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バリ島のあとの仕事




電話の声は、少しだけ焼けたような響きがあった。

喉の奥に、南の海の色がまだ残っているみたいだった。


「お正月休みに、バリ島へ旅行したんです」


そこまで言うと、言葉が一気にほどけた。


「こんな世界があるんだって、もう衝撃で。海も、人も、空気も、全部がゆっくりしていて」


「『仕事だけの人生なんて無意味だ』って思ってしまって」


電話越しなのに、波の音が聞こえた気がした。


もちろん実際には、相談室のエアコンの低い唸りだけだ。


そして、淡々と続けた。


「会社を辞めました。勢いで」


「定年まで続けるなんて地獄だと思ったんです。でも、たいしたスキルもないです」


言葉の最後が、海岸に砕ける波みたいに小さくなった。


少し息を吸ってから、言葉を落とす。


「辞めてみて、何も決めていなかったことに愕然としました。生活していかなきゃいけない」


「夢と生活って、正反対ですね。不安で眠れません」


僕はメモを取りながら思う。

南の島の余韻と、請求書の現実は相性が悪い。


「確認させてください」


仕事声が、口を勝手に動かす。


「退職はすでに完了していますか」


「はい。上司に言って、その場で。止められましたけど……」


その『止められましたけど』の後ろに、

いろんな表情がまとめて入っている気がした。


「現在の生活に差し迫った危険はありますか。住居や食事など」


「今すぐ困るわけじゃありません。ただ、将来が怖いです」


そこまで言われると、こちらの言葉は慎重になる。

軽い励ましは、時々ナイフになる。


「まず一つ、お伝えします」


自分に言い聞かせるみたいに、ゆっくり言った。


「『バリ島に感動した』ことも、『退職した』ことも、

 どちらも間違いとも正解とも断定できません。

 人生の選択だからです」


受話器の向こうで、小さく息をつく音。

肯定とも否定ともつかない、波の引く音に似ていた。


「ただ、不安で眠れない状況が続く場合は、

 相談できる専門窓口があります。

 仕事に戻るかどうかとは別に、

 『眠れない自分を助けるための窓口』です」


少しの沈黙。波打ち際みたいな静けさ。

寄せては返す考えの足音が、電話越しに響く。


「相談してよかったです」


その声は、ほんの少しだけ軽くなっていた。


「バリ島に行ったの、やっぱり良かった気がしてきました」


通話が切れた。


受話器を置き、天井を見上げる。

――南国パラダイスは人を変える。問題は、そのあとだ。


仕事だけの人生が地獄なら、

仕事なしの人生は真空だ。


真空は何も燃えない。

でも、静かに音を奪っていく。


灰色の机をさんざん眺めてから見る海のブルーのほうが、

きっと、いっそう鮮やかだろう。


僕は冷めかけたコーヒーを一口飲み、心の中でつぶやいた。


バリ島には魔法がある。

その魔法が覚めたときに、現実がそっと立っている。


胸の奥で、青いボールが、ジイィ、と鳴った。

転がりもせず、その場で小さく震えていた。



【優斗:追記】


宝くじ当たらないかなぁ~。


【会社員の男性:追記】


庭から石油でないかなぁ~。


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