死にたくないので夜会でドレスを脱ぎました
「この売女が!!」
平手とはいえ、渾身の力で殴られ、吹っ飛んだ私は机に後頭部をぶつけた。
重い衝撃に頭がちかちかする。
暴力をふるったのは、一応夫である男でジロラモという。
私の名前は、カリーヌ・カイレ。いや、カイレは旧姓だった。
今の私は、ズィクムント侯爵夫人だ。
「こんなに私が愛してやっているというのに、他の男に色目を使うなど! お前には侯爵夫人としての自覚はないのか!!」
夫が言い掛かりをつけている間にも、暴力は止まない。これが私の日常だ。
貧乏伯爵家の三女に生まれた私は、特に取柄のない平凡な令嬢だった。
成績も容姿も並。継ぐ家も爵位もないので、嫁ぎ先を見つけなければいけなかったのだが、何故か侯爵家からお声がかかった。
ズィクムント侯爵に悪い評判もなく、事業も順風満帆。令息はというと、賭博や他の女性の気配もなかった。上位貴族からの申し出に断る理由もなく、婚約期間を経て結婚した。
ジロラモが豹変したのは、それからだ。侯爵家に入り、逃げ場がなくなってから、夫となった男は本性を現した。
婚約期間の優しさと気遣いは、私を欺くための偽りの姿。相手方には利のない結婚で何故私をと疑念があったが、事あるごとに贈り物をされ、大切にされ、他の上位貴族の嫉妬からも守られ、”君となら穏やかな家庭を築けるのではないかと思って”という言葉を最終的には信じてしまった。
やはり、自分に都合のいい話などあるはずはなかったし、高位貴族の端くれとして、簡単に信じてしまったのは迂闊としか言いようがない。まあ、自分のような平凡な令嬢を嵌めて何の利が?というところを、その時点で見抜けるわけもなかったわけだが。それまでは、社交界にも何ひとつ黒い噂もなく、単なる好青年でしかなかったので尚更だ。
衝動的に暴力が抑えられないジロラモには、常に”それ”専用の人間がいたと後に聞いた。義母や義父も黙認の、体のいい生贄だったのだ、私は。
これまでは、身寄りのない孤児などが犠牲になっていたようで、噂にならなかったのもそのせいだったという。
これまで結婚の話が出なかったのは、ひとえにこの暴力癖のせいだった。妻に隠しきるのはさすがに無理だと前侯爵夫妻も悟っていたのだろう。というより、妻が暴力の対象になった場合、実家に力があると面倒なことになりかねない。
しかし、ジロラモももう20も半ばすぎ、結婚していないのは何か問題があるのではと囁かれ始めた。見目もよい高位貴族で、本人に問題がある以外で未婚の男性は他にいなかったからだ。
侯爵家としてそのような噂は見過ごせない。噂というのはときに、事業にも爵位の維持にも痛手を与えることがあるのだ。
まして調べられれば、確実に痛い腹を探られることになる。
そこで目を付けられたのは、平凡で目立たない、カリーヌ・カイレというわけだ。旧家というわけでもなく、目立つ功績もなく、困窮した伯爵家。それも三女。高位貴族との繋がりもない、友人もそれほど多くない、どこにでもいて、いなくなっても問題ないような、令嬢。
もし、不慮の事故で死んだとしても、誰も怪しまないだろうと。一度結婚という実績があれば、あらぬ噂もなくなると、そういうことらしかった。
「気が付かれましたか、奥様」
目覚めると自室の寝台の上だった。ずき、と頭が痛む。
頭を打った衝撃で気を失っていたらしく、侍医が呼ばれたとのこと。
この侍医も、侯爵家のお抱えである。つまり、そういうことだ。
「頭部の方は幸い、出血はなかったようですので、1週間もすれば完治するでしょう。お大事になさってください」
