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薄紅の花びらをもてあそぶ指

 

 はらはら、ひらひらと舞う薄紅。

 宵闇と月灯りの中散るそれは、しろくも見える。

 だが、雪の純白ではない。

 (ほの)かにピンク色を落とした、何とも(はかな)い色。

 初々(ういうい)しいそれが散りゆく様は美しい。はっと胸を()く様な切なさはどこから来るのだろう。

 後から後から、時には風に吹き散らされて。しかし全ては散らされずにまたひらひらと一定のリズムで降り出す。

 それがどこか健気(けなげ)にも見え、心が洗われる様な気もした。

 ただただ見事である。

 ぼんやりと(なが)めていると、呆れた溜息が聞こえた。

司書殿(ししょどの)。教職員が学校の敷地内で飲酒はまずいでしょう」

 え、とぼんやりしたまま振り返ると、見慣れた生徒が威圧感(いあつかん)たっぷりに彼女を見据(みす)えていた。

 彼女は司書である。勤務時間が終わり、帰ろうと校門を出たところで、つい校庭の桜に見入ってしまった。

 丁度見頃で、あちらこちらのめぼしい公園では花見という名の酒盛りをしている時期。帰りがけに小さな公園で一人花見をするつもりで、(かばん)に冷やしたビールがあった。ふと彼女は思ったのだ。

 どうせ一人で飲むなら此処でいんじゃね?

 人はそれを悪魔の(ささや)きという。魔が差したのだ。

 しかし何とも面倒な相手に見つかったものだ。万事休す。

 何せ、相手は堅物(かたふつ)図書委員長である。此方(こちら)を不良司書と呼ばわり、嫌味ったらしく司書殿とも呼ぶ。

 隠れておやつを食べてるところやちょっとスマホをいじってたりするところを見られてるので、頭が上がらない。いや、サボってはいない。ちゃんと休憩時間だったんだ。……スマホいじってたのは就業時間内だが。

 月灯りと桜が絵になる美形なのがまたムカつく、と彼女は背に走る戦慄(せんりつ)誤魔化(ごまか)す。

 彼は(おのれ)(さわ)ぐ女子すらこの冷ややかな目で(にら)む。風紀委員の方が余程似合うが、やや線の細い彼は文学少年だ。大衆小説も読まない訳ではないが、純文学を好む。

 彼女は司書にはなったものの、大衆小説の方が好きだし、実用書も読むが、堅いものは駄目である。軽い読み物の方が好きだ。

 つまり、この二人、タイプが真逆である。

 常なら飛んでくるお小言が来ないので怪訝(けげん)に思った彼女が見上げてみると、ノンフレーム眼鏡の奥の目に、常の冷たさが無い。わけではないが、やわらいでいる。愁眉(しゅうび)を寄せ、じっと彼女を見ていた。

 何だ、私の顔に何か付いているのか。

「またフられたんですか。取り敢えず、見苦しいので顔を拭いたら如何(いかが)です?」

 見苦しいって何だ? 哀れまれた?

 ティッシュを差し出され、取り敢えず顔に触って驚いた。

「何で、」

 顔が濡れていた。泣いていたようだ。

 慌ててポケットを探るがティッシュは無く、無視された形になった彼がティッシュを持たせて来たので礼を言って拭く。マスカラは付けていないのでパンダにはならないが、パウダー叩いただけなので多分全部()がれただろう。すっぴんである。ショックだ。

