婚約破棄されたので、光る蝶が舞う黄昏の花園で毒草栽培はじめます~前世は農学部、蝶々は全部私の眷属です♪~
「毒使いの令嬢との婚約は破棄する。お前の陰気な花園ごと、王家は不要だ」
王城の大広間。シャンデリアの光の下、王太子リオネル・ヴァルデが高らかに宣言した。
居並ぶ貴族たちのざわめき。扇の陰で交わされる嘲笑。その中心に立たされた私――セレナ・アッシュフィールドは、ただ静かに立っていた。
(え、待って。婚約破棄? つまり――あの面倒くさい社交界から解放されて、一日中あの花園で植物いじりしていいってこと?)
心の中で、私の前世――佐倉澪がガッツポーズを決めた。
(最高では?)
前世は農学部卒、種苗メーカー勤めの社畜。過労で倒れて、気づいたらこの世界の公爵令嬢だった。残業も終電もない世界。あるのは、夕暮れに光る蝶が舞う『黄昏の花園』。私の唯一にして最愛の楽園。
だというのに、この国の人間ときたら。
「セレナ様は珍しい毒草を育てておられるとか」
「まあ、恐ろしい。毒使いの陰気令嬢ですわね」
――薬草だよ。薬草。ちゃんと解毒薬にも治療薬にもなるんだよ。あんたたちが飲んでる薬、半分くらい私の花園産なんだけど。
まあ、言わないけど。
リオネル王太子の隣では、桃色の巻き髪の少女が可憐に微笑んでいた。男爵令嬢ミレイユ・カロン。
「セレナ様は……毒草で、王家を害そうとなさったのですわ。わたくし、聖女の力で気づいてしまって……」
潤んだ瞳。震える声。庇護欲をそそる完璧な演技。
(へえ。聖女の力ねえ)
私は表情を変えなかった。変える必要がなかった。だって私は、この茶番の結末を、もう知っているから。
「かしこまりました」
私は静かに、深く一礼した。
この『かしこまりました』が、拒絶と皮肉の合図であることを――彼らはまだ、誰も知らない。
*
「聞いたか、この毒女は謝罪もせぬ」
リオネルが勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「王家の慈悲に感謝することだ。本来なら牢に繋いでもよいところ――」
「ええ、感謝いたしますわ」
私はにっこりと微笑んだ。淡々と、しかし確かに。
「では、失礼して。花園は私の私有地ですので、当然一緒に出ていかせていただきますね」
一瞬、広間が静まり返った。
「……は?」
リオネルの間の抜けた声。
私は懐から、古びた羊皮紙を取り出した。前公爵夫人――亡き母が、個人名義で遺した権利書。
「『黄昏の花園』は、アッシュフィールド家の領地ではなく、母セレスティア個人の所有物。相続したのは、娘である私。王家にも公爵家にも、一切の権利はございません」
「な……そんな庭など、どうでもいい! たかが陰気な毒草畑ではないか!」
(うん、そう思っててくれると助かる)
心の中でにやりと笑う。
この人たちは知らない。あの花園が、王都に流通する解毒薬・治療薬の唯一の供給源だということを。ミレイユの『聖女治癒』の正体が、私が密かに献上し続けていた花園産の秘薬だということを。
知らないまま、自分から手放してくれる。
(前世で学んだんだよね。無能な上司ほど、有能な部下の価値に気づかない。そして辞めてから初めて青ざめる)
「では、これにて」
もう一度、丁寧に一礼。私は踵を返した。銀灰色の髪が、シャンデリアの光を受けて揺れる。
背後で、リオネルが何か喚いていた。ミレイユが甲高く笑っていた。どうでもよかった。
私の頭の中は、もう次のことでいっぱいだったから。
(さて。どこの土地で花園を再現しようかな。日当たりと水はけ、あと魔素濃度も測らなきゃ……ああ、楽しみ!)
