表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

20/41

ふたたび苦情係



数日後。


優斗は静かに机に向かっていた。

窓の外では、鳩が屋根を歩く音だけが聞こえる。


平和だった。


少なくとも――

戦争も、飢饉も、反乱もなかった。


ただ、国が臭かった。


理由は、一つではない。

はみ出した作物。

増えすぎた納豆。

どこからともなく漂う、ねばねばした幸福と混乱の匂い。


王宮も例外ではなかった。

豪華な扉にも、歴史ある柱にも、うっすらと「発酵の気配」が染みついていた。


扉がノックされた。


「どうぞ、お入りください」


長老だった。


いつもより、ほんの少しだけ疲れている顔をしていた。

背筋は伸びているのに、影だけが重い。


「白井優斗さま」


声は落ち着いている。

だが、その奥に沈むものは隠しきれていない。


「もうご存じかもしれませぬが……」


長老は分厚い書類の束を机に置いた。


どさっ。


紙がずれた。

雪の塊のように、机の端からこぼれ落ちそうになる。


題名が目に入った。


『国民陳情書』


黒々とした文字が、妙に主張していた。


「……多くないですか」


優斗は、乾いた声で言った。


「控えめに申して、雪崩でございます」


長老は深くため息をついた。

ため息が重力を持って、床へ落ちる。


「作物が育ちすぎて収穫が追いつかぬ」

「納豆が強すぎて家から出られぬ」

「子どもが元気すぎて寝ない」

「外国人が転ぶ」


最後の一行で、優斗は視線を逸らした。

心当たりが、多すぎた。


「これらを受け止める窓口が、どうしても必要なのです」


長老は優斗をまっすぐ見た。

逃がす気のない目だ。

しかし責めてはいない。

ただ、頼っていた。


「再び――苦情係を、お引き受け願えませぬか」


部屋の空気が、少しだけ重くなった。


優斗は、少し考えた。

考えないふりをして、ちゃんと考えた。


「……戻る、ということですか」


「戻る、というより――もはや、そこが本職でございましょう」


その言葉は冗談めいていたが、冗談ではなかった。


遠くで誰かが叫んでいた。


「納豆が! 納豆が増えてます!」


もうツッコむ気力はなかった。

増えるな。発酵するな。落ち着け。

心の中でだけ、全方向にツッコミを投げる。


優斗は目を閉じた。


面倒くさい。

できれば、静かに昼寝していたい。

だが――放ってはおけない。


放っておけば、もっと面倒くさい未来が来る。

それだけは、確信していた。


「……わかりました。苦情係、お引き受けします」


自分でも驚くほど、声は静かだった。


長老は静かにうなずいた。

ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。


「感謝いたします。この国は今、あなたのような方を、最も必要としております」


優斗はもう一度目を閉じた。

深く、息を吐く。


世界を救う仕事ではない。

英雄譚でもない。


それでも――誰かが困っているなら。

相談は積もる。

陳情書は雪崩になる。


こうして――


白井優斗は、再び苦情係に戻った。


まずは、戦争ではない。

まずは、魔王でもない。


まずは――この国の匂いだ。


窓の外から、風が吹き込んだ。

発酵した勇気と、ねばついた希望の匂いが混ざっている。


優斗は小さくつぶやいた。


「……だが、この国の匂いをどうにかしなくては」


その瞬間、廊下から声がした。


「長老さまぁー! 納豆、天井に届きましたー!」


平和だった。

たぶん。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