アイデンティティの揺らぎ
――夜。
森の外れ、小さな焚き火の炎がパチパチと音を立てていた。
戦いを終えたばかりの一行は、木の幹に背を預けたり、薪をくべたりしながら、それぞれの時間を過ごしている。
バルドは腕を組み、まるで鎧のような胸板を誇示しつつ豪快に笑い、セラは真剣に祈りを捧げ、ジャックは木の枝をナイフで削っていた。
彩花はというと、焚き火の前に座り込み、ぼんやりと炎を見つめていた。
オレンジ色の光が、分厚い腕と鎧を照らし出す。けれど、その中身は“ただの女子高生”である自分。
(……私は、誰なんだろう)
プロテインベアを一撃で吹き飛ばした筋肉。
村人に「広背筋が神々しい!」と褒められた力。
仲間に「英雄」とまで呼ばれる存在感。
(いや、違う……本当は、ただの甘党女子高生で……放課後はコンビニでプリンを選んでたんだよ……)
胸の奥がじんわりと痛む。
焚き火の炎に照らされた自分の手を見つめると、そこには“ゴリラみたいな分厚い手”しかなくて、思わず苦笑いが漏れた。
彩花は小さく息をつき、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
「……この世界で私は……誰なんだろう」
焚き火の火花が弾け、静かな夜空に吸い込まれていった。
焚き火の火が勢いよくはぜた瞬間、バルドの低く響く声が夜空に轟いた。
「彩花!」
豪快に笑いながら、丸太のような腕をどんと膝に置く。炎の明かりで浮かび上がるその顔は、真剣さと誇りに満ちていた。
「お前の筋肉は国を救う! 迷うな。お前はすでに英雄だ!」
力強い断言に、彩花の胸がびくりと震える。
バルドにとって“筋肉”は存在そのもの。強き筋肉を持つ者が讃えられるのは当然で、彩花の葛藤など彼の価値観には存在しない。
(……英雄? 私が?)
彩花は焚き火を見つめながら、心の中でそっと反発する。
(違う……私はただの女子高生で、放課後にコンビニでプリン食べてただけなのに……なんで急に国を救う存在に……?)
握った拳が震えた。
その厚みも、強さも、称賛も――全部、彼女が望んで手に入れたものではない。
炎の光が揺れるたび、彩花の胸に重苦しい影が差していった。
焚き火の炎が小さく揺らめく。
その光をじっと見つめながら、ジャックがぽつりと口を開いた。
「……オレはさ」
少し照れくさそうに、木の枝をナイフで削る手を止める。炎に照らされた彼の横顔は、バルドの豪快さとは正反対に繊細で、どこか不器用だった。
「強くなったのはいいことだと思う。実際、村も救ったしな」
少し間を置いてから、彼は目を伏せたまま続ける。
「でもさ……オレは“彩花らしさ”も大事だと思うんだ。甘いもん好きとか、普通の女子っぽいとことか……そういうのも含めて、彩花だろ」
彩花の胸の奥に、じんわりと温かいものが広がった。
誰も理解してくれなかった“自分らしさ”を、初めて肯定してくれる言葉。
「……ジャック……わかってくれるの?」
思わず声が震え、視界がぼやける。涙腺が緩んで、頬を熱いものが伝った。
(よかった……この世界にも、私を“女子高生”として見てくれる人がいる……)
ほんの少しだけ、重くのしかかっていた筋肉の呪縛から解放された気がした。
焚き火の炎が静かに揺れる中、セラは両手を胸の前で組み、真剣な眼差しを彩花に向けた。
その瞳は祈りの時と同じように澄み切っていて、迷いがひとかけらもない。
「彩花……神はお前に奇跡を与えたのだ」
焚き火の炎が彼女の横顔を照らし、その影が柔らかく揺れる。
セラの声は凛としていて、説得というより“宣告”のように響いた。
「受け入れよ。お前の筋肉は神の導き。偶然ではなく、必然だ」
彩花は思わず口を開きかけたが、声が詰まる。
その代わりに、心の中で叫ぶ。
(ち、違うの! 神様の奇跡なんかじゃない! 私がこんな体になったのは……ただの事故で、コンビニでプロテイン缶が落ちてきただけなのにぃぃ!!)