 苦手な相手に何故こうも弱味を握られてしまうのか。

「っていうか、また、って言われる程フられてないから!」

「三、四カ月に一度はフられてますよね。十分多いのでは」

 彼女は思わず(うめ)く。

「……何故知っている」

「わかりやすいですよ、司書殿は」

 淡々と告げられるのが怖い。ダメだ、勝てる気がしない。

 彼は真っ暗な校舎を見上げる。運動部も文化部も帰り、空っぽな学校は静かだ。

「誰かに見られてはいなかった様ですが、あなた、本当に考えなしですね」

 振り返った彼の冷ややかな目が呆れている。

「……ほんとにな」

 先に図書館を出た彼がまさか帰ってなかったなんて。

「行きましょう。花見なら、もっといい場所があります」

 お小言が始まると思って溜息を吐いた彼女の手を、思いがけない台詞(せりふ)を吐いた彼が(つか)んだ。

「……は?」

 呆気に取られた彼女が顔を上げて問い返した時には、彼は歩き出している。

 ぽかんとするまま、住宅街を歩いた。月灯りや薄紅の、あの幻みたいな美しさではなく街灯や家々からこぼれる光の中を進んでいるのに、まだ夢の中に居るのではないかと彼女は疑念を抱く。

 何度(またた)いても、目をこすっても、頬をつねっても。

 あの堅物図書委員長が、己の手を引いて、街中を歩いている様に見える。

 やっぱり夢か、と思ったのは、数ブロック歩いた先で角を曲がり、目の前に薄紅の海が広がった時だ。

 壮観な眺めである。

 グラウンド程の池をぐるりと囲う桜並木。

 公園内には灯りはないが、街灯が申し訳程度に桜を照らしていた。

 池の周りの欄干(らんかん)からの眺めがまた、麗しい。

 風にさざ波を打つ水面を薄紅が漂い、月灯りや街灯を反射してキラキラと輝く。そこにはらはらと落ちる花びらが、表はしろく、裏は陰り舞う様といったら。

「すごいな……」

 ビール缶を彼がさっさと処分した事にすら気付かず、彼女は欄干から身を乗り出し、魅入(みい)られていた。

「酔い醒ましにどうぞ」

 入り口の自販機から買った熱々のコーヒー缶を、彼が差し出した。

「ん? ありがと……って、コレ無糖……」

 抗議しつつお手玉をする様に手の間で弾ませる。まだ冷たい夜風に冷えた手には熱過ぎた。

「ご存知ですか? 砂糖は白い悪魔の異名があるんですよ」

 眼鏡がきらりと剣呑(けんのん)に光った。

「ごめん知らない。別の白い悪魔なら知ってるけど」

「では、乳製品が白い疑惑という異名を(いただ)いている事は?」

 彼女は彼の眼鏡が放つ戦慄(せんりつ)の輝きの方が恐ろしい。

 蘊蓄(ウンチク)という名の処刑は要らない。絶対チクチク小言を混ぜて来る。

「うわー無糖でうれしーなー」

 棒読みで彼女が財布をごそごそ探ると、と無糖のコーヒー缶を飲む彼は結構ですと言った。

「いつものただのお節介ですので」

 お小言も蘊蓄も嫌味も言うが、彼は口を出すだけでなくきっちり仕事の手伝いという形で手も出して来る。パソコンの扱いにも慣れていて、タイピングも早くプリント等の作成もお手の物だ。本の補修(ほしゅう)なんていう手間暇(てまひま)と根気の要る作業も黙々と、そして丁寧(ていねい)にこなす。

