長老のため息
長老は、王様の背を見つめながら、
胸の奥で静かに息を吐いた。
――また、ルシアン。
この名を、
いったい何度、耳にし、
何度、自分も口にしたことだろう。
王座の間には、かすかな風が流れていた。
高い窓から射し込む光が、
床の石に白く落ちている。
その光の中で、
王様の肩が、ほんの少しだけ沈んで見えた。
背は大きい。
国を背負い、民を守る者の背中だ。
誰よりも強く、誰よりも高い場所に立つ男の背。
だが今は、一人の夫であり、父であり、
ただ一人の人間の背中にしか見えなかった。
かつて王様には、ひとりの姫君がいらした。
生まれつき病弱で、長く床を離れることのできない姫だった。
城の庭を駆け回ることも、
遠い街へ旅立つことも叶わず、
窓辺から世界を眺める日々。
それでも姫は、笑った。
王様の前では、必ず笑った。
その名を、ルシアンとお呼びだった。
春の風のような、やわらかく、あたたかな名だった。
姫が世を去った日、
王様は、誰にも何も命じなかった。
盛大な喪の儀も行わず、
城はひどく静かになった。
泣き声も、怒号もなく、
沈黙だけが、
王様の衣を引きずるようについて回った。
ただ、翌日。
白い子猫が、王宮に迎え入れられた。
雪の欠片のような色をした、小さな命だった。
誰が連れて来たのか、
どこから現れたのか、
詳しく知る者はいない。
それからだ。
白い猫はすべて、
ルシアンになった。
新しく生まれても、
別の猫と入れ替わっても、
いつの間にか姿を消しても、
名だけは、変えられなかった。
王様は、わかっておられる。
今日、膝の上にいるこの猫が、本物ではないことも。
あの姫でもなければ、最初の白猫でもないことも。
毛並みも違う。
目の色も、少し違う。
それでも――
王様は、膝の上の温もりに手を伸ばすことなく、
まるで壊れ物を預かるように、
ただ、受け止めていた。
名を呼ぶ限り、
失ったものは、
完全には消えない。
呼びかける声がある限り、
そこに“いた”という事実だけは、
この世界から追い出されずに残り続ける。
それが、王様が王であり続けるための、
最後の支えだった。
国を治める知恵でも、
剣でも、
威厳でもなく、
膝の上の、
小さな温もり。
それにすがることを、
誰が責められるだろうか。
長老は、そっと目を伏せた。
胸の奥に、
かすかな痛みが走る。
――陛下。
泣いてくださっても、
よろしいのです。
そう言いかけて、
言わなかった。
王様は泣かない。
泣くことを、自らに許さない。
だからこそ、名を呼ぶ。
だからこそ、今日もまた――
白い猫は、ルシアンと呼ばれる。