拳を握りしめる彩花の心は、信仰という名の重みでさらに揺さぶられていった。
焚き火の赤い炎がパチパチと木をはぜさせる。
静寂の中、彩花は唇を震わせながら、炎の揺らめきをじっと見つめていた。
「……でも、私……ほんとはただの女子高生で……2年B組で、プリン大好きで……」
かすれた声が夜に溶けていく。
涙が頬をつたい、火の光を反射してきらめいた。
仲間たちはその言葉に一瞬息を飲み、沈黙が広がる。
バルドも、セラも、ジャックも――それぞれの思いは違うのに、誰一人として笑わなかった。
豪快に励ますことも、信仰で押し通すことも、その瞬間だけは誰もしない。
ただ“彩花という存在”を見つめ、彼女がこの世界で特別であることを、黙って認めていた。
焚き火の明かりに照らされ、彩花の涙は小さな宝石のように輝き続けた。
焚き火のはぜる音だけが響く、少し重たい沈黙――。
その空気を吹き飛ばすように、突然バルドが腹の底から豪快に笑い出した。
「ガーハッハッハッ! よくわからんが! プリンを筋肉で作ればいいんじゃないか!」
「……は?」と彩花が固まった数秒後――
「そんなバカ理論で解決しないからぁぁ!!!」
炎に照らされた森に、彩花の絶叫が木霊する。
思わずジャックが吹き出し、セラですら肩を震わせて微笑んだ。
重くなりかけた雰囲気はすっかり霧散し、夜空に広がる星の下、焚き火の輪には仲間らしい温かさが戻っていた。
彩花は涙目のまま叫びながらも、胸の奥にほんの少し安心を覚えていた――。
重々しい扉を押し開けた瞬間、全員の背筋に冷たい風が走った。
そこは、闇に閉ざされた広間。中央の玉座に鎮座するのは、マッスルドラゴン――全身を硬質な筋繊維で覆い、まるで鎧のように膨れ上がった怪物だ。鱗ではなく、隆起した筋肉そのものがきらめき、見る者に圧倒的な威圧感を与えている。
「ゴォォォォ……」
低く響く咆哮が、地鳴りのように床を震わせた。
バルドが即座に前に出る。
「構えろ! こいつは……格が違う!」
セラは胸の前でダンベルを握りしめ、真剣な眼差しで祈りを捧げる。
「神よ、我らの筋肉を導きたまえ……」
ジャックは木陰に滑り込み、短剣を構えながらも冷や汗を垂らす。
「ははっ……こりゃ、今までのとは桁が違うな……」
そして、怪物がゆっくりと口を開いた。
「……愚かな人間どもよ。我が領域に足を踏み入れし者よ……」
声は低く、岩を削るように重苦しい。
「――さて、貴様は何者だ?」
その問いに、広間全体の空気がさらに張り詰めた。
仲間たちは固唾をのんで彩花を振り返る。
彩花は……心臓がバクバクと跳ね上がるのを必死で押さえつけていた。
「な、何者って……そんな大層な答え、私……!」
言葉が喉まで出かかり――条件反射で、ぽろっと出てしまった。
「えっと……2年B組です!」
その瞬間。
広間全体が――シーン、と音を立てて凍りついた。
マッスルドラゴンの声が、壁を震わせるように重々しく響いた。
「――さて、貴様は何者だ?」
その言葉に、空気が張り詰める。
バルドもセラもジャックも、一斉に彩花へ視線を送る。
「わ、わたし……!?」
心臓がドクンと跳ね上がり、彩花の頭は真っ白になった。
(な、なに者って急に言われても! 女子高生って言ったら絶対通じないし、戦士って言ったらなんかカッコつけすぎだし!)
焦りすぎて、口が勝手に動いた。
「えっと……2年B組です!!」
――しん……。
広間が、まるで時間を失ったかのように静まり返る。
ドラゴンも仲間も、敵の取り巻きモンスターすらも、全員が石像のように固まった。
彩花は、言った瞬間に顔を真っ赤にしながら心の中で絶叫する。
(なに言ってんの私ぃぃぃ!! クラス自己紹介してどうするのぉぉぉ!?!?)
「えっと……2年B組です!!」
彩花の声がダンジョン最深部にこだました。
――シン……。
空気が一瞬で凍りつく。
闇の王者たるマッスルドラゴンですら、金色の眼を瞬かせ「…………?」と首をかしげた。
仲間たちも、動きを止めたまま石像と化す。
最初に口を開いたのはバルドだった。
「……二年……B組? なるほど、それは筋肉の階位なのか……!」
目を輝かせ、勝手に納得している。
セラは胸に手を当て、神妙に呟いた。
「まさか……神聖なる称号……。神が与えた新たな筋肉の階級……?」
一方ジャックは、額を押さえて呻いた。
「いや、クラス自己紹介すな!!」
彩花は頭を抱え、叫ばずにはいられなかった。
「違うからぁぁぁぁ!!!」
彩花の絶叫が、ダンジョン最深部に木霊した。
「二年B組ってのは! 階位でも称号でもないの! ただの学校なのぉぉぉ!! 体育の時間に嫌々走って、持久走でビリになってた、あの頃の私なのぉぉぉ!!!」
彼女の全力ツッコミに、マッスルドラゴンは大きな顎をガクガクさせた。
「……な、なに……? 体育? ビリ……? む、難解すぎる……!」
敵の咆哮は止まり、理解不能な概念に脳をフル回転させて硬直する。
その間に、仲間たちは体勢を整えていた。
バルドは剣を構え直し、セラは祈りのダンベルを掲げ、ジャックは背後に回り込む。
結果的に、彩花の“迷走ボケ”が敵の初撃を遅らせ、戦況を有利に導いていたのだ。
彩花(心の声):
「なんで私の黒歴史みたいな発言が、作戦的にプラスになってんのよぉぉ!!」
戦闘開始直前。
緊張感が最高潮に達したその時、背後からジャックが小声でつぶやいた。
「……でもさ、あれはあれで敵の動揺、誘ってたよな」
彩花は思わず振り返り、全力で叫ぶ。
「無意識でギャグ戦術にされるのは嫌ぁぁぁぁぁ!!!」
ダンジョン最深部に、彼女の悲鳴が木霊した。
マッスルドラゴンは一瞬まだ困惑した顔をして――
仲間たちは逆に吹き出しそうになるのを堪えつつ、戦いの構えを取った。
かくして、異世界のシリアス決戦は、またも彩花の“女子高生ボケ”で幕を開けるのだった。