治療を終えると素早く侍医は立ち去る。使用人も必要以上に関わることはない。誰だって、侯爵の暴力にさらされるのは、痛い思いをするのは嫌だろうしねと皮肉気な笑みが浮かぶ。
ここに私の味方はいないが、積極的に夫側というわけではない。家の主人が妻に暴力をふるう様を見て、自分たちも虐げてもよいと判断し、冷遇してくるような使用人でないだけ、まだマシなのかもしれない。
しかし、今日は初めて顔をぶたれた。普段は表から見えるところ、顔などに傷を負わせることのなかった周到なジロラモが、今回に限ってそれほど我を忘れたのか。…いや、違うか。しばらく夜会の予定がないのを見越して、溜まっていた鬱憤を晴らしただけだ多分。
売女と言われたが、夜会で他の男性と踊ったくらいで、社交辞令のようなものだった。自分だって他の令嬢と踊っていたくせに、とも思う。言っても無駄だし、口答えするなと更に殴られるのは目に見えているが。
ジロラモが語る愛など、単なる口実だ。
愛を口にして、逆らうカリーヌが悪いのだと、自分が暴力をふるうのは、私に原因があるのだと、責任転嫁したいためだけの。
私を殴ったり蹴ったりしているときに、それはそれは楽しそうに笑みを浮かべているのが何よりの証拠だ。
泣いても許しを乞うても、暴力は止むことはなかった。
本当は愛されていないことなど、今では身に染みて理解している。せざるを得なかった。
始めこそ、自分の何が彼の気に障ったのだろうと悩んだが、回数を重ねるうちに、分かってきた。使用人たちの噂話も耳に入ってきたのもある。
ああ、自分は何と愚かだったのだろうかと、気付くのが遅すぎた。
結婚して半年、後悔ばかりが募っていく。
「……」
誰もいなくなった部屋は、静まり返っている。少しでも身じろぎすると痛みが走り、涙が溢れた。
いつまでこんなことが続くのだろう。
今日は本当に、死んでもおかしくなかったのだ。
いやだ。
死にたくない。
…しにたくない。
痛いのも、苦しいのも、もう嫌…。
誰か助けてと、声を上げても、助けが来ないことは身に染みるほど分かっている。
涙を拭い、考える。寝返りもしづらい中で、何とか逃れる方法を。
このまま、夫の暴力に耐えるのも、いずれは殺されるかもという恐怖に怯えながら暮らすのは嫌だ。
だが、きっと現状では、離婚は認められない。私がいくら夫の行状を訴えたところで、外面がよく、妻を愛しているふりのうまいジロラモが尻尾を見せるわけがない。
その場限りの嘘で、周囲は騙される。
公の場、夜会などが近づくと、その間までは自制はできるらしく、殴られた跡はうっすら残るくらいだというのもある。
それに、離婚するのならば、今後の身の振り方も考えねばならない。
実家は無理。
再婚などはもっと無理。際立った美貌や才覚でもあれば別だが、そんなもの私には備わっていない。
白い結婚などでもなかったから、傷物として扱われる私を望むものがいるとしたら、下手すればジロラモよりもひどい相手の可能性の方が高い。
平民という選択肢も浮かんだが、仮にジロラモ有責で離婚し、慰謝料がとれても、女1人で暮らせるものだろうか。自信がない。
やはりここは修道院しかないだろうか。
娼館? ごめんなさい…働いている方には申し訳ないけど、私には無理です…。
考えても考えても、正攻法では難しいというより、思いつかない。
もう、離婚か死か、選べと言われているようなものなのに、こんな窮地に妙案が浮かばない自分の頭脳が憎い…。
私がこのまま耐え続けたとして、死んだ後は事故として処理されるのは火を見るよりも明らかだ。
次の夜会は確か、王家主催だ。
それまでまた暴力を受けねばならないのかと思うと…いや待って。
王家主催の夜会。貴族が王族と顔を合わせる、数少ない機会。
これを利用できないだろうか?
