9.強敵・ベヘモット
立ち去ろうとした私たちの背後に、巨大な魔物がいた。背中は湾曲して盛り上がり、太い四つ足が地面に食い込んでいる。全身は紫色で、異様な雰囲気がある。頭の角と太い尻尾に生えた鋭いいくつかのトゲが、さらに凶悪さを現していた。その魔物は怒りを表すように吠えた。
「何ッスかあいつ!?」
「ベヘモット――この国で最も凶悪な魔物です。まともに相手するのは危険ですから、逃げますよ」
ミシュエルはそう答えながら、手の辺りに魔力を集め始めた。放たれた魔力は煙となり、魔物の視界を奪う。
「今のうちに」
目くらまししている間に、私たちは駆け出した。獣道で走りにくいが、そんなことに構っている場合ではない。突っかかりそうになりながら、元の街道を目指す。背後で雄叫びが聞こえた。直後、地面を揺らす足音が追ってくる。ちらと後ろを振り向けば、案の定ベヘモットが追いかけてきていた。ミシュエルの起こした煙は吹き飛ばしてしまったらしく、真っ直ぐこちらに走ってくる。
「ちっ、あれだけじゃダメだってのかよ」
カイトが舌打ちし、背中の傘を手に取った。足を止めて振り返り、その先を魔物に向ける。
『弾けろ』
短い詠唱の後、光の弾が発射された。いくつもの光弾は魔物の顔に体に命中する。鋭く弾け、小爆発を起こしたが、ベヘモットはなおも突進してきた。
「効かねえ!?」
カイトは愕然と目を見開いた。太く鋭い角が迫ってくる。けれどカイトは硬直していた。まずい、と直観する。咄嗟にカイトに体当たりし、その勢いで横に倒れ込んで突進を避ける。魔物の体温が間近を通った気配がした。土の引きずられる音がして、地響きが止む。ベヘモットが止まったのだ。
体を起こして様子を確認する。ミシュエルとアッグは私が跳んだのとは反対方向に逃げていた。挟み撃ちでもあり、魔物に分断されているともいえる状況。ベヘモットは体の向きを変え、こちらを見た。というより、怒りに満ちた双眸がカイトを睨んでいた。攻撃されたことを怒っているのかもしれない。
――ガアアアッ!
吠えた魔物の体がぐん、と大きくなった。後ろ足で立ち上がったのだ。体ごと前足を持ち上げ、その高さは下手な木々よりも大きい。立ち上がった勢いで、今度は前足を振り下ろす。私もカイトもすぐさま起き上がり、後方に跳躍した。ズン、と前足が地面に食い込む。巨体が大地を揺らす。それだけでバランスを崩しかけた。吹き飛んだ砂利が弾丸のように全身にぶつかる。咄嗟に腕で顔を覆ったが、砂利はびしびしと服に当たった。
ベヘモットはさらにこちらを追ってくる。頭の鋭い角を突き出し、私たちを串刺しにしようとしてくる。木にぶつかると、大木も簡単に折れてしまった。倒れる木を避けながら、ひたすら距離を稼ぐ。それ以外、できることが思いつかなかった。
視界の端に赤がちらつく。見れば、アッグが魔物の後ろで斧を振り上げていた。こちらばかり狙ってくるから、背後にいる彼なら隙を突けると思ったのだろう。ベヘモットがアッグに気付いた。すでにアッグは斧を振りかぶっている。向きを変えるには遅いように見えた。
「待ちなさいアッグ! そいつは――」
ミシュエルの鋭い声が飛ぶ。皆まで言い終わらないうちに、魔物の太い尻尾がアッグに襲いかかる。攻撃しようとしていたアッグはまともにその攻撃を受けてしまった。トゲの部分でなかったのが不幸中の幸いだ。尻尾に叩きつけられたアッグは飛ばされ、背中から地面に落下する。ガシャン、と彼の鎧がけたたましい音を立てた。
「アッグ!」
私は彼の元へ走った。そんな私が無防備に見えたのか、魔物の鼻息を背中に感じる。角が背後に迫り、私は頭を低くした。角の一撃を頭上に感じる。ぎりぎりの間合いに肝を冷やし、それでも屈んだ姿勢から前方に跳躍した。
『種よ醒めろ』