 本当に心底から本の好きな男だ。

 彼が来年卒業してしまったらきっと彼女は残業が増える。

 憎たらしい事に熱がりもせず涼しい顔で彼はコーヒーを飲んでいた。

 こいつと花見とか気が重いなあと思いつつ、彼女は周りを見回す。

「ここ、誰も居ないのは何で?」

「敷物広げる場所は無いですし、池ですので。酔って落ちでもしたら大変でしょう。藻が多いし深いんです。底無しなんて言われてるくらいですから」

 道路から池に向かってすり鉢状の緩やかな勾配になっている。欄干はあるが、酔っ払いは何をするかわからないものだ。

 彼は入って来た方とは反対を指す。

「宴会は禁止ですし、すぐそこに交番があるんです。酔っ払いに注意しに来ますよ」

 ふうん、と(うなず)いて彼女はコーヒーを飲む。苦味に口が(ゆが)んだ。

 どうせ無糖なら緑茶が良かった、と思いはすれどもおごりである。年下、しかも生徒からのおごりというのも心境としては複雑だが、おごりにケチをつけるわけにはいかない。

「目が覚める苦さでしょう」

「え、やっぱ夢なのこれ」

 彼は(あお)いでいた桜から彼女へ視線を流す。怪訝な目は常通りだが、雪の様に降りしきる桜の中で彼を見ているこの現状は、現実味がない。

「だってお前が私を花見に誘うとかありえない」

「見るに見かねてです」

 彼は再び花へ視線を投げた。

「泣く子には勝てないものですよ」

 的確に弱点をえぐる男だ。

「あれはだな。フられたからとかじゃなくて」

 桜に見とれていたのだ。

「あなたは()れっぽくて()きやすい。何故もっとよく吟味(ぎんみ)しないんです」

「……ぎんみ?」

「本の入荷に関しては、慎重でしょう。一時の興味だけでなく、本当に必要かどうか、長く読まれるかどうか。あなたはちゃんと考えている」

「結局、お前の方が趣味がいいけどな」

 彼は純文学を好むが、実際には乱読家であり様々な本を読んでいる。生徒にアドバイスを貰うのはどうかと思うが、結局読むのは生徒だ。どんなものが好まれるのか、必要なのか。リクエストも受けているが、彼から貰うアドバイスはその死角を突いてくる。

「吟味ったってなあ……恋は考えてするもんじゃないからなあ……」

 フられた。確かにフられはしたのだ。

 そんなやさぐれた心を花びらが撫でていやしてくれる様で、見とれ、洗い流されたものが涙になったのだ、きっと。

 池に降り積もる花びらを眺めて彼女はぐすんと鼻を鳴らす。

「……そうですね。恋は考えてするものじゃあない」

 深い溜息が落ちて、彼女は意外な気持ちで振り返る。彼は彼女に背を向けていて、どんなかおをしているのかは判らなかった。

「気付いても一人では簡単に上がれない、蟻地獄みたいな罠です」

 常の淡々とした声音に、やや苦いものが混じる。

 何それこわい。

「お前を捕まえるなんて相当な手練れだろう。どこの女郎蜘蛛だ」

 条例はどこだ。毒牙にかけられた被害者が居るぞ、どうなってんだ。

 冷淡な目に呆れを混じらせて彼は彼女を見た。

「うかつで、狙った獲物すら狩れない人ですが」

 女郎蜘蛛にはなれませんよ、と疲れた溜息を吐いて彼はコーヒーを飲み干す。

「単なる同情と、思い違いです。思い切れないのはおれの甘さですが、考えた上で現状に甘んじているので。お気遣いなく」

「……深みにはまってないか、それ」

 浮上出来ないんじゃないのか。

「一時の気の迷いです。はしかみたいなものだというので、取り敢えずは現状を楽しもうかと」

「本当に大丈夫なのかお前」

 問うと、頷く彼の横顔がちらっと笑った様に見えた。瞬きする間にそれは消えてしまったので、気のせいかも知れないが。

 ほっとしたら何やらどっと疲れて、ふと見つけた桜の根元の花びらの吹き溜まりに、彼女は膝を抱えて腰を下ろした。

 座布団とはいかないが、柔らかくて丁度いい。窮屈(きゅうくつ)な襟首に指を掛け、一つボタンを外す。爽やかな風が、酒気を洗う。

「きれいだな……」

「そうですね」

 頷いた彼は、ふと眉を寄せた。眉間にきつくしわが寄る。

「見苦しいものを見せるな。せめて足くらいちゃんと閉じなさい」

 うわ、小言来た。と彼女は耳を塞ぐ。

「あなたという人は、どうしてそう……女性の自覚が足りないのか、大人としての常識が無いのか」

「何がだよ!」

「短いスカートで何故体育座りをするんですか、何故襟を寛げるんですか、露出狂なんですか?」

 堅物め!

