店が噂になりはじめる
その日、
店はいつも通りだった。
油の匂い。
煮込みの残り香。
のほほんとした店主。
――ただし、客の顔ぶれだけが違った。
「……増えてない?」
カレンが、カウンター越しに小声で言う。
「増えてるね」
優斗は即答した。
昼下がり。
本来なら、近所の常連が二、三人で終わる時間帯だ。
なのに今日は、
席が半分以上埋まっている。
装備の軽い旅人。
妙に姿勢のいい兵士。
耳の長い客。
フードをかぶったまま動かない影。
「昨日の話、聞いた?」
「例の店だろ?」
「異国の料理があるって」
ひそひそ声が、
湯気みたいに立ち上る。
「異国風、ハート卵とお湯ごはんです」
店主は、いつも通りの調子だった。
「……それ、本当に料理か?」
「生存だそうで」
「生存……?」
客の一人が首をかしげ、
別の客が吹き出した。
「それ、噂になってるぞ」
「噂?」
「『何も考えずに食える飯』だって」
カレンの眉が、ぴくっと動く。
「なにそれ」
「疲れてるときにいいらしい」
「戦の前に気持ちが落ち着くとか」
「失敗しないのがありがたいとか」
優斗は、胸の奥がちくっとした。
(……言ってないのに)
確かに、そんな話はした。
でも、ここまで具体的ではなかったはずだ。
「俺の部隊でも、話題になってる」
兵士らしき男が言う。
「味は普通らしいな」
「普通です」
優斗は、正直に答えた。
「でも、なんか……気が抜ける」
「それだ」
兵士はうなずいた。
「それがいい」
カレンは、嫌な予感しかしなかった。
「ちょっと待って」
「それ、完全に意味が盛られてる」
「噂って、そういうものだよ」
店主は、にこにこしている。
「歩き出すと、勝手に育つ」
そのとき。
「……それ、誰が教えた?」
フードの客が、低く聞いた。
店の空気が、一瞬だけ締まる。
「異人がいるって」
「不思議な料理を出すって」
「王都の端で、変な店があるって」
フードの奥で、視線が動いた。
優斗は、なぜか背中が冷えた。
(まずい)
カレンも、同時に気づく。
引き寄せている。
好奇心も、疲労も、
厄介な注目も。
「……ねぇ」
小声で言う。
「私たち、静かに暮らすルート、もう消えてない?」
「……たぶん」
優斗は苦笑した。
店主は、帳面を閉じる。
「今日の分、売り切れだねぇ」
客たちが、一斉に残念そうな声を上げた。
「また来る」
「明日もやる?」
「友達連れてくる」
――やめて。
カレンは、
心の中で叫ぶ。
でも、誰も聞いていない。
客が帰ったあと、
店は静かになった。
「……噂、止められます?」
優斗が聞く。
店主は、少しだけ困った顔をした。
「無理だねぇ」
「美味しい噂じゃなくても、
『気になる』ってだけで、人は来る」
カレンは、深くため息をついた。
「異世界でも現実でも……ほんと、人って一緒」
そのとき、
カウンターの下で、
火が小さく揺れた。
誰も触っていないのに。
優斗は、それを見なかったことにした。
カレンは、見なかったふりをした。
でも二人とも、同じことを思っていた。
――これは、
もう『日常』じゃない。
静かな店は、確実に、噂の中心になり始めていた。