楽園を持って、私は城を出た。
*
辺境。王都から馬車で七日。
見渡す限りの荒れた休耕地に、私は立っていた。
「……ここ、いいなあ」
思わず本音が漏れる。魔素は豊富、水源も近い。誰も手をつけていない広大な土地。前世なら喉から手が出るほど欲しかった実験圃場だ。
肩に、ふわりと重みが乗った。
金色に輝く、ひときわ大きな蝶。光る蝶の長――私が『ルーチェ』と名付けた子だ。羽ばたきの明滅が、まるで「ここでいいの?」と問いかけているようだった。
「うん。ここにしよう」
ルーチェが嬉しそうに翅を震わせる。すると、どこからともなく無数の光る蝶が集まってきた。夕暮れの空気に、金と銀の光が舞う。
受粉精霊。花園の魔力を運ぶ、私にしか懐かない眷属たち。
私は土に膝をつき、種を蒔き始めた。前世の農学知識と、この世界で得た植物鑑定スキル。そして光る蝶の力。
三日で芽が出た。七日で花が咲いた。
黄昏時、辺境の休耕地に、光る蝶が舞う『黄昏の花園』が――蘇った。
「……はぁ。最高」
夕日を浴びながら、私は深く息を吐いた。
前世じゃ残業ばっかりで、趣味の時間なんてゼロだった。休日は泥のように眠るだけ。好きな植物に触れる時間なんて、どこにもなかった。
(でも、今世は違う)
土の匂い。花の香り。蝶の光。
(私は、私の好きなものに囲まれて生きる。誰にも文句は言わせない)
それが、私のたった一つの、譲れない価値観。
ルーチェが、私の頭の上でくるりと舞った。まるで「その意気だ」と言うように。
*
花園を開いて半月。私はさっそく、近くの街の冒険者ギルドに素材を卸してみた。
結果は――
「な、なんだこの解毒薬は! 上位種の毒がきれいさっぱり消えたぞ!」
「このポーション素材、純度が異常だ……どこで手に入れた!?」
大騒ぎになった。
(まあ、そうなるよね。魔素飽和状態で育てた最適個体だもん)
内心ホクホクしながら、私は淡々と対応した。名前は伏せて、『黄昏の花園』の名だけを告げて。
そんなある日。花園に、腰の曲がった小柄な老婆がやってきた。片目に古びた単眼鏡。じろりと私を、いや、私の育てた薬草を睨めつける。
「……ふん」
老婆は一株の薬草をつまみ上げ、しばらく無言で観察した。それから、ぎろりと私を見た。
「この調合、宮廷医が束になっても真似できやしないよ。魔素の乗せ方、収穫のタイミング……素人の仕事じゃない」
「恐れ入ります」
「あんた、ただの令嬢じゃないね」
私は少しだけ、口の端を上げた。
「――ノーラ・グリム。昔は王都で薬師をやってた。権威主義の宮廷医療に嫌気がさして流れてきた老いぼれさ」
王都で。薬師を。
(この人……もしかして、いろいろ知ってる?)
「ねえ、おばあさん」私は静かに尋ねた。「王都の『聖女様』の治癒って、最近どう?」
ノーラの単眼鏡が、きらりと光った。
「……ふん。妙なことを聞くね。あの偽物のことかい」
偽物。その一言で、私はこの老婆が信頼できると確信した。
「悪くない調合だ」ノーラは薬草をそっと戻した。「あたしゃ、ここに居座らせてもらうよ。文句あるかい?」
「いいえ。大歓迎です」
こうして、花園に最初の仲間が加わった。そして――辛口の老薬師は、後に『種明かしの生き証人』となる。まだ、誰も知らないけれど。
*
「――辺境伯様が、お会いになりたいと」
ノーラの言葉に、私は首を傾げた。
アルヴィス・ドラグヘイム。この辺境を治める竜人の辺境伯。『冷酷無比の竜殺し』と諸国に恐れられる強キャラ。
(うわ、面倒くさそう……でも、領主に挨拶しとかないと後が面倒だしなあ)
手土産に、花園の花蜜を練り込んだクッキーを焼いて、辺境伯城へ向かった。
応接間の扉を開けて――私は固まった。
身の丈二メートル近い巨躯。黒鱗の紋様。赤い縦長の瞳。噂通りの威圧感。
だが。その巨体は、椅子に収まりきらず、床に正座していた。
「……」
沈黙。恐ろしいほどの沈黙。
私はテーブルに、クッキーの包みを置いた。
「ご挨拶が遅れました。花園を営んでおります、セレナと申します。よろしければ、こちらを」
アルヴィスの赤い瞳が、クッキーに落ちた。
そのとき――肩に乗っていたルーチェが、ふわりと舞い立ち、彼の角の先にちょこんと止まった。
巨大な竜人の顔が、みるみる緩んだ。
「……蝶」ぼそり、と。「……光って、いる」
(あ、この人。蝶に完全にデレてる)
アルヴィスは恐る恐る、太い指でクッキーを一枚つまみ、口に運んだ。
咀嚼。沈黙。
そして――角の付け根が、じわじわと赤く染まっていった。
「……もう一枚、いいだろうか」
