ネコがいなくなった後
翌朝。
目覚ましが鳴った。
(二度寝したい)
二度目、けたたましく鳴った。
(うるさ…)
こんなに鳴る目覚ましだったっけ。
(……まあ、鳴るか)
のろのろと顔を洗って、
昨日と同じ服を着る。
駅までの道も、
いつもと同じだ。
同じ電柱。
同じマンホール。
同じため息。
掲示板の前を通る。
少し端がめくれている。
そこに貼られた、下手な似顔絵。
(今どき、手書きの似顔絵なんて珍しい~で終わってしまいそうだ)
(そして、たいていは戻るんだよな)
そう思いながら、
その下を通り過ぎた。
夕方、また声をかけられた。
「まだ、戻ってなくて……」
「あ、そうですか」
(猫はそういう生き物です、なんて言おうものならどんな反撃をくらうか分からない)
それでも、気にはなる。
帰り道、
なんとなく下を見て歩く。
ゴミ袋とか、車の下とか。
うっかり、見てしまう。
(あー……戻らないやつも、あるな)
(平井さん家には、どこからともなく来た猫が三匹もいたっけ)
(そのまま飼ってしまうのも、すごいけど)
会社に着くと、もう電話が鳴っていた。
「すみません、昨日の件なんですけど」
声は、普通だった。
怒鳴り声でも、泣き声でもない。
「対応が遅いって、近所で噂になってまして」
「あ、そうですか、すみません」
(とりあえず謝っておくと話が短くなる)
「それでですね、今朝もゴミ置き場が散らかっていて」
「確認します」
受話器を置く。
(そういうの町内会でやってくれ)
デスクの上には、昨日の書類と、今日の書類。
区別は、ない。世界は、そんなもんだ。
昼休み。
弁当を食べながら、
スマホを見る。
地域掲示板の書き込み。
『猫、まだ帰ってきません』
『対応が雑じゃないですか?』
『管理会社、ちゃんとして』
誰も、昨日のことは知らない。
僕の逆立ちも、ため息も、全部。
***
午後。
また電話。
「昨日の猫なんですけど」
一瞬、心臓がドキッとした。
「もういいです。それより、駐輪場の件で――」
「……はい」
話は続く。
猫は、話題にならなかった。
***
定時。
帰り道。
例の場所を通る。
アスファルトは、もう乾いていた。
何も、残っていない。
(ああ、そうか)
世界は、ちゃんと片付く。
僕がいなくても。
物事をやたらと分析してしまう癖がある。
正直……自分でも、めんどくさい性格だと思う。
例えば――カレンのことだ。
嫌がらせをしてきた、あの頃。
どうするのが正解だったんだろう。
父は、よく言っていた。
「暴力に、暴力で返すな」
「女の子は、大事にしろ」
……女の子と言っても、カレンなんだけど。
「白井。消しゴム、拾って」
もし、あのとき。
「僕の消しゴムじゃないからイヤだね」
「でも、好きな女の子のなら拾うかな。お前のは、ヤダ」
そう言っていたら、どうなっていただろう。
ぐしゃっと丸められたプリントが机に入っていた日のことも。
「お前が丸めたんだろ。じゃあ、お前のも丸めてやる」
そう言って、ぐしゃっとして、ポイ。それで終わらせていたら?
もっと極端に。
「今度やったら、ぶつぞ」拳を振り上げていたら?
僕の人生は、もう少しマシになっていたんだろうか。
いじめには、周囲の視線という燃料がある。
もし僕がキツイ態度をとっていたら、周囲はどうするだろう。
カレンがかわいそう、になるのか。
僕に同情が集まるのか。
子供の頃は、顔がいい、成績がいい、面白い、運動ができる――
そんな子に人気が集まった。
まぁ、大人になってからもそうか。
たぶん容姿が良く、人気もあったカレンに、周囲は寄り添うだろう。
それでも言うべきだった。
「僕も、ツライんだ」って。
本当は、机を投げ飛ばしたかったけど。
人を大事にするって何なんだろう。
自分を大切にするって、どういうことだろう。
世間の判断基準は、どこにある?
善悪の境界線は、誰が引く?
***
家に帰って、洗面器に水をためる。
(もうね、おばあさんがいなくなったとか……そういうのは、ほんとやめてください)
(それは、僕の案件じゃないですから)
神様、仏様、
なんならキリスト様。
今日は、タマリンだけでお願いします。




