いじめられっ子だった僕が、苦情処理係になりました2026/1/14_4:59:50
教室は、まだ朝の匂いがしていた。
白井優斗は自分の席にカバンを置き、一度だけ前の席を見た。
黒咲カレンは、もう来ている。机に肘をつき、窓の外をぼんやり眺めていた。
(今日は、静かだといいな)
それだけ考えて、席に座る。
「おはよ、白井」
来た。名前を呼ばれただけなのに、お腹のあたりがきゅっとなる。
「……おはよう」
できるだけ普通の声で。眠そうでも嫌そうでもない声で。周りに聞かれても、何も起きないように。
黒咲は笑った。からかうみたいな、軽い笑いだ。
「今日も元気ないねー」
――君がいるからだよ。……とは、口が裂けても言えない。
「そう?」
短く返す。それ以上は言わない。
言い返したら、また空気が変わる。面倒な方向へ転がっていく。それが分かっている。
前に一度、「やめてくれ」と頼んだことがある。
そのとき黒咲は、冗談みたいに笑って言った。
「えー、ノリ悪っ」
その瞬間、教室の空気が白井のほうを見た。空気を悪くしたのは自分だ、という顔で。
それ以来、何も言わないことにした。
黒咲カレンは、わざわざ振り返って言った。
「白井。消しゴム、拾って」
足元に落ちているのは、僕の消しゴムじゃない。
「早くして」
声は大きくない。けれど、周りはちゃんと聞いている。
僕は立ち上がり、それを拾って机に置いた。
「はい」
「は? 誰に?」
少しだけ、間が空く。
「……黒咲さん」
それだけで、くすっと笑いが起きた。先生は、黒板に向いたままだ。
昼休み。
机を開けるとノートがない。代わりに、ぐしゃっと丸められたプリントが入っていた。
「なくしたの?」
黒咲カレンが言う。
「大事なノートなんでしょ。提出日だよね?」
僕は何も言わない。
言えば、どうせ――
「冗談じゃん」
そう返ってくるのは、もう分かっている。
「白井ってさ」
黒咲カレンは頬杖をつき、退屈そうに言った。
「ほんと、何も言わないよね」
僕は、笑おうとしてやめた。笑っている場合じゃない。
家では、父が言う。
――暴力に暴力で返すな。
――女の子は大事にしろ。
それが正しいことだと頭では分かっている。でも、正しい言葉は、いつも安全な場所にいる。
だから僕は何もしない。何もできない。
迷惑な正論のおかげで、僕はいじめられている。
放課後。
誰もいなくなった教室で、床に散らばったノートを拾い集めながら、僕は小さく呟いた。
「……役に立たない天使より」
声が机に吸い込まれていく。
「ちゃんとなんとかしてくれる悪魔を召喚したい」
返事はない。
僕は思う。イヤな奴がいるのは分かる。でも、いじめるのは違う。無関心でいい。だから君も、スルーしてくれ。
教室の扉の向こうで、黒咲カレンが一瞬だけ立ち止まっていた。振り返りはしない。もちろん声もかけない。
それでも、立ち止まったことを知ってしまった僕の心がうるさくなる。ここに置いていかれるのだけはいやだと騒いでいる。
カレンは、さっきまで教室で外を見ていた。
「ただいまぁ~」
返事はない。いつものことだ。
カレンは深くため息をついた。お母さんは忙しい。それにも、もう慣れている。
部屋に、ポツンとひとりだけ。
白井は、「おかえりー」って迎えられて、おやつに手作りプリンが出てきて、「今日はなにがあった?」って聞かれるって前に話してた。
……羨ましい。それで、腹が立つ。
白井のせいじゃないって、ちゃんと分かってるのに。
白井を見ると、ムカつく。
だから、つい。ちょっとしたことを言ってしまう。嫌がらせみたいなことを。
でも白井は怒らない。困ったみたいに黙るだけ。
それを見ると、またやってもいい気がしてしまう。
――怒られないなら、ここまでやっても平気なんだって。
***
商店街の一角に、揚げ油の匂いが漂っていた。
「いらっしゃいませー」
黒咲惣菜店。
ガラス越しに茶色いコロッケが、ずらりと並んでいる。
僕は戸を開けた。
「……あの」
カウンターの向こうで、カレンのお母さんがトングを動かしながら振り向いた。
「はい、なに?」
油の音が、会話を急かす。
「あの……黒咲さんのことで」
「すみません。やめるように言ってほしいんです」
「体操着を隠したり、机に落書きしたり、靴に砂を入れたりして……」
「一番困るのは、給食のプリンを取られることなんです」
一瞬だけ、手が止まった。すぐにまた動き出す。
「カレンが、学校で……」
「ごめんね」
被せるように言われた。
「この通り、忙しくて」
鍋に衣が落ちる。パチパチと油がはねる。
「朝から晩まで店でしょ。ちゃんと構ってあげられてないの」
それは言い訳じゃなかった。ただの事実だった。
「だから……寂しいのよ、あの子」
(分かりますよ。でも、その代わりに僕がいじめられるわけ?)
トングが紙袋をつかむ。
「これ、持っていって」
紙袋は、ずっしりと温かい。
「お家で、食べて」
(受け取りながら言うのもなんだけど、そこはプリンだろ)
油の匂いが鼻に残る。
「カレンには、ちゃんと言っておくから」
(お願いします。本当に)
店を出る。
夕方の空の下をとぼとぼ歩きながら、僕はなんとなく分かってしまった。
加害者と被害者の境界線は、思っていたよりずっと曖昧だ。
少しはマシになるかと期待したが……カレンは相変わらずだった。
何も変わっていない。
変わったのは、僕のほうだった。
いじめっ子が赤いボールなら、いじめられっ子は青いボール。
そして、何もしない傍観者は黄色いボールだ。
世の中には、その三種類しかいない。昔から、ずっとそうだった。
***
──どうやら白昼夢を見ていたらしい。
よだれを拭きながら、苦笑する。
僕は白井優斗。
今の僕は、『現代版の青いボール』。
電話が鳴る。
受話器に手を伸ばす。
──総合相談・苦情処理係だ。




