正論が刺さる
三人目の来訪者は、年配の女性だった。
声は穏やか。けれど、立ち姿がぶれない。
「ここが……苦情係、ですか」
「はい」
優斗が答える。
女性は、ゆっくり息を吸った。
「怒っているわけじゃありません」
この前置きは、
だいたい一番効く。
「ただ……困っているんです」
カレンは、黙って聞く側に回った。
「最近の料理、確かに便利です」
「簡単で、失敗しなくて」
「忙しい人には、助かるでしょう」
優斗が、少し安心した顔をした、その瞬間。
「でもね」
来た。
「『それで十分だ』と言われると」
「胸が、少しだけ苦しくなるんです」
「……」
「私は、料理が好きでした」
「時間をかけて、失敗して」
「それでも作るのが、好きだった」
「でも今は」
「『 意味がない』って言われている気がして」
カレンが、思わず口を開く。
「誰も、そんなこと――」
「言っていません」
女性は、はっきり遮った。
「でも、そう聞こえるんです」
静かだった。
「便利なものが悪いとは、思いません」
「ただ……」
女性は、少しだけ視線を落とす。
「頑張らなくていい、が」
「頑張る人を、要らないに変えてしまうなら」
「それは、ちょっとだけ、つらい」
正論だった。
きれいで、否定しづらくて、
そして、深く刺さる。
優斗は、すぐに答えられなかった。
カレンが、代わりに言う。
「……それ、正しいです」
女性は、驚いた顔をした。
「便利は、選択肢で」
「正解じゃない」
「誰かの『楽』が」
「誰かの『好き』を潰すなら」
「それは、使い方が悪い」
少し乱暴だけど、
逃げていない言葉だった。
女性は、しばらく考えてから、
ふっと笑った。
「……そう言ってもらえると」
「少し、楽になります」
立ち上がる。
「苦情というより」
「確認、だったのかもしれませんね」
去り際に、ひとこと。
「ありがとう。ちゃんと、聞いてくれて」
女性がいなくなってから、
優斗が小さく息を吐いた。
「……今のは、正論だ」
「でしょうね」
カレンは肩をすくめる。
「でも人それぞれよ」
「丁寧に作りたきゃ、作ればいい」
「それだけ」
「アタシは、湯漬けだけどさ」
腕を組む。
「正論」
「でも、人それぞれ」
看板が、
風に揺れた。
――苦情係(試験運用)
文字が、
少しだけ重く見えた。
女性が去って、
相談所の前に、短い静けさが落ちた。
優斗は、帳面に何かを書き足している。
カレンは、腕を組んだまま、空を見ていた。
「……次、来ないといいわね」
その願いは、
だいたい叶わない。
「おい」
低い声。
振り向くと、
がっしりした体格の男が立っていた。
作業着。
腕に、油と土の汚れ。
「ここが、苦情係か」
「はい」
優斗が答える。
男は、腕を組んだ。
「料理の件だ」
カレンが、内心でため息をつく。
(はいはい、何派よ)
「正直に言う」
男は言った。
「助かってる」
優斗が、顔を上げる。
「朝、時間がない」
「体もきつい」
「でも、腹は減る」
「だから」
「簡単に食えるのは、ありがたい」
――さっきの女性とは、真逆だ。
「だがな」
男は、続ける。
「最近、文句を言われる」
「……誰に?」
カレンが聞く。
「家の者だ」
「『ちゃんとしたものを作れ』ってな」
優斗が、はっとする。
「それは……」
「俺は、思うんだ」
男は、まっすぐ言った。
「生きてりゃ、十分だろ」
空気が、少し張る。
「腹を満たして」
「倒れずに働いて」
「それの、何が悪い」
「……」
「『ちゃんと』って言葉がな」
男は、苦く笑った。
「一番、重い」
正論だった。
さっきとは、逆向きの。
カレンが、口を開く。
「それも、正しいわ」
男が、意外そうに見る。
「便利な料理が」
「誰かを救うのも、事実」
「頑張れない日だって、ある」
「頑張らなくていい日も」
男は、黙って聞いている。
そのとき。
「……でも」
カレンは、言葉を切った。
「それで、
『頑張る人』を黙らせたら」
「さっきの人と、同じことになる」
男の眉が、寄る。
「黙らせるつもりはない」
「わかってる」
カレンは、即答した。
「でもね」
「正論って、当たってるほど、刺さるのよ」
優斗が、静かに入る。
「……どちらも、間違っていません」
二人が、優斗を見る。
「便利は、救いになる」
「でも、誰かの価値を下げる理由には、ならない」
男は、少し考えた。
「じゃあ、どうしろってんだ」
沈黙。
カレンが、肩をすくめる。
「選べばいいのよ」
「今日は、楽をする日」
「今日は、ちゃんと作る日」
「どっちも、『ちゃんと生きてる』」
男は、鼻で笑った。
「器用な言い方だな」
「受付やってるからね」
カレンは言う。
「きれいな言葉で、本音を包む仕事」
優斗が、小さく補足する。
「……包みすぎて、わからなくなることも、ありますけど」
男は、しばらく黙っていた。
やがて、息を吐く。
「……わかった」
「文句を言うな、とは言わん」
「でも」
「押し付けるのは、やめる」
「それで十分です」
優斗が言った。
男は、背を向ける前に、
ぽつりと言った。
「助かってるのも、本当だからな」
去っていく。
その背中を見送って、
カレンが言う。
「……はい、衝突」
優斗が、帳面を閉じる。
「正論と正論が、ぶつかりました」
「どっちも、間違ってないのが、厄介よね」
風が吹く。
看板が、また揺れた。
――苦情係(試験運用)
優斗は、ぽつりと言った。
「……これ、増えていくやつ」
カレンは、苦笑した。
「ええ」
「でも」
一歩、前に出る。
「だから、苦情なんだわ きっと」
二人の前には、
まだ人影が見える。
正論を抱えたまま、
順番を待つ人たちが。
この国は、静かに、揺れ始めていた。




