空から何かが降ってきた
長老は静かに目を閉じ、しわの刻まれた指を組んだ。
「今年の日照りは、例年のそれとは違う」
乾いた風が王宮の回廊を通り抜けた。
井戸は底を見せ、畑の土はひび割れていた。
「雨の祈祷祭も行った。神官も巫女も、すべての儀式を尽くした。
……それでも、一滴も降らなんだ」
王は言葉を失っていた。
民の暮らし、畑、家畜――すべてが静かに削れていく音だけがした。
長老は優斗たちを見た。
「だからこそ、ドラゴン退治に頼らざるをえん。だが、それを断るのであれば」
その先の言葉は風にさらわれ、不穏さだけが部屋に残った。
雨を降らせろ、と言うのか!!
そんなむちゃな。
どうしよう。
優斗は、失敗する予感しかしなかった。
カレンが指で髪を弄びながら言った。
「どうしようもこうしようもないわ。やってみてダメなら、
『今日は魔力が足りないようです』って逃げたらいいのよ」
当日。まるで祭りの日のような賑わいだった。
期待に沸く観衆に見守られ、優斗はおののいた。
(に、にげたい)
カレンは思った。
(間抜けだけど優斗は逃げない。それだけは信用してる)
突如、威厳のある低い声が響いた。
「できるな」
「では、降らせよ」
王の声は晴れやかだった。
城下町の空に雲が集まり始めた。
優斗は魔石を握りしめた。
(雨……恵み……頼むから、普通の……)
(派手に詠唱したらいいわよ)
カレンが呟いた。
優斗は震え声で唱えた。
「こ、ここに光は裂け、影は満ちた。
我らが祈りを代価として、豊穣を……た、たぶん祈ろう。
出でよ、水の精、グラントラスよ。
えっと……その、力を見せてみよ!」
(グラントラスってなに?)
カレンが小声で囁いた。
間。
長い。
もっと長い。
咳払いの音がひとつ。
子どもが泣きそうになる気配がひとつ。
そして――空は晴れていった。
民衆は大きなため息をついた。
さらなる間。
期待の間。
ポツリ。
何かが降ってきた。
――雨だ!!!!!
優斗はそう思った。
日頃の行いがいいから助かったんだ。ありがとう、神様。
落ちてきた。コロっとした何か。
「何?」
地面に落ちたそれは、水音ではなかった。
ねばりつく、鈍い音。
「……え?」
優斗が見上げた瞬間、空が暗くなった。
違う。
雲ではない。
無数の茶色い粒が、空一面に広がっていた。
次の瞬間。
ボトッ。
ボトボトぼとっ。
ねばりつく音に遅れて、鼻を刺す匂いが広場を覆った。
顔に、何かが張りついた。
糸を引いていた。
「……糸?」
納豆だった。
雨のように。
いや、雨よりたちが悪かった。
発酵という名の暴力。
「……なに、これ」
カレンの声は引きつっていた。
足元で納豆が糸を引いた。
引く。
引く。
切れない。
踏めば伸び、逃げれば追ってきた。
誰かが悲鳴を上げた。
王室傭兵が剣を抜いたが、切ったところで何も解決しないことに気づき、ゆっくりと剣を戻した。
空から、納豆が降り注いだ。
王は無言だった。
ただ、糸が王冠にまで届いていた。
(……終わった)
優斗は思った。
国が。
城が。
人生が。
そのときだった。
「……待って」
カレンが静かに言った。
絶望の真ん中で、
なぜか一人だけ、目を細めていた。
「これ、使い道あるわ」
「待ってください!」
「申し上げます!」
カレンは一歩前に出た。
「この納豆は、ただの食べ物ではありません」
ざわめき。
「納豆菌という、目に見えぬ生命が宿っております」
「その生命は大地を肥やし、作物を強くし、病を遠ざけます」
長老が眉をひそめた。
「そのような証は?」
「ございます」
カレンは即答した。
「畑です。納豆を水で溶き、畑に撒いてください」
「すると土は息を吹き返し、作物は勢いを増します」
「この粘りは、命をつなぎ留める証」
「健康な民は、よく働き、よく国を支えます」
王はゆっくりとうなずいた。
「……つまり」
「これは、豊穣の雨ということか」
「はい」
「臭いと申される方もおられるが――」
「効く薬ほど、強い匂いがいたします」
数日後。
城下の畑では芽吹きが異常なほど早かった。
農夫たちは土の黒さに目を見張った。
(……それ、テレビで見たやつだ)
優斗は何も言わなかった。
その効果はすぐに現れた。
城下の畑では芽が一斉に噴き出すように伸び、
麦は人の腰ほどに育ち、豆は木のように実をつけた。
農夫たちは目を疑った。
「成長が……早すぎる」
収穫量は例年の三倍だった。
しかも、民は病に倒れなくなった。
風邪は流行らず、腹を壊す者も減り、老人は背筋を伸ばして畑に立った。
王は大いに満足した。
「素晴らしい」
「この国は、豊穣に満ちておる」
問題は、匂いだった。
最初は苦情が殺到した。
「臭い!」
「鼻が曲がる!」
だが、次第に声は減っていった。
「……まあ、健康にはいいらしい」
「慣れると、悪くない」
やがて旅人たちは、こう呼ぶようになった。
――納豆の国。
「ね?」
カレンは胸を張った。
「健康で、お腹いっぱい。ちょっと臭いくらい、安いもんでしょ」
優斗は遠い目をした。
王は満足そうにうなずいた。
「よい。この匂いこそ、我が国の繁栄の証よ」
優斗は困惑した。
久しぶりにバケツに水をため、顔を浸けた。
(みんなぁぁ――まちがっているぞおぉぉぉ――)
叫びは水面に吸い込まれていった。




