ようこそ異世界へ。カレンはだいたい平気
世界が、ゆっくり逆さまになった。
天井の灯りが滲んで広がる。
水に溶けるインクみたいに揺れながら、足元の方へ流れていく。
「――あ、これ、夢……じゃない」
口にしてから、自分の声が少し他人事に聞こえた。
その瞬間、足場が抜けた。
落ちていく。
落下の衝撃だけが、やけにリアルだ。
その現実感が、少しだけ――怖い。
***
coolズの新曲……
聴いてたのに――
「もうっ、イヤんなる」
この声?
だれだ。
……女性の声だ。
聴いたことがある。
耳が、勝手に反応する。
僕は、あたりを見回した。
褐色の土の匂い。
見たことのない草木。
小道は舗装されていなかった。
「あんた、なんでアタシの夢にまで出てくるわけ?」
体が、わずかに震えている。
それが寒さのせいか、名前のせいかは分からない。
「……夢じゃないよね?」
カレンは、ふいっと顔をそむけた。
その横顔は、昔より大人びて見えるのに、機嫌の悪さは相変わらずだ。
「知らないわよ。気づいたら、あんたが倒れてたんだから」
僕は、自分の体を見下ろした。
紺のスーツ。
しかも、苦情受付用のやつ。
ネクタイは少し緩んだまま、胸ポケットにはペン。
革靴だけが、場違いにピカピカだ。
「……最悪だ」
「なにが?」
「異世界に来てまで、仕事着って」
「アタシも最悪よ。
へんな世界に来てまで、あんたと一緒なんて」
カレンは自分の格好を一度見て、肩をすくめた。
「アタシはまあ、あんたよりマシな恰好だわ」
――いや、マシじゃないだろ。
優斗は心の中で即座に否定する。
スカートにブレザー、ブラウスの胸元には赤いリボン。
土と草しかないこの世界では、どう考えても浮きすぎている。
それなのに、目が離せなかった。
過去の痛みと、言葉にならないモヤモヤが、胸の奥で絡まり合う。
……ってか、気にするとこ、そこ?
何を着てるかなんて、重要度で言えば百位くらいだ。
今はそれより、どうしてこうなった?
ここはどこなのか。
遅れて、恐怖が押し寄せてきた。
「優斗、大人になってんじゃん」
カレンが、訝しそうに言う。
――それも、どうでもいい。
そのときだった。
遠くから、視線を感じた。
ひそひそ。
ひそひそ。
道の向こうに、数人。
布と革でできた服。
腰には剣。
「……ねえ、優斗」
「うん。たぶん、見られてる」
「たぶん?」
「いや、がっつり」
一人が、こちらを指さした。
もう一人が、何かを叫ぶ。
意味は分からない。
でも、雰囲気は分かった。
あ、これ。詰んだやつだ。
「ちょっと、なんで逃げないの?」
「逃げたら、追いかけられる」
「フン、まるで犬みたいね」カレンが鼻で笑う。
「追いかけられてる気がするんだけど!」
やっぱり。
「一緒に走るよ」
カレンの手を取り走った。
いつの間にか、距離は縮んでいた。
屈強そうなひげ男が、低い声で言う。
「……貴様ら、どこから来た」
分からない言葉。
なのに、なぜか意味は伝わる。
僕は、反射的に答えていた。
「ええと……怪しい者じゃありません」
男たちは、顔を見合わせる。
次の瞬間。
腕を、がっしり掴まれた。
「ちょっ、話せば分かります!」
「分かるわけないでしょ!」
カレンが叫ぶ。
でも、抵抗はできなかった。
気づけば、
僕たちは『連れていかれる側 』になっていた。
「……ねえ、優斗」
「なに?」
「これ、誘拐?」
「たぶん」
「断れないの?」
「うん。もう、流れができてる」
剣の柄が、すぐそこにある。
誰も、僕たちに選択肢をくれなかった。
――ああ。
ここでも、役目はもう決まってるらしい。




