何かが変わった
朝の改札は、相変わらず人が多い。
流れは一定で、立ち止まる余地なんてないはずなのに、カレンは人波に押されながら、ふと足を止めそうになった。
――あれ?
今、誰かに呼ばれた気がした。
はっきりした声じゃない。名前でもない。でも、確かに「自分」に向けられた感覚。
振り返っても、そこにあるのは知らない背中ばかり。
「……気のせいか」
そう呟いて歩き出す。なのに、胸の奥が、すっと冷えた。
最近、こういうことが増えている。音が、一拍遅れて届く。誰かの声が、膜を一枚挟んだみたいに遠い。色が、必要以上に強く見える。とくに、夕方。
(なんでよ)
受付カウンターに立ち、いつもの笑顔を貼り付ける。
「いらっしゃいませ」
鏡に映る自分は、たぶん、いつも通りだ。
でも、目の前の男性の声が、少し遠い。
ふと視線を落とした自分の手首。スーツの袖の下に、もう消えたはずの文字が、ある気がした。
『――これは夢じゃないから』
(……しつこい)
指でなぞっても、肌は滑らかで、何も書いていない。
夢。そう。全部、夢。
異世界、城、魔石。
「……ないない」
心の中で強く否定する。現実は、ここだ。
「最近、雰囲気変わりました?」
突然、業者の男性が言った。
「なんていうか……前より、目立つっていうか」
「よく言われます~」
適当に笑って返しながら、カレンは胸の奥で何かがカチリと音を立てるのを感じた。
目立つんじゃない。
「引き寄せている」のだ。
異世界でも、現実でも。厄介なものほど、重たい感情ほど、自然とこちらに寄ってくる。
(……冗談じゃないわ)
仕事を終え、ビルを出ると、街全体がオレンジ色に染まっていた。
その色を見た瞬間、心臓が、きゅっと縮んだ。
理由はない。でも、はっきりと分かる。
(これ、アタシひとりの問題じゃない)
考えるより先に、足が動いていた。会いに行けばいい。確かめればいい。
「あいつ」なら、覚えているかもしれない。
町外れの、埃っぽい事務所。
裏に回ると、優斗がいた。
黙々と段ボールを畳んでいる、無駄のない動き。少し疲れたような背中。それを見た瞬間、胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「……あいかわらず、厄介押し付けられ係ね」
皮肉まじりに声をかけると、彼はゆっくり振り返った。
「君か」
驚きもしないその声に、カレンは一度だけ唇を噛み、短く言った。
「話したいんだけど」
夕方の公園。ブランコの鎖が風に揺れて、かすかに鳴る。
ベンチに並んで座り、カレンは前を向いたまま問いかけた。
「……最近、アタシと会ったこと……ある?」
僕は隣で、彼女の横顔を見ながら小さく息をついた。
「何言ってるんだよ。王都アルミナに行ったじゃん」
同じ光の中にいたのだ。
オレンジ。
温かくて、切なくて、何かが終わる直前みたいな色。
言葉は、もういらなかった。
世界は、赤や青や黄色だけじゃ足りない。いろんな色が混ざり合って、光になって、二人の肩に落ちる。
「……ねえ、聞いてる?」
隣から飛んできたカレンの声に、僕は「聞いてるよ」と適当な嘘をついた。
本当は、話半分だ。
(……せっかくの夕焼けだけど、このあと事務所に戻って、不法投棄の報告書を書かなきゃいけないんだよな)
僕は心の中で、誰にも届かない溜め息をつく。
異世界でも、現世でも。結局、僕の日常はオレンジ色に染まった「厄介ごと」で溢れている。
「せっかく会いに来てやったのに、何よ!」
「確かめに来ただけだろ。自分でも信じられないんだから」
「今度は、イケメンだらけの王子様の国に行きたいわ」
「ハイハイ。僕は同行しませんけど」
「あんたが同行したら厄介事ばかりになるからお断りだわ」
「一番厄介なのは、君だ。ホント」
口を動かしながら、ふと思う。
人間の肉体には魂が宿るというけれど、それは肉体に縛られた存在じゃないのかもしれない。
眠るたび、魂は自由に境界線を越えて、異世界へと溶け出していく。
本人が「夢」だと自分を騙しているだけで、あの石畳も、あの戦いも、確かに僕らの地続きにある現実だ。
「……あ」
カレンの歩幅が、少しだけ僕に合わせるように緩やかになったことに気づく。
僕はそれを指摘するほど野暮じゃない。
『伝説の苦情係』。
向こうの世界でいつの間にか背負わされた、変な名。
ただ、そこにいただけなのに。……まあ、いいか。
騒がしい彼女を隣に連れて、僕はオレンジ色の街を歩く。
たぶん、今日の夢の中でも、僕は彼女の文句に付き合わされることになるんだろう。
「……まあ、悪くないか」
独り言は、夕暮れの風に消えた。
オレンジ色のきらめきが、僕らの背中を静かに追いかけていた。
読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。




