軽やかに見えた。
***
「兄貴?」
どれくらいこうしていたのか、突然、後ろから嫌に聞きなれた声が聞こえた。
「え、何、振り向かないってことは、まさか、兄貴泣いてるわけ?」
いやいや振り返れば、心の底から愉快で楽しそうな弟の表情が目に入った。今、この瞬間ほど身内に殺意を抱いたことはないと言いきれる。
「どこに涙が見えるか言ってみろ、こら。」
「とかなんとか、強がっちゃってー。心で泣いてんじゃないのー?」
持つべきものは、心の底から同性の兄弟じゃないな、とため息が出た。それでも、気を取り直して腕を伸ばしてみると思いのほか筋肉が凝り固まっていることに気付いて、あまりに長い間ここで微動だにしていなかったことに、気付く。翔に馬鹿にされても仕方ないか、と苦笑してしまった。
「今何時?つか、お前何しに来たんだよ。」
声もどこかかすれている。
「11時くらい?彼女に電話しにきた。」
「お前、部屋でかけろよ。」
「最近、母さんがうるさいんだよね。」
それはそうだろう。いくらなんでも、入学してから一貫して数カ月スパンで連れてくる女子が違えば、そんな反応にもなる。高1ならまだしも、いくらなんでももう高3になりかけている所だ。けれども、俺の返答も待たずに、翔は何代目かの彼女の番号を呼び出すべく、スマフォをいじり始めた。
「失恋した兄さんは、さっさとここを撤収した方が身のためだと思うけど。」
「あ?何だよ、失恋て。」
失恋、の2文字が頭の中でくるりと回転し、その間に翔は何も言わずににやにやしている。
「お前、まさか?」
「その“まさか”ですよ、兄さん。」
俺ってば、10時くらいにもここに来ようとしたんだよねー、と軽やかに語る弟に、脳内で一気に時間をさかのぼり、俺はがっくりと肩を落とした。
「きたねえぞ、盗み聞きかよ。」
「つか、お前さぁ、女性関係全般に関するその鼻の良さをどうにかしてくれっ!」
両手に顔を埋めたままで、俺は思わず叫ぶ。
「まぁまぁ、とにかく、今からすっげぇラブラブな会話が展開されるからさ。“失恋した”兄さんはさっさと帰った方がいいって?な?」
ぽんぽん、と肩をたたいて促され、もはや取っ組み合いをする程の幼さも、気力も、体力もなく、俺はリュックを荒々しく掴むとそのまま、傘をもって外へ出た。
ふと、外から明るいラウンジを窓ガラス越しに見ると、早速電話をかけた翔が無邪気に笑っている姿が浮かび上がっていた。
一瞬だけ、翔が俺に見えて、そう言えばあの時の俺はまだ高校生だったことを思い出す。あれは、雨の日でもなく、春でもなく、はなが里帰りをした夏だったというのに。
次から次へとあふれ出る甘くて痛すぎる思い出を振り切りたくて、「センター」とは真逆に視線をやりながら、家路を急ぐ。すると、“かりふぉるにあ・ふらっと”の看板が必然的に目に入った。俺は、“はらさん”にいちゃもんをつけながらも、この空間がすきな自分を知っている。それでも、この想い出があまりに痛すぎるままだったとしたら、俺も“ふらっと”に存在するものを重荷に感じる日がくるのだろうか。
それだけはひどく、寂しい気がしたのだった。