12.朝と川渡り
寝息だけが聞こえる部屋は、ひやりと冷たく感じた。ぶるりと身震いして、わずかに乱れた服を見やる。ため息を吐き、自分にあてられたベッドに座り直した。寝間着を脱いでいつもの旅装束に替える。ベストを羽織れば、寒さが和らいだ気がした。
「違う、お前はいつも※△@×……」
カイトがはっきりしない声で何か言った。驚いて振り向いてしまったが、当の本人は目を閉じたままだった。どうやら寝言だったらしい。どんな夢を見ているんだろう。そう考えると頬が緩む。そんな中、カイトのまぶたがゆっくりと上がった。眠たそうに瞬きして、視線を感じたのか私を見つめ返す。数回瞬きをした後、彼はあくびをして上体を起こした。
「……早いな、デュライア」
「目が覚めちゃったから」
驚いた顔で見つめてくる彼に、私は肩をすくめて答える。着替えた後で良かった。もしカイトが目を覚ますのが早かったら、まずい光景を見られてしまっただろう。こっそり安堵の息を漏らした私に気付かず、カイトは部屋を見回した。
「ミシュエルは?」
「顔を洗うって言ってたけど」
私が答えたちょうどそのとき、背後でドアの開く音がした。振り向くと、タオルを首に掛けたミシュエルがそこに立っていた。水色の前髪が毛先だけ濡れ、いつもよりまとまっている。彼はカイトの姿を認めて瞬きした。そしてにっこりと微笑みかける。
「おはよう、カイト」
「ああ、おはよ」
カイトもまたミシュエルに笑いかける。いつもの仏頂面とは全く違う、穏やかな顔。こういうのを見る度に、二人は信頼しているんだなあと感心したりするものだ。私も自然と笑顔になって、ベッドに腰掛け直した。ぼーっと天井を仰いでいると、カイトとミシュエルは着替え始めた。
「そういえば、今日は国境を越えるって言ってたっけ?」
何となく思い出して、支度を調える二人に尋ねた。私の言葉に、二人はこちらを振り向く。
「ええ。隣国のミストラル共和国へ行きます」
微笑みながらミシュエルが答えた。ミストラル共和国とは、ここからシルフェリオまでの間にある国だ。
「準備ができたらすぐに出発するぞ。……って、お前はいつまで寝てるんだ」
着替え終えたカイトがアッグを小突く。それでもアッグはお腹を掻いて寝返りを打っただけだった。起きる気配がまったくない。
「アッグ、そろそろ朝食にしようと思うんだけど」
「ええっ、飯ッスか!? 今すぐ準備するから置いていかないで欲しいッス!」
私が声をかけた途端、アッグは勢いよく飛び起きた。慌ただしく着替えを取り出し、装備を調え出す。そんな彼を、カイトは呆れたように見つめていた。
「ったく、だったらさっさと起きろよ」
「うう、カイトの鬼畜!」
ぎゃあぎゃあと言い合いが始まってしまう。この二人、仲がいいんだか悪いんだか。私はそっと苦笑を浮かべた。
「ほら、準備ができたのなら行こう?」
私の言葉に、三人は頷いてくれた。食堂へ降りて朝食を済ませる。それから私たちは、朝の冷たさが残る宿の外へと歩き出した。
主要道路を歩くこと数時間。私たちは大きな門の前にたどり着いた。それは広い河口の前にそびえ立っており、何人かの警備員が立っている。川には何艘かの小舟が浮いていた。
「大きな川ッスねー」
「あの河川がウォラレス王国とミストラル共和国を隔てる国境になっていますからね」
ミシュエルの話は、何となくわかる気がした。これだけ大きな川なら、行き来に制限がかかって当然だと思う。
私たちは門の前に並ぶ人の列に加わった。並んでいるのは旅人や商人なのだろうか。虎族やら狐族やら、様々な人が大きめの荷物を抱えて待っている。次に順番が回ってくるだろうかというところで、前の人たちが役人に止められた。
「困りますよ、荷物の運搬はここではやってないんです」
「けちけち言わないでくれよ~」
「だめです。その大きな荷物を持って行くなら、ここではなく向こうでお願いします」
どうやら運搬の制限でもめているらしい。前のグループは荷物を無理矢理でも載せようとし、役人の方は規則だからと彼らの要求を頑なに拒否していた。ただ、載せようとしている荷物は小舟に載せるには大きすぎて、このまま行けば危険だと思う。転覆でもしたら大ごとだ。だからこそ規則があり、役人さんももう少し大きい船に乗るよう誘導しているのだろう。