そして、夜会前日。暴力をふるわれ始めてからは、ジロラモの機嫌を窺い、少しでも怒らせないようにしていたのだが。
「旦那様は、暴力をふるわないと死ぬご病気にでもかかっているのですか?」
挑発するように、嘲笑してみた。
みるみるうちに、怒りに染まる顔を見て、かかったと内心でほくそ笑んだ。
それからは、お決まりの、暴力タイムだ。
散々殴られ、罵られ、寝台で目覚めたのは、夜会当日。
夜会には出席の返事をしているので、当然支度を命じられた。
手首と首元まで隠れるレトロなドレスに急遽変更になったのは、予想通りで。
「王国の太陽である国王陛下、王国の月である王妃陛下に、ズィクムント侯爵家ジロラモ、妻のカリーヌがご挨拶いたします」
ジロラモに習い、頭をたれ最上の礼を執る。
鷹揚に頷く陛下と王妃様。
「おお、侯爵。夫人とは変わらず仲がよいようで、何よりだ」
「もったいないお言葉にございます」
「夫人も、もう結婚して半年か。そろそろ子も…夫人?」
唐突に、はらはらと涙を零し始めた私を見て、陛下が訝し気な表情をする。
「陛下…発言をお許しいただけますか…?」
「カリーヌ! 陛下の御前で何を…!!」
「よい許す。何があったのだ」
「実は…私は毎日、死と隣り合わせの生活をしているのです…」
「なっ! 何を言い出すんだ、カリーヌ!」
「どういうことだ。侯爵」
「いえ、私にも何がなんだか…」
「もう、陛下のお慈悲にお縋りするしか…」
私はその場に崩れ落ち、ただ泣いた。周囲の同情を買うように。
そして、王妃陛下に見せるように、手首まであったドレスの袖をまくり。
「…これは…!」
「毎日、毎日、夫から、暴力を受けているのです…」
「何を言うのだ、カリーヌ。それは昨日、君が転んでできた痣だろう?」
昨夜、ちょっとした行き違いで喧嘩してしまったので拗ねているのでしょう、とジロラモは続ける。
そうくると思ったわ。
「腕だけでは信じていただけないかもしれませんが、私の全身に打撲跡があります。必要とあらば、この場でドレスを脱ぎましょう」
「カリーヌ!!」
お目汚しではありますが、と私が言うと、王妃陛下は侍女に目配せした。
おそらく、部屋を用意してくれたのだと思う。
「ズィクムント侯爵夫人。侍女と王宮医を部屋に待機させました。そちらで確認いたしましょう」
「王妃陛下、それには及びません。妻は、」
「お黙りなさい」
何とか誤魔化そうとしたのだろう、ジロラモを王妃陛下が遮る。
「まずは確認しなければなりません。狂言で王家主催の夜会を乱そうとしたのならば、それ相応の罰を与える必要があります。その場合、責は夫人1人に負わせましょう。それでいいですね?」
王妃陛下にそこまで言われては、強引に私を連れ帰るなどもできないだろう。
ぐっと詰まったジロラモを横目に私は移動した。
控室にて、王宮の侍女に手を借り、ドレスを脱ぐ。
王宮医は私の身体に残る無数の痣を見て、痛まし気に顔を歪めた。
「これはひどい…胸部、腹部だけでなく、手や足など…。これは日常的に暴力を受けている跡ですな」
昨日真新しくついたものも含め、消えかかったのもある。
王宮医の言葉を聞いた侍女の1人が部屋を後にするのが見えた。
おそらく、報告に行ったのだろう。
王家主催の夜会は、主だった貴族たちはすべて参加している。
そんな中、少なくとも私の傷は事実だったことを知ると、どんな反応になるか。
ドレスを再び着直し、夜会の会場に戻ると、厳しい顔をした両陛下がいた。
「王宮医より、夫人の身体の痣などは、個人の不注意でつけられるものではないとの報告があった」
「っお待ちください、陛下!」
「黙れ、侯爵。そなたに発言は許してない」
慌てて取り繕うとしたジロラモを、陛下は制す。
「それが誰の手によるものか、調査を騎士団に命じる。偽証は罪と心得よ」
陛下のその言葉で、ズィクムント侯爵家の未来は確定した。
ジロラモはそれを聞き、憎々し気に私を睨んだが、知ったことではない。
騎士団の公正な調査により、ジロラモの暴力癖が暴かれ、侯爵家の敷地内には数えきれないほどの人骨が見つかった。
使用人たちも王家からの調査に、偽りを述べることはせず。
そうして、私への日常的な暴力が確認され、ジロラモ有責での離婚が認められた。
義両親もそれを黙認していたことを追及され、領地にて蟄居が命じられた。ジロラモは廃嫡に加え除籍、しかし野に放つのは危険とされ、監視付きの鉱山へと送られることになった。
ズィクムント侯爵家は、分家のものが跡を継ぐとのことだ。
私はというと。
慰謝料が侯爵家から支払われ、そのお金を修道院に入るために寄付した。寄付がないと入れないというわけではないが、今後のために。
実家に帰って再び結婚させられるのも御免だし、平民になって1人暮らしも難しいと判断した結果である。
もう誰かの機嫌を窺う必要もない。
暴力によって痛い思いをすることもない。
いつ死ぬかなんて、怯える必要もない。
「…今までで、一番穏やかな生活かも」
そう思う私は、貴族としては向いてなかったのかもしれないな。
了
蛇足ですが、”痛くもない腹を探られる”というのを、疚しいことがあるので、痛い腹を~という表現にしています。