絞り出すような声。冷酷無比の竜殺しが、耳を赤くして、クッキーのおかわりを乞うている。
(……なにこれ。かわいい)
私は思わず、ふっと笑ってしまった。婚約破棄されて以来、初めて心から笑った気がした。
「ええ、どうぞ。たくさんございますので」
アルヴィスは、それはもう幸せそうにクッキーを頬張った。ルーチェが彼の頭の上でご機嫌に舞う。
「……セレナ殿」ぽつり、と彼は言った。「あなたは、花園と秘薬をもたらす、得難い取引相手だ。身分も、噂も、私には関係ない。……対等に、付き合ってほしい」
身分でも噂でもなく、私自身を、対等に。
王都では誰一人、そう言ってくれなかったのに。
「……こちらこそ」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
この不器用でポンコツな竜人が、後に私の隣に立つことになるなんて――このときの私は、まだ知らなかった。
*
――王都は、地獄と化していた。
原因不明の疫病。高熱、発疹、そして解毒薬の効かない毒素。日に日に倒れる者が増え、貴族街にまで病は広がっていた。
王城の一室。王太子リオネルは、苛立ちに爪を噛んでいた。
「どういうことだ! 聖女の治癒はどうした!」
「そ、それが……」侍従が青ざめる。「ミレイユ様の力が……まるで、効かず……」
寝台の傍らで、ミレイユ・カロンは震えていた。
(なんで。なんで効かないの)
いつもは、手をかざせば病人が回復した。それで『聖女』と讃えられた。ちやほやされた。
だが今は――何をしても、患者は苦しむばかり。
「わ、わたくし、聖女ですのよ……!?」
悲鳴のような声。だが、誰も振り返らない。効果のない祈りに、もう誰も期待していなかった。
(あの薬……セレナ様が、毎月わたくしに届けていた、あの小瓶……)
ミレイユの背筋を、冷たいものが走った。
そうだ。あの秘薬を、患者に飲ませていただけ。手をかざすのは、ただの演出。薬の在庫は――とっくに、底をついていた。
セレナが、王都を去ってから。
(まさか。まさか、あれが……全部……)
「聖女! なぜ黙っている! 早く病を治さぬか!」
リオネルが怒鳴る。だが、その顔にも隠しきれない焦燥が滲んでいた。彼もまた、うっすらと気づき始めていた。手放したものの、正体に。
「王家の名において……解毒薬をかき集めよ! 全国から!」
「陛下、それが……国中の解毒薬が、もとをたどれば、すべて同じ供給源で……」
「なんだと」
「『黄昏の花園』、と……」
広間が、凍りついた。
リオネルの顔から、血の気が引いていく。陰気で不気味だと切り捨てた、あの毒使いの令嬢の庭。
(まさか。まさか、あの女――)
窓の外、王都の空に、病を告げる弔いの鐘が鳴り響いていた。
*
その日、辺境伯城に、王都からの使者が跪いた。
みすぼらしいマントに、憔悴した顔。かつての傲慢な王太子リオネル本人だった。
「セレナ……いや、セレナ殿」
声が震えていた。
「頼む。花園を――いや、貴殿の力を、王都に戻してほしい。疫病が、民が、死んでいくのだ」
私は、光る蝶を従え、静かに彼を見下ろした。背後には、腕を組んだアルヴィスが山のように佇んでいる。
「あら」
私は、ゆっくりと微笑んだ。
「毒使いの陰気令嬢の花園が、必要なんですか?」
リオネルの顔が歪む。
「あ、あれは、言葉の綾で――」
「でも私、もう解雇されたので」
淡々と。しかし、氷のように。
「『陰気な花園ごと、王家は不要だ』。たしか、そう仰いましたよね。大勢の前で。私、ちゃんと覚えておりますわ」
「っ……」
「それに――」
私は、隣を舞うルーチェにそっと指を差し出した。金色の蝶が、愛おしげに私の指に止まる。
「花園は、私を大切にしてくれる人のところにしか咲きませんの」
花園がなぜ私にしか従わないのか。光る蝶がなぜ私にしか懐かないのか。それは、比喩でも脅しでもなく――ただの、事実。
「そこな男爵令嬢に頼まれてはいかが? 聖女様なのでしょう?」
リオネルの背後で、同行していたミレイユが、びくりと肩を震わせた。
そこへ、ノーラが単眼鏡を光らせながら進み出た。
「王太子殿下。あたしゃ元・王都の薬師、ノーラ・グリムだ」老婆の声が、朗々と響く。「はっきり言わせてもらおう。その娘の『聖女治癒』は、まやかしだ。すべて、セレナ様が献上していた花園産の秘薬の効果。あたしゃ調合の癖まで見抜いてる。証言してもいい」
「な……」
ミレイユの顔から、可憐な仮面が剥がれ落ちた。
「ち、違います! わたくしは、聖女で――わたくし、聖女ですのよ!?」