ミシュエルの詠唱が聞こえた。魔物との距離が遠ざかったように感じる。振り向くと、植物のつるが何本も地面から現れ、巨体を締め付けて束縛していた。相手が動けない間に、私はアッグのそばまで行く。
「アッグ、しっかりして」
私が軽く頬を叩くと、彼は苦しそうにうめいた。攻撃を受けた部分の鎧がへこんでしまっている。私は剣を抜いて魔力を集め、彼に回復魔法をかけた。淡い光がアッグの傷を癒やし、痛みを取り除く。そこでアッグは上体を起こし、小さく首を振った。その間にカイトとミシュエルが駆け寄ってくる。
「アッグ、走れますか?」
「デュライアのおかげでなんとかいけるッス」
アッグは斧を持ち上げ、わずかにふらつきながらも立ち上がった。ベヘモットはまだ植物のつるに捕まっている。逃げるなら今のうちだ。私は剣を収め、みんなと走った。
ブチブチと嫌な音がした。雄叫びと、地響きが聞こえてくる。振り返るまでもない。ベヘモットがつるを引きちぎり、こちらに走ってきているのだ。枝や木々が折れる音も近づいてくる。
「なんなんだよあいつ! 強いにもほどがあるだろ!」
「ミシュエル! 何か対抗策はないんッスか?」
「そんなもの知っていればすでにやってます!」
逃げながらそんな会話を交わす。鋭い角と前足による攻撃、魔法も弾く強靱な体。さらには後ろからの攻撃も尻尾で対応する。どこをとっても隙のない相手に、もはや打つ手無しだった。ひたすら逃げて、相手が追うのを諦めるか、疲れるのを待つしかない。その前にこちらの体力が尽きてしまわないかが問題だ。今もすでに息が上がっている。息を吸い込むのさえつらい。
私は足を止めた。剣を抜き、振り向いて相手を見据える。逃げるのを諦めたのではない。一つ、考えが浮かんだのだ。といっても、もはや賭けだ。どうなるかわからない。けれど消極的に待つよりはいいと思えるし、駄目で元々だとも感じた。
「何やってるんだ、デュライア!」
後ろで悲鳴に似た声が聞こえる。私はそれを気にせず、呼吸を整えた。深呼吸で精神統一し、突撃してくる魔物をじっと見つめた。両手で剣を構え、待ち受ける。地響きが近づいてくる。相手の目が私をしっかり捉えている。恐怖が襲ってきて逃げ出したくなったが、必死に耐えた。まだだ、もう少し――。恐怖を押し込み、ぎりぎりまで相手を引き付ける。
円錐状の角が間近に迫った。突かれる、という瞬間で私は体をよじる。角を避け、同時に剣を水平に構えた。カウンターだと気付いた魔物が慌てて足踏みするのが見える。けれど、もう遅い。すでに切っ先が相手の右目を捉えていた。殺しきれなかった突進の勢いで剣が突き刺さる。腕に確かな手応えを感じる。細い剣は目ごと相手の頭を貫き、体液で濡れた白銀の切っ先が脳天から覗いていた。
「やったッス!」
後ろで歓喜の声が上がった。私も思わず笑みを浮かべる。これでどうにか――と思った矢先、私の体がぐんと持ち上がった。剣が刺さったまま、魔物が頭を持ち上げたのだ。痛みに苦しむベヘモットが激しく首を振る。勢いで剣が抜け、私は後ろに投げ出された。倒れ込むかに思えたが、思ったより柔らかく受け止められる。見上げると、ミシュエルがほっとした顔で私を見ていた。
ベヘモットが吠えた。今まで以上に激しい声だ。右目をつぶされ頭を貫かれたというのに、それでも倒れてくれないらしい。咆哮に合わせて、魔力が凝集した。それに伴い、風が吹き荒れる。木々が揺れ、森全体がざわめいているように錯覚した。やがて突風は渦を巻き、辺りの物を巻き上げる。魔物が起こした竜巻はどんどん大きくなり、やがて私たちも巻き込んだ。大きな空気の塊がぶつかり、足が地面から離れる。逆らうこともできないまま、風の流れに翻弄される。激しく振り回されもみくちゃにされ、頭がぐるぐるした。その衝撃に耐えきれず、私は意識を手放した。