前のグループは乗せるようしつこく頼んでいたが、やがて諦めて立ち去った。すれ違いざま、舌打ちと悪態が聞こえた。いや、どう考えても彼らの方が悪いだろう。役人さんにとってはいい迷惑だ。
「何ッスか、あれ」
「おおかた、通行料を安くしようとでも企んでたんだろ」
カイトは冷ややかな目で彼らを見送っていた。曰く、商用の大きい船に乗る方が通行料がかかるから、一般の小舟で安くしたかったんじゃないかとのことらしい。気持ちはわかるけど、事故のリスクは考えなかったんだろうか。
「お待たせして申し訳ありません。お次の方どうぞ」
リザード族の役人さんが私たちに声をかけた。前に進み出ると、彼は背筋を伸ばして軽く咳払いする。
「では、身分証明になる物を提示してください」
言われたとおり、私は旅人協会の会員証を取り出した。役人さんは一人ずつそれを確認し、返して手を出した。
「四名様ですね? 通行料は一人2パースです」
「四人で8パースですか。わかりました」
ミシュエルが銀貨を取り出して手渡す。役人さんは枚数を確認し、にっこりと微笑んだ。
「確かに頂きました。それでは、良い旅を」
「ありがとうございます」
私は彼に会釈して、門をくぐった。前を向けば視界いっぱいにきらめく水面が現れる。その端、すらりと細長い小舟の傍で、人影が手招きしていた。操舵手らしきその人影はネズミ族の人で、船の上で人なつこい笑みを浮かべている。
「そちらさんは四人だね? この船に乗ってくだせえ」
「わかったッスー」
意気揚々とアッグが乗り込もうとしたとき、ネズミ族の人は手で彼を制した。
「おっと、鎧を着たあんさんはちょっと待っててくれねえか」
そんな風に止められて、アッグは不機嫌そうに頬を膨らませた。けれどアッグはプレートアーマーに斧という重装備で、おそらく私たちの中で一番総重量がある。沈む訳ではないそうだが、バランスを取るために指示に従って欲しいとのことだった。
「まず、エルフの兄ちゃんと傘しょったあんた。先に乗んな」
指で示された二人は、言われたとおり乗り込み、先頭の席に座る。先頭に重量が集中した船はわずかに傾いた。操舵手の人はアッグを指さす。
「で、つぎに鎧のあんさん。真ん中らへんにそっと乗ってくれ」
アッグは慎重に乗り込む。鎧の重量はかなりあるようで、片足を乗せただけでも船がゆらりと沈んだ。アッグが両足とも乗せてしまうと、小舟は反動で浮き沈みした。生じた波紋が穏やかな水面を乱す。落ち着いたところで、ネズミの人がちょいちょいと手招きした。
「最後に、軽そうなお嬢ちゃん。そっちの端っこに乗ってくだせえ」
私は頷いて、片足を船底に置いた。沈んだ感覚に、体重が吸収されたように錯覚する。私が完全に乗り込んでしまっても、それほど大きな揺れにはならなかった。
「それじゃ、出発しまっせ」
ネズミの人は小舟を繋いでいたロープをほどいた。細い棒で水底を押すと、小舟はゆっくりと進み出す。そのまま水の上を滑るように航行した。水面には波紋が現れ、時折流れが船体にぶつかる。その度に心地よい音が揺らした。川上を眺めれば、ゆらゆらと煌めいて眩しい。遠くに映る船の影も、全てが背景に溶け込んでいた。
私は再び近くに視線を向けた。水はすこし濁っていたが、藻に覆われた川底が見えた。一面緑色の背景に、さっと影が横切る。細長い影はあっという間に姿を眩ませてしまった。もう一度見えないだろうかと目をこらす。今度も確かに影が見えた。流れに逆らうように泳ぐそれは、水中を進むのに適した流線型をしている。細部まで見えた訳ではないが、魚で間違いないだろう。
「デュライア、何見てるッスか?」
「魚がいるなと思って」
アッグに問われ、私は顔を上げた。言われてアッグも身を乗り出す。
「ほんとッス。魚が泳いでるッス」
川だから魚くらいいる。それはわかっていたが、実際見つけるとうきうきしてしまう。捕まえるつもりはないけれど、姿を目で追うと心が弾む。今の私は子どものように好奇心に満ちた顔をしているのだろう。
「お客さん、この辺りは深いんで、あんまり身を乗り出さないほうがいいでっせ」
「あ、はい」
ネズミ族の人にたしなめられて、私は頬を掻いた。さっきまではしゃいでいた自分が恥ずかしい。顔を見られないように、今度はそっと水面を見つめた。日差しは強いけれど、舟の上はいくらか涼しい。ただ揺れる光を見つめているだけでも気分が紛れる気がした。