「膝丈は短くない! 襟だってボタン一つ外しただけだろ! 熱いんだから襟寛げるくらいいいじゃないか!」

「公共の場ではふさわしくありません。中が見えるじゃないですか」

「そんな簡単に見えるわけないだろう!」

「見えます」

 額を押さえ、呻く様に言って彼は溜息を吐いた。

「女性なんですから少しは(つつ)ましくしたらどうなんです」

「十分慎ましいと思うけど。地味だし。どうせ私なんて地味なアラサーだし」

 地味地味言われてフられるの何度目だろ。いじけて下を向いた目が、近付いて来る革靴のつま先を見付けた。

「可愛いですよ」

 さらりとそんな言葉と共に、指が頭を撫でた。思わず振り仰ぐ。彼は常と変わらぬ温度の無い目で摘んだものをひらひらと振ってみせる。

「あなたでも、花びらを付けていればそれなりに可愛らしいですよ」

 だよね。こいつこういうキャラだよ。ああびっくりした。

「トキメキましたか?」

 こういう……キャラじゃないわ。違うだろ。平坦な声音で何言ってんの。堅物どこいった。

「ドジッ子なところも、見ようによってはチャームポイントでしょう。仕事上のミスには毎度イラッとさせられてますが」

「だよね、お前はこういうキャラだよ」

「あなたの天然で鈍いところは憎らしい反面、それはそれで愛すべき長所でもあるのでしょう。バカな子程可愛いと昔から言いますし」

 何なんだ。堅物図書委員長、お前一体何が言いたいんだ。

 彼女の目をじっと見つめた彼は溜息を吐く。

「一つだけ言わせて貰えば。男はよく吟味なさい。恋はホルモンが見せる幻です。だから、きらきらして見える。冷静に考えれば少しもいい相手だとは思えなくとも輝いて見えるものなんです。あれは悪魔の囁きですよ」

 妙に実感のこもった言葉である。

「……お前も苦労してるんだな」

「……のせいだと」

「うん?」

 彼は再び、今度は深い溜息を吐いた。舌打ちが聞こえたのは気のせいだ。お上品なこの堅物が舌打ちなんて下品な真似をする筈がない。うん。と彼女は一人で納得する。

「いえ。本当は進路の相談をしようかと思っていたんですが、とんだ道草でした」

「それはとんだ道草だな」

「ええ。帰ります」

 いつだってピンと伸びた真っ直ぐな背を見て、随分な大役を貰ったなあと嬉しく思いながら、それを押してやろうと彼女は口を開く。

「なれよ、司書に。迷うまでもなくお前向きの仕事だ」

 半ば背を向けていた彼が振り返った。

「自分の事で迷ったり相談するなんてお前らしくもないけど。私に相談しようとしてくれるなんて嬉しいよ」

 彼は一つ二つ瞬いて、綺麗に腰から折って辞儀をした。

 律儀だなあ。

 と思った彼女の手は彼に再び掴まれる。

「……帰らないのか?」

「駅まで送ります。あなた放っておくの心配なので。ボタンちゃんと止めて下さい」

「お前、年上に向かって子供扱いか」

「出来ないならおれが止めましょうか」

「出来る! ちっちゃい子供じゃないんだぞ!」

「ハイハイ」

「何だその返事! バカにしてる!」

「騒ぐと近所迷惑ですよ」

 面倒な酔っ払いの手を引いて、本当に出来た奴である。

 閑静な住宅街を抜けて、夜でも人で賑わす駅前の繁華街に出ても、彼は彼女の手をしっかり掴んでいた。

 駅の改札口を抜けて、彼女を電車に乗せて、電車の中で寝るな、アルコールを摂取したのだからちゃんと水分も()れ、と世話を焼いてから、反対方向の路線に乗って帰っていった。

 全く、堅物図書委員長ときたら。

 だが、骨ばった指がずっと薄紅の花びらを摘んだままだったのが何ともミスマッチで可笑しくて、ガタゴト揺れる電車を降りてからも、家に着いてからも彼女は思い出しては笑っていた。


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