もう、誰も信じなかった。
静寂の中、私はただ一言、告げた。
「――かしこまりました。ですが、お断りいたします」
拒絶の合図。
光る蝶が、いっせいに舞い上がり、黄昏の空を金色に染めた。
*
王都は、選択を迫られた。
花園産の秘薬なしでは、疫病は収まらない。国は立ち行かない。
そして真相は、公の場で白日の下に晒された。
ミレイユの聖女詐称。リオネルの無能。彼らが切り捨てた『陰気な毒使い令嬢』こそが、王国医療の生命線だったという事実。
自ら仕掛けた断罪劇の論理が、そっくりそのまま彼ら自身に跳ね返った。
王家は、辺境伯領――すなわち、私と正式な交易契約を結ばざるを得なくなった。秘薬の供給と引き換えに。政治的主導権は、辺境へ。
リオネルは王太子の座を退き、ミレイユは男爵家からも見放された。
(失ってから気づく、か)
私は、契約書に淡々とサインしながら思う。前世でもよく見た光景だ。有能な人材を軽んじ、去られて初めて青ざめる。
でも、もう遅い。いつだって、遅いのだ。
「セレナ殿」
隣で、アルヴィスが低く言った。
「無理を、していないか」
心配してくれている。不器用に、まっすぐに。
「いいえ」私は首を振った。「むしろ、すっきりしました。……ちゃんと、けじめがついたので」
王都のことは、もういい。私の世界は、この花園と、ここに集う温かい人たちの中にあるのだから。
黄昏が、辺境の花園を染めていく。光る蝶が、ゆっくりと舞っていた。
*
黄昏の花園。
一日の仕事を終えて、私は花壇の縁に腰かけていた。光る蝶が、夕暮れの空気に金色の軌跡を描いて舞う。
「……セレナ殿」
背後から、のっそりとアルヴィスがやってきた。その手には――花束。
お世辞にも上手とは言えない、不器用に握られた、野の花の花束。
(え)
私は目を瞬いた。
アルヴィスの角の付け根が、じわじわと赤くなっていく。彼はぎこちなく、それを私に差し出した。
「……その」
言葉が続かない。感情表現が絶望的に不器用なこの竜人は、いつも贈り物を無言で積み上げるだけ。
でも今日は、自分で花を摘んで、渡そうとしている。私のために。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。前世で、こんなふうに誰かに大切にされたことなんて、あっただろうか。
残業続きで、誰にも顧みられず、ただ消耗していくだけだった日々。報われなかった、あの人生。
(でも――今は)
花束を受け取ると、ふわりと甘い花の香りがした。
私は、そっと微笑んだ。
「……クッキー、おかわりいります?」
アルヴィスの赤い瞳が、ぱっと輝いた。
「……いる」
即答。
私は思わず、声を上げて笑ってしまった。
光る蝶が、ふたりの周りをくるくると舞う。ルーチェが、まるで祝福するように、私とアルヴィスの間を行き来した。
黄昏の花園。前世で報われなかった彼女は――佐倉澪だった私は、今、確かに満たされている。
好きなものに囲まれて。大切な人の隣で。
これ以上の幸せが、あるだろうか。
(最高では?)
*
その夜。
花園の最奥で、異変が起きていた。
光る蝶たちが、ざわめいている。ルーチェが、いつになく落ち着かない様子で、私の頭の上を旋回していた。
「どうしたの、ルーチェ」
私は蝶に導かれるまま、花園のいちばん奥――誰も足を踏み入れたことのない、古い一角へと進んだ。
そこに、それはあった。黒みを帯びた、ひときわ大きな蕾。
植物鑑定スキルを向けても――『?????』と表示されるだけ。前世の知識にも、この世界の図鑑にも、載っていない。
「なにこれ……」
蕾は、月光ではなく、黄昏の残光を吸って、かすかに脈打っているように見えた。
そのとき、蕾の先端が、ほんの少しだけ、ほころんだ。
瞬間――花園中の光る蝶が、いっせいに輝きを増した。金と銀の光が、夜の花園を昼のように照らし出す。
「!」
ルーチェが、ひときわ強く輝いた。まるで、何かを告げるように。何かを、待ちわびるように。
(『黄昏にだけ咲く花』……)
背筋を、ぞくりとした予感が駆け抜ける。
この花が咲いたとき、いったい何が起こるのか。何を、呼び寄せるのか。
それは――まだ、誰も知らない。私も。ルーチェも。あの不器用な竜人も。
蕾は、静かに、確かに、その時を待っていた。黄昏の花園の、次なる物語の幕開けを告げるように。
(……ま、明日ちゃんと観察日誌つけよう)
私は、ふっと肩の力を抜いて笑った。
どんな謎も、どんな出会いも。この花園でなら、きっと楽しめる気がしたから。
――つづく。




